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集団自決訴訟の被告側証人となった宮城晴美氏は大阪地裁へ提出した「陳 述 書」(2007年6月27日)で次のように陳述している。
<(1) 1970年(昭和45年)国際大学在学中、安仁屋政昭先生の日本史の講義を受講した際に、安仁屋先生から沖縄戦をテーマにしたレポートの提出を求められ、はじめて母や叔母たちから聞き取りを行い、「座間味島の集団自決」のタイトルでレポートを提出しました。これは後に儀部景俊編『沖縄戦―県民の証言』(日本青年出版社、1972年)に同タイトルで収録されました(乙64)。
この原稿では、「その晩のことです。梅澤部隊長から軍命令として集団自決がいいわたされたのです」と書きましたが、これは、私の叔母や島の人たちが「部隊長の命令で“玉砕”した」と話していましたので、そのように書きました。書く段階で、文言は母の手記「血ぬられた座間味島」(『悲劇の座間味島』所収)を参考にしたと思います。>
◇
その後の論争となった梅沢隊長の命令について、戦後生まれの宮城晴美氏は、「その晩のことです。梅澤部隊長から軍命令として集団自決がいいわたされたのです」と、
いとも簡単に梅沢隊長の命令だと断定しているが、その根拠を「私の叔母や島の人たちが『部隊長の命令で“玉砕”した』と話していました」という理由からだと書いている。
ここで不可解な事実が浮かび上がってくる。
晴美氏がその原稿を書いた1970年当時、「その晩」に梅沢氏に直接談判した住民の中の唯一の生き残りである実母である宮城初枝氏はまだご存命のはずだったが、何ゆえ「梅沢隊長の軍命」の根拠が母・初枝氏ではなく「私の叔母や島の人」の話なのか。
村の女子青年団長として軍との接触も多く、一番事情を知っているはずの母・初枝氏から聞いた話の方が一番信用できるのではないのか。
前回紹介した「これが日本軍だ」の「座間味島の集団自決」の章には、宮城初枝氏の聞き取り談話が掲載されている。
以下は宮城初枝さんの談話です。
私は軍と行動をともにして、弾薬運びなどをして働いていた、当時としては模範的な女子青年団員でした。
座間味島の戦況が絶望的になった3月27日、私たち5人の女子青年団員は軍から与えられた手りゅう弾で自決を決行しました。 ところが、弾が不発のため命をとりとめることができました。座間味島では3月26日から3月28日にかけて、集団で、あるいは個人の壕で家族単位に、いたましい自決の場面が繰り返されました。
私の家族の宮平重信一家は、3月25日の夜中、村の忠魂碑前に集まるように軍の命令をうけました。 その命令は梅澤隊長から出されたということで、村役場の書記が人々につたえたということです。その命令の内容は、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」というものでした。 玉砕というのは、この場合自決するという意味にとられました。
「こんな小さな島では、生きのびる望みもない。 捕虜になって殺されるよりは、みんないっしょに玉砕した方が本望だ」と、村びとはたちは考えました。 艦砲が島をゆるがし、島のまわりを軍艦がうめつくしているさまをみて、米軍の上陸は目の前にせまっていることを肌で感じ、人びとは正常な判断を失いかけていました。
子どもたち、母親、老人たちは、焼け残った荷物のなかから晴れ着を取り出して身にツケ、忠魂碑の前に集まってきました。 このとき、いきなり艦砲弾が忠魂碑に命中、碑は一瞬にしてけしとんでしまいました。 死を覚悟してはいたものの、忠魂碑の爆砕は、死の恐怖をはげしく村びとたちに投げつけました。生への本能的な終着がよみがえったのでしょう。
「ワッ、こわいよ」と叫んで一人が逃げ出しました。それにつづいて壕に走り、山に逃げ、クモの子を散らすように四散してしまいました。忠魂碑前での玉砕は沙汰やみの状態になりました。
しかしいったん逃げのびたものの、生きる望みをなくした人びとは、各自で自決の道を選びました。 産業組合の壕と周辺の個人壕、大和馬での自決などは集団で決行していて、産業組合壕では村長以下全員が死にました。
私の家族は個人壕に逃げ帰り、26日の夜明けに死ぬことに決定していたようです。その夜明けには座間味に米軍がいっぱいで、の裏手の山ぎわまで米兵の声がきこえてきました。 いよいよ最後だというので、一家の主の重信が、妻のウタ、娘光子、初子、次男の邦夫を壕内で並べ、カミソリでノドを切って死なせました。 首すじの血管を切って即死邦夫、初子と光子は仮死状態になっていたようです。 妻のウタは気管を切ってアワがぶくぶく出てくるのに、「まだだ、もっと深く切って」と叫び、ついに倒れふしました。 ついで重信は自分で首を切り倒れました。 この状態で、ほったらかされていたら、おそらく全員死んだでしょう。それからまもなく米兵に発見され、重信とウタ、光子は助け出されて手当てをうけ、一命を救われました。 邦夫は即死でしたが、初子は生きていました。 それから丸一日たって、ふたたび米兵が来て、倒れている初子のマブタをつついたところ、マバタキをしたので、生きているということで救いだされたのでした。
私の一家が自決した日、長男の信一は防衛隊として島の日本軍といっしょ、私は弾薬運びにかり出されていたのです。
自決をして生き残った人たち、この人たちの当時の状況を語るのは、大変苦痛です。 私の家族の者でも、首すじにカミソリの傷あとを残し、発声もまともにできず、傷口がふさがらないまま生きつずけています。
家族の者としては、そっと静かにしておいてほしいと思います。 しかし、恥ずかしい気持ちをおさえて、苦痛をおし殺して、自決の状況をみんなに語るのはほかでもない、二度とあのようなむごい戦争を起こしてもらいたいからです。 それからもうひとつ、自決は梅沢隊長に命令されたことは事実ですが、当時の私たち村びと気持としては、自決命令が出なくても、自決の道をえらんだであろうということです。 ながい軍国主義教育のナかで、「生きて捕虜のはずかしめをうけるな」ということは骨身にしみていました。 そういう軍国主義の時代に生まれ、育てられてきた私たちだったのです。 しかし、今から考えると、いくら狂気の時代だったとひえ、わが肉親を手にかけて死にいたらしめたという悔恨は、私たちが死ぬまでついてまわるのではないかと思うのです。 戦争責任の一端は私たち自身が負わなければならないと考えています。 敗戦27年間、このことを考えつづけてきました。 特定の個人を戦犯として処刑したところで、戦争責任の追及は完全ではないと思うのです。 反戦平和の保障を社会的にうちたてることこそ、戦争責任を考える究極の目的だと思います。
◇
>その命令は梅澤隊長から出されたということで、村役場の書記が人々につたえたということです。その命令の内容は、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」というものでした。 玉砕というのは、この場合自決するという意味にとられました。
村のリーダー達と共に25日の晩、梅沢隊長と自決用の武器の配布をめぐって談判した住民の中の唯一人の生き残りの証言にしては「梅沢隊長の軍命」がいかにも歯切れが悪い。
>艦砲が島をゆるがし、島のまわりを軍艦がうめつくしているさまをみて、米軍の上陸は目の前にせまっていることを肌で感じ、人びとは正常な判断を失いかけていました。
やはり、正常な判断を失った村のリーダー達の判断のミスというのが文章全体から感じ取れるが、途中から突然取ってつけたように「梅沢隊長の命令は事実」というくだりが出てくる。
>それからもうひとつ、自決は梅沢隊長に命令されたことは事実ですが、当時の私たち村びと気持としては、自決命令が出なくても、自決の道をえらんだであろうということです。
唐突に梅沢隊長が命令したと断定しておきながら、すぐその後に続く文に「自決命令が出なくても、自決の道をえらんだであろうということです」と書き加えた初枝氏の複雑な心理が反映していて興味深い。
この聞き取り談話には25日の夜の梅沢隊長との談判の様子が一行も書かれていないのも不自然である。
初枝氏は、25日の夜、村のリーダーたちと同行で、梅沢対長の本部壕を訪問して自決用の武器の配備を要請し断られている場面にいたにも関わらず、その重要な場面でも梅沢隊長の「自決命令」は聞いていないのである。
後になって娘の晴美氏はこの重要な場面に関して次のような詭弁を弄して母の遺言を踏みにじっている。
◆宮城晴美氏の法廷証言:
「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」(沖縄集団自決冤罪訴訟第1回証人尋問)
「そもそも軍としての命令はあったと思う」・・・論理のひとかけらもない詭弁ではないか。
その一方、「陳述書」には「その晩のことです。梅澤部隊長から軍命令として集団自決がいいわたされたのです」という記述があるが、晴美氏は陳述書に記載した「梅沢軍命令」がウソであることを法廷で述べているではないか。
晴美氏の実母である宮城初枝氏の聞き取り談話には、援護法にからむ共同体の呪縛の他に、「これが日本軍だ」の編著者のような左翼の呪縛にからみ取られ、苦しい証言をしているという様子が伺える。
集団自決の責任者を梅沢氏に仕立て上げた贖罪意識が次の文章からも読み取れる。
宮城初枝氏は、娘晴美氏のように平然と事実を捻じ曲げることには良心の疼きに耐えられず、次のような贖罪の気持ちを書いたのだろう。
>しかし、今から考えると、いくら狂気の時代だったとひえ、わが肉親を手にかけて死にいたらしめたという悔恨は、私たちが死ぬまでついてまわるのではないかと思うのです。 戦争責任の一端は私たち自身が負わなければならないと考えています。
そして、娘の晴美氏は初枝氏の良心の叫びを踏みにじって『母の遺したもの』を平然と書き変えたのである。
「11万人集会」が行われた2007年、晴美氏は「軍命あり派」の証言者として講演会で引っ張りだこであった。
当時の琉球新報は講演会の様子を次のように報じていた。
宮城晴美さん講演<自著「誤解されている」>
「集団自決」軍命 訴え継続を強調
宮城さんは「役場職員をしていた母は、助役、学校長、収入役、伝令と五人で梅沢隊長のところへ行った。 助役が『これから住民を玉砕させるので爆弾を下さい』と言ったら(隊長は)しばらく考えて『一応帰ってくれ』と言った。 母の目の前では帰ってくれ言ったけど、実際に助役は家族の所に行って『隊長から命令がきた、これから死ぬよ』と述べた。(略)(琉球新報 2007年6月24日)
『隊長から命令がきた、これから死ぬよ』と述べた助役は初枝氏と共に直前まで梅沢隊長の壕で談判をしていたはずだが、その場では「軍命」は一言も聞いていない。だとしたら助役は梅沢隊長に追い返されてた後、携帯電話ででも「軍命」を聞いたとしか考えられない。
助役は軍人より軍人らしい村役場職員だったという証言は多数ある。
やはり従来言われていた通り、助役が判断を誤り住民を集団自決に扇動したと考えるのが自然である。
宮城晴美氏は、母が真実を書残したノートを基に著した『母の遺したもの』では、「軍命はなかった」と記述しておきながらそれでも軍の強制だったと強弁している。
これは当初は『鉄の暴風』を鵜呑みにした「軍命あり派」が、その後の検証により「軍命令の存在」を確認出来ないとわかり、
「軍命はあった」⇒「軍命の有無は問題で無い」⇒「軍の存在が問題だ」⇒「軍命令がなくとも強制はあった」。
・・・と「軍命みなし論」に変化して行く典型的な例である。
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