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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

鬼の赤松に救いを求める?渡嘉敷島の惨劇の真相 

2009-02-11 07:01:22 | ★集団自決

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沖縄が返還される直前の1972年5月8日、沖縄県教職員組合編『これが日本軍だ』という小冊子が出版された。

同書は副題に「沖縄戦における残虐行為』とうたっているとおり、教職員組合の中でも特に左傾した「戦争犯罪追求委員会」が編集し、執筆者は下記のような「軍命派」のお馴染みの面々が名を連ねている。

安仁屋政昭(那覇高校社会科教師⇒沖国大教授)

儀部景俊(那覇高校社会科教師⇒沖国大教授)

他12名は省略

同書は、ことさらに読む者に日本軍への憎悪をかき立てるような編集構成になっており、これを教材として子ども達へ日本軍への憎しみを埋め込むことが目的であるとは、その「まえがき」を読めば一目瞭然である。

「まえがき」にはこうある。

「民主主義教育はなによりもまず個人の尊厳と戦争に対する憎しみを、子どもたちの態度や思想にうえつけるものでなければなりません」。

以下は「これが日本軍だ」の集団自決に関する部分の引用である。

                   ◇

渡嘉敷島の集団自決

(略)

3月27日夕方、赤松隊は渡嘉敷島の西北側の恩納河原付近の西山A高地に移動していきました。 そのとき赤松隊長は島の駐在巡査安里喜順氏を通じて、「住民は捕虜になるおそれがある。 軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」という命令をだしました。 また「米軍が来たら軍民ともにたたかって玉砕しよう」という伝言もどこからともなく村民につたえられました。 その夜はものすごい豪雨でした。村民はハブの棲む真暗なな山道を豪雨とたたかいながらでかけました。 カッパのかわりにカマスやムシロを頭にかぶり、赤ちゃんを背負い、老人をたすけて西山にたどり着きました。 親兄弟をさがす声は夜中まで谷間にこだましました。 ところが村民は喜んで日本軍の指示にしたがい西山陣地に集合したのであるが、赤松隊長は壕の入り口にたちはだかって、「住民はこの壕にはいるな!」ときびしく命令しました。村民はしかたなく高地のふもとの恩納河原にくだり、思いおもいに自然の自然の洞窟を利用したり谷間の繁みに仮小屋をつくって一夜をあかしました。
3月28日、赤松隊長から意外な命令がだされました。 「住民はすみやかに軍陣地を去り、渡嘉敷に避難しろ。」というのです。 しかしすでに米軍は渡嘉敷に上陸しており、迫撃砲による集中放火をあびていたので村の代表者は恩納河原に踏みとどまるべきだと主張しました。
その日、赤松隊長から防衛隊員をつうじて、自決命令がくだされました。 「ことここにいたっては全島民、皇国の万歳と日本軍の必勝を祈って自決せよ。 軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」という内容のものでした。
アメリカ軍の迫撃砲による砲撃は西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も砲弾をうけるようになっていました。
村民たちは死に場所をえらんで親戚や家族同士が集まりました。 一発の手榴弾の周囲に2,30人があつまりました。 この手榴弾は防衛隊員がおのおの2個づつ計30個が自決ようとして渡されていたが、このときのためにさらに20発が増加されていました。 手榴弾はあちらこちらで爆発しました。 轟音は谷間にこだまし、一瞬のうちに村の老若男女の肉片はあたりに飛び散り、阿修羅のような地獄絵図がくりひろげられました。 死にそこなった者は、たがいにこん棒でうちあい、カミソリで自分の首をきりつけ、鍬や刀で親しい者の頭をたたき割りました。そのとき谷川の水は血の河となりました。 このなかで手榴弾の不発で自決できないでいる人びとがいたが、やがてアメリカ軍の迫撃砲が飛んできて爆発すると、生き残った者は混乱状態におち入り、統制も失われてしまいました。 この集団自決で死んだ村民は325名、手榴弾の不発で死をまぬがれた者は渡嘉敷126名、阿波連203名、前島7名でした。 
手榴弾の不発で死をまぬがれた村民は、やがて赤松隊本陣へ救いを求めて押し寄せました。 しかし赤松隊長は「軍の壕へは一歩もはいるな!」、「すみやかに軍陣地付近をされ」とどなりつけるだけでした。 しかたなく村民は日本軍陣地東方盆地にあつまり、うつろな一夜をあかしました。
  3月29日、米軍の砲撃はたえまなく住民の待機した盆地へ落下し、このときまでに23名の住民が迫撃砲によって生命を失い、防衛隊員数名が戦死しました。(以下略)

                                                 ◇

「渡嘉敷島の集団自決」解題

1・この記録は1953年渡嘉敷村遺族会によって編集された「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概略」と、沖縄タイムス刊「鉄の暴風」第二章悲劇の離島「集団自決」さらに儀部景俊編「沖縄戦ー県民の証言」所収の金城重明「渡嘉敷島集団自決の記録」を中心にまとめたものである。前二書は出所を同じくするところに拠って記録されていると思われるが、それぞれ記録の重点のおきかたに異なったところがある。 つまりあるときは詳しく、また一書ではまったくふれていなことなのである。 それでわたしは、できるだけ事実を中心に主観的を制限し、相互に補い合い、現地調査で確認したことをもとに記録するように努めた。 しかし調査はきわめて不十分であった。

1・渡嘉敷島の戦闘記録にはまだ解明されていない疑問がたくさんある。とくに1970年3月、当時の隊長であった赤松嘉次元大尉が渡嘉敷村白玉の塔の慰霊祭に参加するために沖縄に来島して以来、あらためて事実関係が問われるようになった。赤松は沖縄の民主団体の抗議にあって、沖縄から追いかえされたが重大な疑問はのこされた。それは1945年の3月28日の集団自決に際して赤松元大尉は命令は出さなかったというものである。このかんじんなところは、どうもよくわからない。わたしたちは一日も早く事実を語ってくれる人がでてほしいと願っている。 生き残った人びとは、戦争を呪いつづけて死んでいった人びとの冥福を祈るためにも、またわたしたちがふたたびあやまちを犯さないためにも事実をあきらかにしてほしい。
しかし、赤松が直接的に命令しなかったにせよ、村民をあのような狂気にかりたてた赤松(イコール日本帝国主義者)の戦争責任は明白である。集団自決以後、つぎつぎに村民を斬殺した赤松隊の残虐行為は断じて許すことはできない。(以下略)

                  ◇

約40年以上前の証言をもとに編集された「これが日本軍だー沖縄戦における残虐行為」は、

編著者が安仁屋政昭氏ら「軍命あり派」であることから見ても、「集団自決は隊長命令だった」という基本姿勢で書かれているのはわかるが、集団自決を記載したどの頁を見ても「軍命」を直に見聞した人の記述はない。

「軍命」に関する記載は、すべてが「~を通じて」といった伝聞、風評であり、多くの体験者がいながらも直接軍の命令を聞いた者は一人もいないのである。

軍人=加害者、住民=被害者といった単純な区分けで論じられているが、「軍命あり派」がいうように「軍民混在」となった統制が崩れた混乱状態では軍人=加害者、住民=被害者といった単純な白黒二元論では真実を見誤ってしまう。

事実、住民の中にも軍人以上に軍人らしい人物がいて住民に軍国主義を駆り立てていた者がいた。

勇ましい言動で住民を自決に駆り立てた村のリーダーの責任を不問にしては問題の本質を見失うのではないのか。

恩納河原の惨劇は、このような村のリーダーたちの判断ミスが引き起こした悲劇であり、リーダー自らもパニックに巻き込まれたのではないのか。

証言の次のくだりから、それまで住民を統制していた「何か」が崩れ去っていく混乱の様子が伺える。 

<そのとき谷川の水は血の河となりました。 このなかで手榴弾の不発で自決できないでいる人びとがいたが、やがてアメリカ軍の迫撃砲が飛んできて爆発すると、生き残った者は混乱状態におち入り、統制も失われてしまいました。>

混乱の中のパニックで誰かが引いた「自決」の引き金に次々問追従するものが出たのではないのか。 「軍命による自決」とは、生き残った体験者の贖罪意識による後付ではないのか。

 

集団自決の「軍命あり派」の証言者たちが後出しジャンケンのように、提訴以降は次々と証言を変えてきた。

「母の遺したもの」を書き換えた宮城晴美氏が典型的な例だが、金城重明氏の39年前の証言と提訴以後の証言にもこれがあからさまに見られる。

しつこく繰り返すが、39年前の沖縄タイムス記事で、記者の「西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか」との質問に金城氏はこのように答えている。

とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた」と。

ところが提訴以後、金城氏は証言を180度翻してこのように語っている。

「命令されなければ。住民が、食糧も洞穴も捨てて軍陣地近くへ集まるはずはなかった」

そしてその理由としてこうも語っている。

「日本軍のそばが最も狙われて危ない。二十三日の空襲、艦砲射撃後、それは住民の常識だった」

 

このように振り子のように証言を変えながらも39年前は、集団自決に失敗した住民達のことを次のように語る証言者もいた。

手榴弾の不発で死をまぬがれた村民は、やがて赤松隊本陣へ救いを求めて押し寄せました。 しかし赤松隊長は「軍の壕へは一歩もはいるな!」、「すみやかに軍陣地付近をされ」とどなりつけるだけでした。 しかたなく村民は日本軍陣地東方盆地にあつまり、うつろな一夜をあかしました。(「これが日本軍だ」-沖縄教職員組合編著 1972年刊)>

実におかしな記述ではないか。

赤松隊長の暴状を訴えるがあまりに証言者は大きな自己矛盾に陥っていることに気が付いていない。

自決に失敗した住民が赤松隊長のところへ救いを求めて押しかけるとは、実に奇妙な行動ではないか。

集団自決を命じたのが赤松隊長だとしたら、自決に失敗をした住民達は「軍命違反」を犯したわけだから、赤松隊長に救いを求めるどころかむしろ軍命違反として銃殺されてもおかしくないはずだ。

後の証言によると赤松隊長とはスパイ容疑をこじつけて見境なく住民を斬殺した鬼のような男ではなかったのか。

軍命違反の住民達が軍命を下した張本人の「鬼の赤松」の所へ救いを求めて押しかけるとは矛盾に満ちた話ではないか。

このように「軍命」に関する証言には、いい加減なものが多いのも集団自決論争の特徴であるが、その証言の深層に澱むのは判断を誤って住民を「自決」に扇動したり親兄弟や知人を手にかけた贖罪意識がある。

いや、贖罪意識だけの単純なものではない。

他にも援護法適用という現実問題、それに小さな島の濃密な血縁・地縁の共同体という幾重にもおり重なった呪縛が証言に矛盾の種を植え付けていのではないか。

被害者は加害者の一面も持っていた。
 

 

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