沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦 郁彦 PHP研究所 |
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
■地元では知られていない「女装の少年」■
朝日新聞のこの記事を読みながら、一年前に同じ「少女」を報じた琉球新報を思いだした。大城氏は、2007年8月25日付琉球新報記事の取材に応じるため帰郷しているが、その時も取材のみで沖縄での講演は一度もせずに神戸に戻っている。
朝日新聞の二枚の写真付記事を見、さらに一年前の琉球新報記事を見なおして、滓のように胸中に残っていた疑惑が再び活性化してきた。
沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二枚の写真がある。二枚の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』(琉球新報刊)の中に収録されているが、その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が今回朝日が紹介した「うつろ目の少女」の写真である。
「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。だが、この少女が実は男の子であったということを、地元沖縄でも、知る人は少ない。
実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあっても「少女」の正体が少年であると知る者は一人もいなかった。
試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。
激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれず日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。
同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されている。 だが説明文は「傷の手当てを待つ少女」の記述だけで、「少女」の数奇な体験については一言も触れていない。「反日本軍」を訴えるには絶好のテーマのはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。
たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。
「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。
「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。
見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれたが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。
このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。筆者の友人、知人達が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない。
続く
【おまけ】
沖縄出身者の筆者が、初めて「うつろな目の少女」の正体はオカッパの少年であったという報道を見たのは、戦後62年も経って琉球新報がスクープした次の記事によってである。
「うつろな目の少女」に情報をお持ちの方、ご一報頂ければ幸いです。管理人
沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦 郁彦 PHP研究所 このアイテムの詳細を見る |
よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
2007年8月25日琉球新報
<「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>
【お願い】