紅茶をサーブするとき、カップの持ち手やスプーンは右とか、お箸を置く時も持ち手は右でしょうとか、、一匹の魚を皿に載せて出す時には頭が左、、
お茶碗や、汁椀、皿の配置なんてのもなんとなく決まって来る、、、
でも、これは考えなくても理由は分かりますよね。
だから、レストランなんかでめちゃめちゃに配置した食卓を見せられると、イラってくる。きっと、それで金もらっているんだから、客の目線に立ちなさいよなんてどっかで思うんですよね。
お茶碗にも主になる面があるのもなんとなくわかる、、分かんないのもあるけど。
でも、袱紗のわさを右にするのか左にするのか、使い勝手や、客の目線からみた形でもどうもわかりづらいのもある。
客にサーブするときの右から、左からも、、これは他でも同じだけど、客の利き手とか、刀の持ち手とかで説明されるけど、それだけじゃないみたい。だって、刀を持たなくってもよくなっても、利き手を塞がれても不安にならなくてもよくなっても、やはり利き手を塞がれるような相手の動きにはしっくりしないものを感じるんですよね。
生きるか死ぬかじゃないけど、右か左か、、、それが問題なのも多いですよね。
なんて、何を悩んでいるかと言うと、どうも写真を撮っていると自分の脳の中の理屈じゃないへんてこな癖に気がつかされることが多いのですよ。
この天狗の団扇みたいな写真、葉柄が右の方がいいのか、左の方がいいのか。
私の頭の中では右が収まりがいいのですね。
それはなんとなく道具のおき方の影響なんでしょうか。
全体の構図で考える時、左下から右上に上がる直線や波形は好き。逆のパターンはなんとなくしっくりこない。
でも明るさは左から右下に流れるような光が落ち着く。
演出家は、舞台の上手、下手の差にすごく敏感。上手から入って来るのと、下手から入るのではその人に対する先入観が違う。
王様とか、貴族とか、正統性を訴えるものがある時期には絵画や音楽だけでなく、建築も、造園もきっちりと端正なんですよね。バロックとか、ロマン派前期であれば、この落ち着く感じが美であって、それ以外はそれに対するアンチテーゼ、、、なんて言うのは言い過ぎでしょうけど。
でも時代がさがって来て、それがもう少し世俗的になって来ると、それだけじゃつまんない、もっと新しい感覚が欲しくなって来るのかな?
現代ものは落ち着かない部分を強調してきているでしょう。
けど、私は古代人だから、やはり落ち着き感、しっくり感がいい。美しいものがいい。だから私の写真はしっくりする、落ち着く感じがいいのかと言うと、自分の撮った物を見ていると、敢えてそんな風な形にしないようなフレーミングをしているものも多い、、、
真ん中に中心を持ってくるのは落ち着き過ぎだから、ちょっとずらす。
鳥さんたちだったら進行方向へ多くスペースをとる。でもこのくらいならずれているのが逆にバランスがいいなんて。
バロックはバロック。正統的なバランス感というものはやはり変って来ているのですよね。それは中世以前の遺物だもん。(なんてまた言いすぎだよ)
絵画や彫刻なら考え抜いた揚句に構図を決めて行くから、その理由などもはっきりと自覚できるのでしょうけど、写真は一瞬。特に飛び物なんかは
考えもしないでフレームに入れてシャッターを切る。
それでもそんな癖が如実に結果に出てくるんですよね。
さてと、この天狗の団扇。なぜ落ち着かないはずの葉柄を左にするパターンをとったのかな。落ち着くはずの左が、気に入らないのはなぜでしょうね。
自分の気持ちが、現状に甘んじていない? それとも先行き不安? それとも??
なんて要素もあるんですよね。
『食育』ってそういうところから始まるんじゃないかって思うんですよね。
左利きの人がいても、このお椀の場所は同じだと思うんです。
テーブルマナーでも左利きだからってナイフとフォークの場所が反対ってことはないと思うんです。
因みに私は天狗のうちわは右寄りが面白そうだと思いました。(笑)
ある人に当てはまらない時に、どうするのっていうのは別ですけど。
たとえば、サッカーの選手たちだったと思いますけど、ディナーに招かれたとき、一人腕を骨折してナイフやフォークを使えない人がいた。そしたら他の選手たちが、手づかみで食べ始めた。。。なんてのもね。
習慣や、敢えてそれを破るTPOなんてのも面白い頭の体操。でも、スタートである「習慣」とそれがなぜそうかを知らなければねっていうのはもっと大切かな。
ちなみに、右寄り、左より、あれは右脳、左脳に関係があるのでしょうか?