夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

野にあるごとく

2005年09月03日 21時23分20秒 | 芸術・文化
DATE: 09/03/2005 08:28:01

時々思うことがある。
美を追求し、作り出すことは、虚構を作り出すことだろうかって。

作家にとって、イメージしている美とは、真実と見えるのかもしれないし、あるいは実在を超えたものであるのかもしれないけど。
見る側にとってはそれは作者のイメージでしかない。

侘び、寂びを追求し、もてる感性とお金、そして手に入れられる全ての可能性をつぎ込んで茶室や庭を造ってもそれは虚構。
野にあるごとくと、活けられる花は、その虚構の中で、自然の匂いをつけるための虚。
美、そのものを追求すると虚構になるのだろうか。
その結果生まれる美は、真実なのだろうか、それともそれも嘘?

ところが若いアーティストたちと話していると、自分たちの作品、イメージが虚構であることに気がつかない人が多い。
虚構、嘘という言葉に反応しているだけだと思うけど、
嘘がなぜ悪い?

洋の東西を問わず、文化として根付いてきたものの全ては虚構の上に立っている、嘘っぽいもの。でもそれが本当の文化、芸術であれば、嘘を超えられるもの。

廓の文化にあこがれる人は多い。見る側ではそのきらびやかな文化に目を奪われるけど。それはドールハウス。客には一時の観劇であるけど、太夫たちにとっては、自分の一生を送る真実の世界。決して幕の降りることのない、自分の一生そのもの。
バーチャルな遊びといわれるけど、廓はバーチャルなものではなく、虚構の上に立つ真実の世界。そのようなものが沢山この世には存在する。

それがいけない?
自分をそのままさらけ出すことが他人に感激を与えるだろうか。
もしそうしたいのなら、よほどしっかりと自分を見据えて、他人をも揺り動かせるほどの真実をさらけ出さねば。「今日お風呂に入りました」程度では、誰もが気にもしなくなる。
なら虚構を築き上げるほうがもっと楽かも。
そして作る側にも、それがもっと楽に見る人を誘いこめる、感激を与えられるものかもしれない。

自然は美しい、美しすぎる。
だからそれを真似ること、それを土台にすることは、嘘の始まり。
でもそれが何が悪い?

人間が考えて、美しさを追求する。それは虚構かもしれない。でもそれが何が悪い?
嘘のない世の中。虚構のない社会、そんなものでは人間は生きられない。
それが解かるからこそ、人間がもっと愛しくなるし、自然がもっと大切になる。