狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄人は三枚舌

2011-02-19 22:12:48 | 未分類

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昨日の沖縄タイムスには、37年前のライシャワー発言に混じって次のような囲み記事が掲載されている。

 「沖縄人は三枚舌」「タフ」

米民政府幹部公電に本音

【東京】沖縄人は「予測できない」「三枚舌」-。 沖縄の占領政策に携わった米国民生不の幹部らが沖縄の人々に抱いた複雑な心境を語った記録が、18日公開の外交文書で見つかった。 
1967年10月19日付の公電で、元民政府の政治顧問のジェームズ・マーチン氏は、着任したアンガー高等弁務官に「沖縄人は三枚舌ー対米、対日及び自ら同士でーを使う」と話したことを紹介。 沖縄人の本質は「タフネス(頑強さ)と真意を隠す生活技術」と語った。
また、ワトソン高等弁務官婦人は66年11月29日の公電で、沖縄の人は「個人的には気立てが良好感が持てる」が内面は「UNPREDICTABLE」(予測できない)と述べていた。
激化する復帰運動対処で米側も疲弊していたことが、こうしたシニカルな見方につながったようである。

                            ☆

ものの見方には表裏2面で見る方がよりその真実に迫れる場合が多い。 一見欠点に見えるものでも自衛本能からきた長所かも知れぬ。 だがその欠点も度が過ぎると本当の欠点にななってしまう。 

外交上の「三枚舌」といえば、現在の中東紛争の原因を作った第一次大戦前後のイギリスが行った「三枚舌外交」(★文末に注)が脳裏に浮かぶ。 一方、米軍統治下の沖縄で、絶対権力者の米軍要人に「沖縄人は三枚舌」」と言わしめた強(したた)かさは、沖縄人が辿ったその歴史に原因を見出せるのではないか。

「トゥーヌユー(唐の世)」、「ヤマトッヌユー(大和の世)」、「アメリカユー(アメリカ世)」そして「ヤマトヌユー」と、絶えず変わっていく権力者の顔色を読まなければ生きて行けなかった沖縄人の生活の知恵ではなかったのか。

この点を、沖縄学の偉大な先達である伊波普猷は、「沖縄人は恩知らず」という厳しい批判をしながら「沖縄人の欠点」について次のように述べている。

 

「沖縄人の最大欠点」 (明治四十二年二月十一日稿『沖縄新聞』所載、琉球古今記)所収「空道について」参照) 

 
沖縄人の最大欠点は人種が違うということでも無い。

言語が違うという事でも無い。

風俗が違うという事でも無い。

習慣が違うということでも無い。
 

沖縄人の最大欠点は恩を忘れやすいという事である。

沖縄人はとかく恩を忘れやすい人民だという評を耳にする事があるが、これはどうしても弁解し切れない大事実だと思う。自分も時々こういう傾向を持っている事を自覚して慙愧(ざんき)に堪えない事がある。思うにこれは数百年来の境遇が然(しか)らしめたのであろう。

沖縄においては古来主権者の更迭が頻繁であったために、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌するのが気がきいているという事になったのである。

しかのみならず、久しく日支両帝国の間に介在していたので、自然二股膏薬主義を取らなければならないようになったのである。「上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ」という沖縄の俚諺(りげん※民間で言い慣わされていることわざ)はよくこの辺の消息をもたらしている。実に沖縄人にとっては沖縄で何人が君臨しても、支那で何人が君臨しても、かまわなかったのである。明、清の代り目に当って支那に使いした沖縄の使節の如き、清帝と明帝とに奉る二通りの上表文を持参して行ったとの事である。不断でも支那に行く沖縄の使節は琉球国王の印を捺した白紙を用意していて、いざ鎌倉という時にどちらにも融通のきくようにしたとの事である。この印を捺した白紙の事を空道(こうどう)といい伝えている。これをきいて或る人は君はどこからそういう史料を探してきたか、何か記録にでも書いてあるのかと揚げ足を取るかも知れぬ。しかし記録に載せるのも物にこそよれ、沖縄人如何に愚なりといえども、こういう一国の運命にも関するような政治上の秘密を記録などに遺して置くような事はしない。これは古来琉球政府の記録や上表文などを書いていた久米村人の間で秘密に話されていた事である。私は同じ事を知花朝章氏から開いたことがある。とにかく、昔の沖縄の立場としてはこういう事はありそうな事である。

「食を与ふる者は我が主也」という俚諺もこういう所から来たのであろう。

沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。この御都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる。これはた沖縄人の欠点中の最大なるものではあるまいか。

世にこういう種類の人程恐しい者はない、彼等は自分等の利益のためには友も売る、師も売る、場合によっては国も売る、こういう所に志士の出ないのは無理もない。

沖縄の近代史に赤穂義士的の記事の一頁だに見えない理由もこれでよくわかる。

しかしこれは沖縄人のみの罪でもないという事を知らなければならぬ。

とにかく現代においては沖縄人にして第一この大欠点をうめあわす事が出来ないとしたら、沖縄人は市民としても人類としても極々つまらない者である。しからばこの大欠点を如何にして補ったらよかろうか。これ沖縄教育家の研究すべき大問題である。しかしさしあたり必要なる事は人格の高い教育家に沖縄の青年を感化させる事である。陽に忠君愛国を説いて陰に私利を営むような教育家はかえって沖縄人のこの最大欠点を増長させるばかりである。自分は当局者がこの辺の事情を十二分に研究せられんことを切望する。

                    ☆

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の学者・啓蒙家。

経歴
第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講している。

帰郷後沖縄県立図書館の館長を務める傍ら、沖縄研究資料の収集に尽力した。歴史学者の比嘉春潮とともに、エスペラント学習活動を、教会では聖書の講義などを行った。

学問の領域は広大で、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡る。それらの業績を元にした学問体系として「沖縄学」が生まれる。

『おもろさうし』研究への貢献は多大である。また、「沖縄学の父」の名でも知られる。琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人=うちなーんちゅのアイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。民俗学者の柳田國男や折口信夫、人類学者の鳥居龍蔵、思想家・経済学者の河上肇らと親交があった。そして、友人の東恩納寛惇が浦添城跡の顕彰碑に刻んだ言葉が伊波を物語る。

「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」

琉球・沖縄を考える人たち全ての立ち返る場所であり、また乗り越えるべき人物である。                 

          ☆

沖縄人はとかく他県人に批判されると素直に反省することなく「沖縄人を馬鹿にしている!」とか「差別だ!」などと叫んで責任転嫁を計ろうとする。 

 ここらで郷土沖縄をこよなく愛した偉大な先人の「耳に痛い」言葉を虚心坦懐に受け取るべきではないだろうか。


 注★イギリスの「三枚舌外交」

解決できない中東問題の本質を、
広瀬隆は『世界石油戦争』(NHK出版 2002年11月30日第一刷出版)上巻P76~に記している。

「マクマホン書簡 1915年10月24日
第一次世界大戦中の一九一五年十月二十四日、イギリスのエジプト高等弁務官
ヘンリー・マクマホンが、聖地メッカの太守フセインに
「イギリスは境界線の内部におけるアラブ諸国の独立を承認する。
イギリスはアラブ=イスラム=カリフ国の建国宣言に同意する」
と記した書簡を送った。
このマクマホン書簡は、アラビア半島全土からペルシャ(イラン)、イラク、パレスチナまで含む
広大な領域について、アラブ人による中東領土支配権を約束したものだが、マクマホンの意図は、
軍事的にアラブ民族の力を利用することにあった。・・・

サイクス・ピコ秘密条約 1916年5月9日
・・・(一九一六年)四月二十六日、シリアのフランス総領事フランソワ・ジョルジュ=ピコと、
イギリス外務省の中東代表マーク・サイクスが、ロシア代表と共にペトログラードで密談し、
マクマホン書簡に反して、戦後のオスマン・トルコ領土を分割して三ヶ国で分配することを取り決めた。
続いて五月九日、サイクスとピコはアジア・中東の領土範囲を決める条約に調印した。
このサイクス・ピコ秘密条約では、フランスが現在のレバノン~シリア~イラクのモスール周辺まで
支配し、イギリスはメソポタミア南部~イラクのバクダッド~ヨルダン~パレスチナを獲得すること
にした。・・・

バルフォア宣言 1917年11月2日
・・・翌一九一七年十一月二日、イギリス外相アーサー・バルフォアが、サイクス・ピコ秘密条約の
締結者マーク・サイクスの草案をもとに、
「イギリス政府はユダヤ人のための国家(ナショナル・ホーム)をパレスチナに建設す
ることに賛同し、最善の努力をつくす」
と記したバルフォア宣言を、ウォルター・ロスチャイルド卿宛に出した。
これによってロスチャイルド家がユダヤ人国家の建設に踏み出したのである。・・・

三枚舌外交(トリプルスタンダード)
・・・パレスチナは、おかしなことになった。
「マクマホン書簡」によればアラブ人の支配地域であり、「サイクス・ピコ秘密条約」によれば
イギリスの土地であり、「バルフォア宣言」によればユダヤ人国家の建設地という、あり得ない
矛盾であった。相手によってころころ内容を変えるイギリスの三枚舌外交が、問題を深刻にした。」
ローレンスのことも記していた広瀬隆の本は情報の宝庫だ、NHKが情報ソースとして様々な場面で
影響を受けている著者の1人であることを感じる。
日本国内で自国を”ガラパゴス”と揶揄する風習がここでもそれを証明しているような氣がする。
この三枚舌外交を裏付ける関連したコメントが次のドキュメンタリー番組で理解できる。

「今のような大きな対立が生み出された歴史的背景は 第一次大戦後の17ヶ月間にあります。
戦争に勝った大国、おもにイギリスとフランスは 北アイルランド、ユーゴスラビア、そして中東の
大半の国々を創り出しました 私は記者として それらの国々での悲劇をずっと見てきました。
・・・
私たち欧米人は自分達がコントロールできるように中東諸国の線引きを行ったのです。
そしていまだに イギリス、フランス、アメリカは影響力を競っています
欧米人は中東を創る時に意図的に宗教が対立するようにしました、皆が互いに恐怖心を抱いて
ロンドンやパリ、ワシントンに保護を求めてくるように するためです」
ロバート・フィスク:レバノン問題専門家の発言
(『過激派と交渉する男~イスラム社会との対話~』NHK BS1世界のドキュメンタリー
製作:VPRO オランダ2008年 2008年11月28日放送)

                      ★ 

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 東條由布子憂国講演会のご案内

演題:語る「開戦前夜」

東條英機は戦犯なのか、昭和殉難者なのか。今だから語れる、家族のみが知る開戦を決断した祖父東條英機の知られざる真実。

講師プロフィール

東條英機の長男・英隆の長女。NPO法人環境保全機構理事長

日時:227日(日)

開場:1800  開演:1830

場所:県立博物館・美術館(博物館講座室)

入場料:1,000

主催:東條由布子講演会実行委員会

お問い合わせ:運営事務局 仲村雅巳 09019421675

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「在沖基地撤去は可能」 ライシャワー氏、67年日本伝達

2011-02-19 10:04:10 | 普天間移設

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沖縄タイムスが鳩山前首相の「方便」発言に続いて、今度は約40年も前の「グアム移転は可能」というライシャワー発言を取り上げ合計七面も使って欣喜雀躍の記事を書いている。

●一面トップ

「在沖基地撤去は可能」

イシャワー氏、67年日本伝達

グアム移転試算言及

面トップ

 帰前からリンク論

●三面トップ

根拠乏しい抑止力論

 

在沖基地撤去は可能」 ライシャワー氏、67年日本伝達

  【東京】ライシャワー元駐日米大使ら複数の米側関係者が沖縄返還交渉開始前の1967年、在沖米軍基地の完全撤去も可能との見解を日本側に伝えていたことが、外務省が18日公開した外交文書で分かった。米軍が沖縄本島の基地をすべてグアムなどに移した場合の経費を試算していたとの言及もあり、米側が日本国内で高まる返還論に対応し「完全撤退」も選択肢として検討していたことがうかがえる。

 4月15日付の「極秘」公電で、ライシャワー氏は日本大使館員に「沖縄の軍事施設をグアム島にそっくり移すことは理論的には可能」と指摘。ただ30億~40億ドル(当時のレートで1兆800億~1兆4400億円)の経費がかかると軍部が推定しており、米議会がそのような支出に反対するだろうと語ったと報告されている。

 別の公電では、陸軍省が「沖縄本島の基地を一切西表島に移転すると仮定したらいくらかかるか」を試算し、二十数億ドルだったとの記載もある。

 また7月17日には在日米大使館の参事官が外務省北米課長に対し、米国は日本との関係か、沖縄の占領維持かの選択を迫られた場合は日本を選ばざるを得ないと述べた上で「日本が決意すれば、米軍基地の完全撤去にせよ、基地付きの沖縄返還にせよ」選びうると、自らの強い立場を認識するようひそかに促していた。

 だが日本政府は、事実上最初の返還協議となる7月15日の三木武夫外相(当時)とジョンソン駐日米大使(同)との会談で、基本的態度として「沖縄には米軍基地を存続せしめつつ施政権を返還する方途を探求」するとの覚書を米側に手渡し、最初から基地撤去を求めない姿勢をとった。

                        ☆

沖縄タイムスが躍り上がって喜ぶ理由は、例え約40年前の発言でも、持論の「米軍基地不要論」を正当化する根拠になると判断したからである。

その意味では鳩山氏の「方便」発言と同じで、例え発言者がクルクルパー(ルーピー)首相でも、時代背景が異なっていても、とにかく「米軍基地不要論」に利用できれば何であれ、一面トップで大騒ぎするといういつもの姑息な手法である。

根拠乏しい抑止力論 外交文書公開基地の限界指摘も

 沖縄タイムス(2011年02月19日09:28)

 18日公表された沖縄返還交渉関連113冊の外交文書からは、鳩山由紀夫前首相が「方便」と語った抑止力や米軍事費削減などが当時から変わらぬテーマとして語られていたことがうかがえる。(東京支社・前田高敬)

■方便の可能性

 1967年9月15日。ワシントンでマクナマラ国防長官(当時)と向き合った三木武夫外相(同)がこう語ったことが記録されている。「率直に、沖縄の極東の安全保障上の役割についてうかがいたい」

 このほか「(沖縄に必要な)軍事的条件は米側から示されなければ判断する材料はない」(7月18日の駐日米大使との会談で、北米局長)など、この時期日本側は「沖縄が極東の安全保障に果たす役割は十分認識」(三木氏)といいつつも、その具体的な説明を米側に求める発言が目立つ。

 一方で米側も「(抑止力の問題は)日本自身が決定しなければならない」(マクナマラ長官)「日本は米軍に何を期待するのか」(同大使)と反問しており、やりとりの中で「抑止力」論が深まった形跡はない。外務省は65年8月16日、「アメリカの極東戦略に占める沖縄の地位」というリポートをまとめている。83ページのリポートでは、航空基地、ミサイル基地、海軍基地などとして、太平洋地域内に沖縄に代わる地域はないとして「その価値は絶対的」と分析しているものの「狭隘(きょうあい)な島内に大部隊を集結することは、軍事的好目標を露呈」し限界があるとも指摘している。

 結局のところ、一連の文書からは当時沖縄が「米軍の自由使用可能な基地」だったという以外の理由はよく分からず、この時点から「抑止力は方便」だった可能性すら高いのだ。

 69年、日本は知日派米議員らと盛んに接触し、沖縄返還への感触を探った。

■軍事費削減を

 各議員は「駐留過多に対する反省、経費削減という観点が先」(ジェームス・オハラ下院議員)、「できるだけ海外駐留軍を引き上げ、基地縮小を図るべき」(マンスフィールド民主党上院院内総務)など、少なくない議員が軍事費削減のため在外米軍は縮小すべきだと主張。

 これも、過去最大の財政赤字を抱えて歳出削減圧力が強まる現在の米国の状況と通じる。

 もっとも歳出削減圧力は、在外基地縮小の動きの一方で「沖縄(の基地)を返還することになれば、いずれはこれに代わるものを構築せねばならず」(2月19日、フレイマス陸軍省補佐官)、かえって基地の固定化につながる面もある。

 復帰後も多くの米軍基地が沖縄に残ったのはこうした理由があることも否定できない。日米両政府と沖縄が、歴史から何を学ぶかが問われているといえそうだ。

復帰前からリンク論
佐藤首相、米に示す
基地政策で強硬論も

 【東京】佐藤栄作首相(当時)が1966年11月、沖縄への赴任前に就任あいさつに訪れたアンガー米高等弁務官に対し、沖縄経済について「根本的に軍事基地の役割があり、その目的のために民生向上がある」と強調していたことが、18日公開された日本の外交文書で明らかになった。

 歴代政権は沖縄における経済振興施策と米軍基地の存在を結びつけた「リンク論」を否定しているが、実際には復帰以前から両者が密接にリンクしていると日本の首脳が認識していたことを示すものといえそうだ。

 同年11月1日の会談でアンガー氏が、自分の主たる責任は米軍基地の効果的な運営と住民の福祉民生の向上の二つであると述べたのに答えた。

 また佐藤首相は同じ会談で、当時政府が求めていた本土―沖縄間の渡航制限緩和について「もっと制限を無くすこととし、他方、(基地に反対する)社会党、共産党には理屈をつけて自由をなくす必要がある」と指摘。

 その上で「軍政なのだから、もっと思い切ってよい、体裁のよいことは言わなくてもよいと思っている」と、基地政策でさらなる強硬措置の“助言”までした。

 同席していたジョンソン駐日米大使がさすがに「日本はわれわれを支持しうるか」と懸念を示すと、佐藤氏は「あなた方のやりやすいように協力しなければならない」と答えたという。

                        ☆

 

■条件付のライシャワー発言

早速「根拠乏しい抑止力論」とか「方便の可能性」といった都合の良い文言が見られるが、当時、憲法の制約の下、自国の防衛も他人任せの日本に対してアメリカが抱いていた「安保ただ乗り論」を抜きにしては、ライシャワー氏の「沖縄の軍事施設をグアム島にそっくり移すことは理論的には可能」という発言は理解できない。

なるほど「理論的には」米軍基地をグアムに前面移転させることは可能であるが、現実問題として核を持つ軍事強国を近隣に持つ日本が、憲法改正して核武装するのは不可能であった。

したがって当時の日本が、米軍抜きで核武装し、自主防衛が不可能であることを日本通のライシャワー氏が知らないわけは無い。

ライシャワー氏が指摘した「理論的」と「現実的」の乖離が四十年経ってもそのまま手付かずで、憲法改正どころか核武装論議さえ自由にできないという「非核四原則」の状況である。

沖縄タイムスはライシャワー発言を有効に利用すべく、不都合な事実は伏せているが、NHKは、ライシャワー発言の裏に潜むアメリカ側の思惑を次のように報道している。

<その一方で、ライシャワー氏は、アメリカ議会の対日観について「気持ちの奥底には、米国の防衛努力のおかげで無料の安全保障といううまい汁を吸い、いつまでも自国、および極東の防衛問題と真剣に取り組む努力を怠っているという感じがあるのは否めない」と述べたことも記されています。(NHKグアム移転可能”外交文書公開)>

結局、ライシャワー発言は、米軍基地撤去は憲法改正して核装備でもして自主防衛ができるようになれば「理論的にグアム移設が可能」といったことが容易に理解できる。
 

佐藤学教授の「安保ビンのフタ論」

本日の沖縄タイムスにはお決まりの「識者談話」として極左学者の佐藤学沖国大教授の談話を大きく写真入で紹介し「基地維持は日本の意向」という談話を掲載しているが、この人物の意見なんて、読まなくとも大方推測がつく単純な代物である。

持論が日本を護憲のままで米軍基地を追放して丸腰状態にすることだから、中国が泣いて喜ぶ「工作員学者」ということができる。

佐藤教授は「安保ビンのふた論」を妄信している興味深い記事を紹介する。

 

                           ☆

【外信コラム】ポトマック通信  (産経新聞 2010/03/25)

 日米安保に関する「ビンのフタ論」を久しぶりで聞いた。日米同盟の効用の一つは日本が自主防衛に走り、軍国主義の道を歩むのを在日米軍の存在や米国の日本防衛誓約で抑えることだという論である。危険な日本をビンの中に入れ、米国がそのフタをするというのだ。かつて沖縄の米軍海兵隊司令官がそんな発言をして、すぐ更迭された。

関連記事


 今回は日本側発の「ビンのフタ論」だった。ワシントンでこのほど開かれた「アジア地域の安全保障と日米同盟での沖縄」というセミナーでの沖縄国際大学の佐藤学教授の発言だった。

 東西センターや北海道大学、笹川平和財団の三者共催の同セミナーの沖縄と日米同盟についてのセッションでは佐藤教授が報告者として普天間飛行場はそもそも不要だと述べ、米軍の駐留理由に関連しても中国の軍拡や北朝鮮の核も特に日本への脅威ではないと明言した。

 つい私が「では日米安保や日米同盟にそもそも反対なのでしょうか」と問うと、佐藤教授は「いや賛成です。なぜなら私は日本の国民を信用しないからです」と答えたのだった。日米安保がなければ、日本の政府や国民は自主的な防衛政策を求め、危険な道を進みかねないから、日米同盟で米国がそれを抑えておくことが好ましい、というのである。実にすっきりした「ビンのフタ論」だった。

 

■工作員は出て行け!

この佐藤という人物、わが国の安全保障を「諸国民の信義」を信頼し委ねておきながら、日本国民は信用できないと公言する。

つまり中国の軍拡も北朝鮮の核も脅威ではないから米軍も不要だというのだ。

「識者」の意見にしたがい、米軍撤去をすれば、喜ぶのは中国である。

日本以外の国民は信頼できるが、日本国民は信用できないというヤツは、沖縄の大学などに燻っていないで、中国へでも何処でも、とっとっと消えて行ってほしい。

 

 

 

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陶酔が集団自決をもたらした、金城重明氏の証言

2011-02-19 06:46:44 | ★パンドラの箱訴訟

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 集団自決の重要証人とされる金城重明氏の「手榴弾軍命説」は破綻してしまったが、最近では「軍命あり派」のなかに、「軍命の有無は問題ではない」と宗旨変えをし、軍の命令が無くとも集団自決に追い込まれたのは「軍の強制」であるという説だ。

「集団自決訴訟」で梅沢・赤松両隊長による自決命令があったという証言・証拠が皆無であるとわかった段階で、被告の大江健三郎氏は「軍隊のタテの構造」とか「読者の誤読」とか、後出しジャンケンのような卑怯な理屈を持ち出してきた。

大江健三郎のいかがわしさ

「軍命あり派」のシンボルである金城重明氏は、現在でも学生相手に破綻した「軍命論」を講演し続けている。

何時まで続く金城重明の強弁 渡嘉敷島の集団自決

彼の詭弁が反対派の攻撃に晒されるのは自然の帰結であり、小林よしのり氏の金城兄弟への「攻撃」も当然予想は出来たことである。

これに対し、沖縄の作家目取真氏がブログで、金城兄弟への攻撃を許してはならないとご立腹のようだが、その的外れな論はおいても、反論は認めないと言う姿勢には呆れてしまう。

これでは、自身が狢だと批判する「言論封殺魔」(佐藤優氏)と同じではないか。

これを世間では敵前逃亡と言う。

折角、小林よしのり氏が金城兄弟の原罪についてわかりやすく説明してくれたし、かつての論敵目取真氏も問題提起をしてくれているので、これを機会に金城氏の過去の証言を検証してみる。

宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかったが、過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

以下は続・39年前の金城重明氏の証言を加筆したものである。

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

今を遡る39年前、曽野綾子氏の『ある神話の背景』が発刊される3年前のこと。

金城重明氏は沖縄タイムスのインタビュー記事で、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、

一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがあるが、まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」と強弁する矛盾に、

贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

後年、訴訟が起きるとは夢想もしなかったのか、正直に心の内を吐露してはいるが、当時から金城氏にとって「軍命」とは一生叫び続けねばならぬ免罪符であったのであろう。

ちなみに金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。

1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(略)

(1970年3月27日付沖縄タイムス)

                   ◇

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に終結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

沖縄人は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄人の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

村民が銃剣で装備した軍人に囲まれ、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺されるような状況に追い込まれたのなら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられるだろう。

だが、渡嘉敷島の集団自決は、自決実行の現場に隊長は勿論、自決を強制する軍人の姿はない。

それどころか、自決実行の際は、金城氏は「軍部もすでに玉砕した」というのが頭にあったというではないか。

だとしたら自分の生命に関わる重大な「軍命」を下した命令者は、自決実行の際すでに死んだと思われていたことになる。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」肉親を殺害しておきながら、

「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と強弁するのは責任転嫁もはなはだしい。

くり返していう。 命令を下したとされる軍部は「既に玉砕している」と考えられていたのではないか。

金城氏の証言に従うとすれば、集団自決した住民達は、「既に玉砕している軍部」、つまり既に死んだと思われている軍人の命令で死ぬほど、愚かだったというのであろうか。

インタビィーした記者は「軍命」を何とか引き出そうと、次のような核心を突く質問を連発しているが、軍命を直接軍から聞いた者は一人もいない。

「赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが」

「自決命令についてはどう思うか」

結局、軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であり、幻であった。

■金城兄弟は父親殺害を隠していた■

もう一つ疑問がある。

金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。(去年になってジャーナリスト鴨野守氏が金城氏が隠蔽していた父親殺害を暴きだしている)

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下したという。

だが、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害した他に類を見ない例である。

やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。

 

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