昨日、ベーゼンドルファーとヤマハの事を書いたときに、知人が楽器の弾き比べをやったことに触れていました。終ってから、楽しかった、興味深かったって言われても、どこのホールでどんなピアノだっかた詳細がわからないので、ふんふんと思うしかなかった。
ベーゼンドルファーやベヒシュタイン、スタンウエイなどを比べたということは判っているけど、ベーゼンドルファーもインペリアルの1900年以前のものと後のもの、ベヒシュタインにいたっては近年のものは往時のものとは構造も、あのピアノの特徴である透明感も全く別物。スタンウエイは、むしろシュタンウエグとかボストンの方が特徴を出しているかもしれない。
もしそこまで考えてピアノを選び、ホールも選んだのなら、絶対にCDかDVDで記録しておいて欲しかった。あれだけたくさんのCDを出している人だから一枚くらい遊びがあってもいいじゃないか、なんてことを考えたり、、、
相変わらず長すぎる前置きの後で思い出しました、今日はホールのことを書くのでした。
このことはずいぶん前に書いたのだけど、アムステルダムの定宿で泊り客同士話をしていた。彼はそばのコンセルトヘボウに来ていたゲバントハウスがコンセルトヘボウでどんな音を出すのかに興味を持っていて、このオケは今までどこどこのホールで聞いて、あそこはこんな音色、ここはこんなところが素晴らしいとかといういろいろなホールでのオケの音色の違いを事細かに話してくれた。
ホールピッチとか残響、アクースティックという言葉では尽せないいろんなものを感じさせてもらってとても楽しい一日だった。
もっとも、最後のほうで、話が美術館のことにとび、私が東京の国立博物館がいかに官僚的であるかと悪口の限りを尽していたのだけど、彼もそうそうって相槌を返しながら一緒に嘆いてくれた。
翌朝、彼が出発するというときに名刺を交換したら、なんとその国立博物館の刀剣のトップだった、、、
私にしてみれば大トクイさま、それからますます国立博物館には行けなくなってしまった。
なんてまた話が横道にそれておりますぞ。
共鳴箱を持つ楽器はどんなところでも弾ける。上に述べたピアニストはイギリスのランズエンドの崖の上でピアノを弾いていた。(もっともこれはテレビの番組のためだけど) でもフルートなどは反響がなければただのすかすかのか弱い病気の音。とても聞いていられるものじゃない。オルガンのように部屋自体を共鳴箱として使う楽器もある。
プリバロックのあのめちゃくちゃなピッチは実は、おらが町の教会のオルガンのピッチであり、その教会の礼拝堂のピッチにあわせたもの。
歌っていていちばん心地よいピッチに何となくなってきたものがプリバロックのピッチの秘密。
だから場所によっては今のピッチよりもはるかに高いピッチもあるのですね。
(あの時代は多声法の時代であり、その影響を強く受けていた時代だから、ピッチよりもむしろ残響とアクースティックのほうが重要だったのかもしれない)
通奏低音に身を包まれながら、オブリガードの歌声にかき口説かれたら、無神論者でも改宗する。それは長崎という特異な場所で育ったのでよく判ります。年がら年中オラショと聖歌に囲まれていたのですから。
友人が東京のマリア聖堂で声明とグレゴリオ聖歌の聞き比べを企画しました。
あの僧侶(天台とカトリックの)の動き、歌、そしてその場の雰囲気。ローソクの光を反射する金きら金の道具たち、揺れ動く光と煤に満ちたなんともいえない摩訶不思議さ、、、これが見事に同じなのですね。
宗教というのは集団催眠の最たるものであるという気を改めて感じましたね。
演奏の前にオーボエがピッチを出していますね。
オケによって持っているピッチがあります。
もしかしたら、オーボエは最初はそのピッチでぷっと音を出してみて、「あれ、もうちょい高めがいいかな」なんて微妙に高く吹くかもしれません。まあ、弟に言わせるとその差はコンマ1とか2とかの差、つまり444ではなく444.3と444.4は区別がつかなければいけないということ。
もちろんデジタル的に4.5とか4.6というのが目の前にちらちらするのではなく、何となく高いとか低いって感じられる差のことなのですけどね。
これを持っていないと、オケでは弾いているうちに、管はピッチが上がってくる、弦は下がる、それを演奏の合間に調整しているのですけど、それができなくなって、自分だけが不協和音を奏でることになる。
下一桁の差になるとはっきりと444ですねっていえる人が殆どだから。
(人間にはどれくらいの微小な差が区別つくのかってよく書いていましたね。アゴーギクの問題は別にして、ピッチやメロディの中での微妙なテンポの取りかた、音の長さの取りかたなんかを書いていたら、これまた友人から、ロンドンにいたときにその関係の研究の手助けをした。本が出ているから読んでくれって言われてアマゾンで調べたけど、品切れで未だに読んでいない)
だから平均率になる前の絶対和音で育ってくれば、平均率のあの濁りはがまんできないかもしれないけど、でも平均率を使わなければバロック以降の和声の進行も困難。
仕方ないんですね。
おおい、ホールのピッチの話はどこへ行った?
長くなるからそれはまた次の機会にしましょう。
ちょっとカテゴリーの芸術・文化で見ていましたら、「自分の音 ホールの響き」というのを書いているのを見つけました。この中にリンクで上の話一部の日記へ飛ぶようになっていますので、もし気になる方は見てみてください。
お恵み深い王様、このお話の続きはまた明日の夜。
インシャラ-
ベーゼンドルファーやベヒシュタイン、スタンウエイなどを比べたということは判っているけど、ベーゼンドルファーもインペリアルの1900年以前のものと後のもの、ベヒシュタインにいたっては近年のものは往時のものとは構造も、あのピアノの特徴である透明感も全く別物。スタンウエイは、むしろシュタンウエグとかボストンの方が特徴を出しているかもしれない。
もしそこまで考えてピアノを選び、ホールも選んだのなら、絶対にCDかDVDで記録しておいて欲しかった。あれだけたくさんのCDを出している人だから一枚くらい遊びがあってもいいじゃないか、なんてことを考えたり、、、
相変わらず長すぎる前置きの後で思い出しました、今日はホールのことを書くのでした。
このことはずいぶん前に書いたのだけど、アムステルダムの定宿で泊り客同士話をしていた。彼はそばのコンセルトヘボウに来ていたゲバントハウスがコンセルトヘボウでどんな音を出すのかに興味を持っていて、このオケは今までどこどこのホールで聞いて、あそこはこんな音色、ここはこんなところが素晴らしいとかといういろいろなホールでのオケの音色の違いを事細かに話してくれた。
ホールピッチとか残響、アクースティックという言葉では尽せないいろんなものを感じさせてもらってとても楽しい一日だった。
もっとも、最後のほうで、話が美術館のことにとび、私が東京の国立博物館がいかに官僚的であるかと悪口の限りを尽していたのだけど、彼もそうそうって相槌を返しながら一緒に嘆いてくれた。
翌朝、彼が出発するというときに名刺を交換したら、なんとその国立博物館の刀剣のトップだった、、、
私にしてみれば大トクイさま、それからますます国立博物館には行けなくなってしまった。
なんてまた話が横道にそれておりますぞ。
共鳴箱を持つ楽器はどんなところでも弾ける。上に述べたピアニストはイギリスのランズエンドの崖の上でピアノを弾いていた。(もっともこれはテレビの番組のためだけど) でもフルートなどは反響がなければただのすかすかのか弱い病気の音。とても聞いていられるものじゃない。オルガンのように部屋自体を共鳴箱として使う楽器もある。
プリバロックのあのめちゃくちゃなピッチは実は、おらが町の教会のオルガンのピッチであり、その教会の礼拝堂のピッチにあわせたもの。
歌っていていちばん心地よいピッチに何となくなってきたものがプリバロックのピッチの秘密。
だから場所によっては今のピッチよりもはるかに高いピッチもあるのですね。
(あの時代は多声法の時代であり、その影響を強く受けていた時代だから、ピッチよりもむしろ残響とアクースティックのほうが重要だったのかもしれない)
通奏低音に身を包まれながら、オブリガードの歌声にかき口説かれたら、無神論者でも改宗する。それは長崎という特異な場所で育ったのでよく判ります。年がら年中オラショと聖歌に囲まれていたのですから。
友人が東京のマリア聖堂で声明とグレゴリオ聖歌の聞き比べを企画しました。
あの僧侶(天台とカトリックの)の動き、歌、そしてその場の雰囲気。ローソクの光を反射する金きら金の道具たち、揺れ動く光と煤に満ちたなんともいえない摩訶不思議さ、、、これが見事に同じなのですね。
宗教というのは集団催眠の最たるものであるという気を改めて感じましたね。
演奏の前にオーボエがピッチを出していますね。
オケによって持っているピッチがあります。
もしかしたら、オーボエは最初はそのピッチでぷっと音を出してみて、「あれ、もうちょい高めがいいかな」なんて微妙に高く吹くかもしれません。まあ、弟に言わせるとその差はコンマ1とか2とかの差、つまり444ではなく444.3と444.4は区別がつかなければいけないということ。
もちろんデジタル的に4.5とか4.6というのが目の前にちらちらするのではなく、何となく高いとか低いって感じられる差のことなのですけどね。
これを持っていないと、オケでは弾いているうちに、管はピッチが上がってくる、弦は下がる、それを演奏の合間に調整しているのですけど、それができなくなって、自分だけが不協和音を奏でることになる。
下一桁の差になるとはっきりと444ですねっていえる人が殆どだから。
(人間にはどれくらいの微小な差が区別つくのかってよく書いていましたね。アゴーギクの問題は別にして、ピッチやメロディの中での微妙なテンポの取りかた、音の長さの取りかたなんかを書いていたら、これまた友人から、ロンドンにいたときにその関係の研究の手助けをした。本が出ているから読んでくれって言われてアマゾンで調べたけど、品切れで未だに読んでいない)
だから平均率になる前の絶対和音で育ってくれば、平均率のあの濁りはがまんできないかもしれないけど、でも平均率を使わなければバロック以降の和声の進行も困難。
仕方ないんですね。
おおい、ホールのピッチの話はどこへ行った?
長くなるからそれはまた次の機会にしましょう。
ちょっとカテゴリーの芸術・文化で見ていましたら、「自分の音 ホールの響き」というのを書いているのを見つけました。この中にリンクで上の話一部の日記へ飛ぶようになっていますので、もし気になる方は見てみてください。
お恵み深い王様、このお話の続きはまた明日の夜。
インシャラ-
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