さて新年のご挨拶がすんだところで
除夜の鐘をつきに行こうというのが去年の最後のイベントでした。近くの清水寺(といってもなんだか神社っぽいところですけど)で鐘をつかせてくれるというのです。歩いて行けるし、そこに決めたって思っていましたけど、、、、
大寒波だとか、、、なんだとか、かんだとか、心に浮かんできます。
おまけに、清水寺ではどうだか判りませんけど、鐘をつくのにお金を払わなければならないところもあるようで、神のご加護を金で売るのかなんてたんかきりたくもなる、、 お正月からとがっていては駄目ですよ。
なんちゃって、要するに行かない口実を探しているだけなのは見えみえなんですね。
結局、風呂に入ってベッドに直行。ちょうどそのころかかってきた友人と電話をしていましたら、はてもう元旦になったのにまだ鐘が鳴っている。
希望者が多すぎてさばききれなかったのでしょうかね。
それとも世の中が進化してくると、煩悩の数も増えてきて、年の終わりまでには間に合わなくなったのかしら?
目が覚めてみると、世の中は白けムード、じゃなくて空は白けてきています。
除夜の鐘からは名誉ある転進をいたしましたので、ご来光を拝むのには参りましょう。でも太東岬はちょっと面倒と、一番近い海岸に参りました。
なに車で5分かかるか10分かというだけの差なんですけど。地球の温暖化防止に協力しなければ。
いつもは人一人いない海岸がさすがに今日は車が一杯。
砂浜では大きな焚き火もされています。
いや、寒かった。北国の方には申し訳ないけど、寒いですよ。
それにしても、鴨川でしたっけ、大晦日に海岸で凄く大きな焚き火をたくさんするのは。それを見に行って、近くの山の上で凍えながらご来光を待ったことを思い出しました。古き良き時代でした。
ご来光の様子は写真で見ていただくことにして。(ご来光の瞬間の様子は
この前の日記に写真をアップしていますのでご覧くださいね)
冷凍状態にある我が身では初詣などとんでもない。冷たい心を神様に見せることになるってのは自分として承服できない。ということにして初詣からも、発展的転進!
家に帰りました。
まずは若水を汲んで、、、っていっても、蛇口を捻るだけのことですけど、温水だって出ますもんね。
あれ、母親に、正月を岬で過ごすのなら、父の位牌も持っていけって言われていたんでした。忘れてしまった。しまった!
顔を洗って、家では正月の朝は刃物を使わないことになっているらしいので、髭剃りは止め。
さて、元旦のお約束のイベント。
お屠蘇だ~
まずはお屠蘇。
1年前か2年前に屠蘇酸が欲しくって買ったみりんが開けないまま冷蔵庫に眠っています。これが使えるのかどうか、友人たちに聞いてみていたところ、大体が使えるんじゃないってことで、(それでおかしくなってたって、自分が悪くなるのじゃないから、どうでもいい、、ってのが見え見えでしたけどね)おそるおそるこのみりんと屠蘇酸を使いました。日本酒を混ぜるのですけど、甘口のものしかない。みりんはごくごく少量に控えましたけど、どうなっているでしょうか。
肴は実家からするめと昆布が送ってきていました。
するめは水いかって書いてありましたけど、肉厚の柔らかいするめ。食べてみると結構いけます。よしよし。
昆布も真昆布って書いてありましたけど、短冊に切ってみるとぼろぼろとかけてしまう。硬いのですね。仕方なく、冷蔵庫の出汁昆布を取り出して、できるだけ肉厚の部分を切りました。
鰹が問題。まだパックに入っているし、削り機もどこか発掘しないと出てこない。パス。
塩は食卓塩は綺麗に円錐にならない。他の塩は固まっている。これもパス。
なら、塩を盛る葉っぱも夜中に取りにいかなくてもいいやということで、、、
欠けたるものが多いスタートですけど、私にはそのほうが合っているみたいですね。
というようなことがあって、並んでいる屠蘇と肴。自分で注いで、自分で飲む。
いや、これこそ侘びの極み。お正月からなんと素晴らしい、、、、
(そうでもいわなきゃ、やってられないですよ)
でも負け惜しみでなくこのお屠蘇の美味しいこと。
お屠蘇をがぶ飲みしたのも、お屠蘇で酔っ払ったのもこれが始めて。
いや、人生、長く生きるといろんなことがあるものですね。
酔っ払った挙句がこの日記です。
こちらに来てこの日記を読む羽目になった貴方、ご苦労様です。
今年の悪運はこれを読むことで尽きてしまうでしょう。
今年はきっといいことがありますよ。
さて、食事と参りましょうか。
去年(正月早々去るなんて使うなって? 正月早々そんな末梢的なことを言うなですよね) 黒豆とか
お雑煮の日記のなかで書いていたかもしれませんけど、本来の我が家の元旦の料理って非常につましいもの。お雑煮も七草の入ったもので一言で言えば「不味い」 どう考えても「もう一杯」なんて言えたもんじゃない。七草なんて、南国の我が家ではこの時期でもその辺に行けば一杯生えているもの。子供心にも家は貧しいんだ、これじゃお年玉が少なくっても文句をいえないなって心に刻んでおりました。
お膳につけられる尾頭付きもこのときには箸をつけるだけ、これは後で料理して出されるのです。
でも今になって考えると、結構人数のいた家族でしたから一人一人に尾頭付きを出したらえらい散在ですよね。暮れにスーパーに行って鯛の値段を見ながら、ため息がでました。貧しいと思っていた実家よりも、ボクちゃんちはもっと貧しいんだ。一人分の尾頭付きも買えないや。
師匠にお作りになるお節を一人前追加して作ってくださいとお願いして、お重に詰めていただいたものを大晦日に頂いてきました。三段のお重に、大きな瓶やタッパーが付いてきている。入りきれなかった膾や酢ばす、黒豆がそちらに入れてありました。
人に見捨てられた山里のあばら家。こんな量、どうやったら消化できるのだろう。でも残したというとまた、意地悪されかねない。
お裏さんの袱紗捌きが好きだってちょっともらしたばかりに、去年のお稽古でも、「貴方は小習いからだから、まずはお裏さんの袱紗捌きをやってみましょうか」なんていいながら、こちらが思い出しながらやっていると、遠州さんの逆勝手のときの袱紗捌きをお話になっている。師匠、オーホッホって笑ってる場合じゃないんです。あの後ずっと袱紗捌きが判らなくなってきているんですからね。
遠州さんの炭手前がいいと言っている人がいましたなんてこの間お話していたので、
まさか、、、今日はお炭をやってみましょうか、遠州さんのはお分かりなんでしょうなんて、、、それはないですよね。手首がおかしくなったらどうしよう。
それにしても、師匠、貴女の重箱への詰め方は一体どこのやり方なんでしょうね。そりゃあれとあれは隣り合わせにはできないなんてのは判るけど、、、一の重、二の重って入れるものが大体決まってませんでした。一応、海山分けては入っているようですけど。
お節の詰め方によってこの方はどちらの方でなんて判るようなメッセージになっていたと思うのです。
まあ、去年、数の子は好きですけど、皮を取るのがイヤなので買いましたって申し上げていたら、数の子はなし。
でも
去年作った黒豆や
きんとんはブログの写真を見てよくできましたって花丸を頂きましたけど、たくさん入っていましたね。
水羊羹も分量を間違ったと嘆いていらっしゃいましたけど、美味しかったですよ。
今年は自分では白花豆を煮たんですけど、甘味がずいぶんとたくさんになりました。
今年は糖尿の道をまっしぐらってことになりそうです。
ビニール類は理由があります。これを頂いて、100キロ近くも走らなければならないからです。念のため。
さて重箱の隅を突っついて、早く食べろという指示のあったいか海胆を肴にお屠蘇をまたがぶ飲みして今日おは終わり。
今年の教訓。
お屠蘇はがぶ飲みするものじゃない。
もう寝ますね。
おやすみなさい。
皆様いい寝正月を。