狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

オカッパの少年の謎を追って!

2011-10-11 17:45:00 | オカッパの少年

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「白旗の少女」については過去に何度かエントリーし、現在でも一日に100件前後のアプローチがある。

昨日も200件を越えた。

古い過去エントリーで閲覧者が200件を越すのは当日記のような地味な政治ブログでは珍しいこと。 

沖縄戦で戦火に翻弄される住民の姿は、米国側の記録写真で数多く紹介されているが、見るたびに心を痛めるものは無抵抗な子どもたちの姿である。 

数多く出版されている沖縄戦記中でも、特に戦場の過酷さを表した2枚の「少女」の写真は沖縄人なら誰でも一度は目にするといわれるほど有名である。

「白旗の少女」と「うつろな目の少女」とそれぞれクレジットが付いた写真のことである。

「白旗の少女」が残虐かつ卑劣な日本兵を喧伝するため歪曲された絵本が出版され、主人公の比嘉富子さんが、偶然自分の後ろを歩いていた名も知れぬ兵隊さんの汚名を晴らすため名乗り出た話は有名だが、もう一枚の「うつろな目の少女」が実は「オカッパの少年」だったという事実を知る者は沖縄県民でさえほとんどいない。

沖縄タイムス平和ウェブ 過去の「慰霊の日」特集

当日記でも過去に数回エントリーしたが、一部の読者には反響があったが「白旗の少女」に比べて、アプローチも少ない。

「うつろな目の少女」の体験は、メディアが喧伝する「残虐非道の日本軍」という沖縄紙の見出しそのままを具現したようなものである。

日本兵に食料を強奪され、壕を追い出され、その際打つ蹴るの暴行を受け右目を失明し、歩行に障害の後遺症を持つ。 

「少女」が日本軍に受けた惨い仕打ちはそれだけではない。

実母はスパイ容疑で日本兵に虐殺され、戦後は右目の失明と歩行障害により仕事にも困難を伴ったという。

「少女」の受けた災難はそれだけでは止まらず、戦後「援護法」の受給申請をしたがそれさえも非情にも却下された。

「うつろな目の少女」こそ、沖縄二紙が糾弾する「悪逆非道の日本兵」の被害者として、これほど絶好のネタはないはずなのに、これを報ずる沖縄紙は極めて少ない。 

2007年、初めてこれをスクープした琉球新報と、数日遅れでフォロー記事を掲載した沖縄タイムスの二回しか筆者は知らない。(同年最後の講演会をするため大城氏が石垣市に行ったとき、八重山」毎日がこれを報じた。)

「少女」の体験が余りにも数奇なため、読者の理解を得るのが困難だと思うので、再度「少女」について検証し再度エントリーしてみたい。

昨年(2008年)の慰霊の日(6月23日)の朝日新聞夕刊のトップに「少女」についての大きき記事が掲載された。

朝日はウェブ記事には載せなかったが、大城氏の数奇な運命を中央日報がフォロー記事で掲載したので、読者の理解の一助として先ずそれを紹介する。

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   中央日報 2008年6月26日

 

                     ◆

「オカッパの少女」の謎を追って

うつろな目の少女」は、本当に沖縄戦の語り部・大城氏か

毎年6月23日、沖縄では戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎える。その日は沖縄県限定の公休日であるため、国の出先機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日になる。その日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄県主催の沖縄全戦没者慰霊祭が行われる。

 

■「うつろな目の少女」の衝撃■

2008年のその日623日、朝日新聞夕刊は、沖縄戦の語り部として講演活動をしてきた大城盛俊氏(75)が講演会活動を来年で引退すると一面トップで報じた。その記事には「うつろな目の少女」として有名な「少女」の写真と、講演をする大城氏の現在の写真を並べて掲載してある。

63年前に米兵によって撮影された「少女」の写真の説明を、朝日記事は次のように説明している。

<大城さん沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

さらに同記事は、大城氏が「23日に沖縄県石垣島では最後となる講演を行い、戦争の残酷さを訴えた」と報じているが、事情を知らない読者は、記事が報じるように過去に1230回を超える講演をこなしてきた大城さんなら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると想像するだろう。 

だが、沖縄出身で長く沖縄に在住する筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、後にも先にも朝日が報じる20086月の一回しか知らない。しかも23年もの長期にわたる講演活動の最後の沖縄講演が、沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だという。 

何ゆえ大城氏は、沖縄での最後の講演を自分の故郷がある沖縄本島で飾らなかったのか。筆者には、知人縁者の多く住むはずの故郷での講演を避けているように感じられた。

「平和教育」のメッカともいえる那覇や本島南部地域こそ大城氏のユニークな講演の最後を飾る場として相応しくはなかったのか。大城氏は一体何を避けているのか。

さらにもう一つの疑問は、少女が米兵の毒牙を避けるため髪を切って男の扮装をする話は、戦時中も終戦直後の沖縄では良く聞く話だが、逆に少年がオカッパ頭の少女に変装したという話は、筆者は始めて聞いた。 大城氏は何故しょうじょに

「うつろな目の少女」に筆者が異常な関心を持ち始めたのは、この素朴な疑問がすべての出発点であった。

琉球新報のインタビューに応じる大城盛俊氏

続く

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似て非なる沖縄県と石川県、育鵬社逆転不採択

2011-10-11 06:10:09 | 八重山教科書採択問題

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石川県の中学教科書採択でも育鵬社版教科書の逆転不採択が行われた。

逆転不採択の背景には県の不当介入があったことは、八重山地区の逆転不採択と酷似している。

が、沖縄県と石川県の教科書採択には大きな違いがあった。

「発狂新聞」の存在である。

【エディターズEye】
不可解な石川県の育鵬社逆転不採択
2011.10.8 19:05
 石川県の小松市、能美(のみ)市、川北町で同じ教科書を選ぶ小松・能美採択地区が、教科書改善の会(屋山太郎代表世話人)のメンバーが執筆した育鵬社の中学校歴史・公民教科書を市町教育委員会の採決結果に反して逆転不採択にしていたことが分かった。

 9月21日の県議会予算特別委員会で宮元陸(りく)氏(自民)が追及した。小松・能美地区では、7月20日に能美市教育委員会が採決の結果、5対0で帝国書院を採択すべきだと決定。一方で、21日に小松市教育委員会が4対1で育鵬社、22日に川北町教育委員会が5対0で育鵬社を決めて、26日の採択協議会に臨んだ。

 3市町のうち2市町が育鵬社を推したことで、採択協議会では育鵬社が選ばれるはずだが、結果は不採択になった。協議会は3市町の教育長、学校教育課長と保護者代表で構成されており、小松市と川北町の学校教育課長は教育委員会の採決結果を伝達すべき立場にありながら、育鵬社を推さなかったという。

 宮元氏は関係者の話として、この過程で県教委事務局が育鵬社を採択しないよう市町教委事務局に対して圧力をかけたと明らかにした。

 採択協議会を事務方中心で構成することは、採択の権限が教育委員にあるという法の趣旨に反している。沖縄県八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町)が育鵬社の公民教科書を採択したのは、協議会の構成を教育委員中心に改めた結果だった。

 小松・能美採択地区協議会の構成を定めた設置要綱を、市町教委員事務局が教育委員に諮らずに決めていたことも判明。課長が教育委員会の採決結果を代弁しなかった問題とともに、教育委員会制度を否定する違法性の強い採択といえそうだ。

 また、県立中高一貫校の金沢錦丘中(金沢市)の教科書を決めた8月9、11日の県教育委員会で、竹中博康教育長が育鵬社の教科書について「必ずしも適当な教科書ではないと感じる」と、不採択を誘導する発言をしていたことも明らかになった。

 宮元氏の質疑は石川県のホームページで動画で見ることができる(http://www.pref.ishikawa.lg.jp/gikai/cyukei/documents/g110921a.asx)。

 (渡辺浩)

                         ☆

石川県の中学校教科書採択騒動は、県の教育委が採択地区協議会に不当介入し、育鵬社版教科書の採択をひっくり返したと言う点で、沖縄県の八重山教科書騒動と酷似していが、石川県の場合は自民党県議・宮元陸氏の県議会での質問で事件が公になった。

一方、八重山地区の場合、県の不当介入に対しネットが騒ぎ出し自民党県議が見て見ぬ振りしている間に、いきなり国会質疑で自民党議員の古屋圭司氏が県の行指導は不当介入ではないかと質したことから全国に飛び火した。

その間、沖縄の自民党県議は、八重山採択地区に県教委が行った不当介入に対し「触らぬ神」を決め込んでいた。

早くから「発狂新聞」とネットが騒いでいたため、見て見ぬ振りをしていたのだ。

本来教科書採択権を持たない県の教育委が、採択地区協議会の教科書採択に不当介入したという「事件」だが、異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」では従来、沖縄2紙に逆らう者は「紙爆弾」と言われる激しい新聞のバッシングを受けることを覚悟せねばならぬ。

大抵の者は、新聞の猛攻撃に耐え切れず、抵抗を無くすのが常だった(最近も某大学教授血祭りにあげられている)が、今回、「発狂新聞」にとって想定外だったのは教育改革の信念に燃える鉄の意志を持つ玉津教育長の存在がある。

「発狂3紙」が束になってキチガイじみた個人攻撃を浴びせたもかかわらず、玉津氏の信念は些かもも揺らぐこともな、2ヶ月以上にも及ぶ個人攻撃に耐え抜いた。

玉津氏の教育改革を妨害する県教委に対し、本来なら沖縄の自民党県議が、石川県議会の宮元議員のように、県議会で援護射撃をしてしかるべきだった。

だが、沖縄2紙に迎合する自民党県連は援護射撃どころか、玉津氏が余計なことを仕出かしたでも言わんばかりの冷たい対応で終始し現在に至っている。

翁長政俊県連副会長は、「この問題(教科書)で軽々に一緒になることはない」などと発言し、石垣支部が9月13日、県教育委員会に「指導・助言の枠を超えた違法な介入だ」として8日の協議の無効性を要請した際も、求められた役員の同席を断っている。

自民党県連の態度は、玉津教育長の一連の教育改革を支援することは、まるで「犯罪行為」に加担するかのような認識で「軽々しく一緒になることはない」と切り捨てている。

今回の玉津教育改革を支援したのは自民党八重山支部の市会議員であり、自民党本部の義家議員など文部行政に関心のある国会議員たちだった。 

それに比べて自民党沖縄県連は、終始沖縄新聞の顔色ばかり窺い、むしろ足を引っ張るような発言さえしていたのである。

前ににも書いたがそんなに沖縄2紙が怖いのならいっそ共産党に宗旨替えでもして「反戦平和」のお題目でも唱えたらどうだろうかと言いたくもなる。(怒)

 さらに自民党本部が文部科学部会に玉津教育長を招待した件についても、「どうしてこの時期に部会を開く必要があるのか」などと、13日の会議に先立ち、県連幹部が党政調に電話で苦言を呈する有様であった。

背景には教科書問題が「発狂新聞」の逆鱗に触れるテーマであり、来年に控える県議選への影響も考えて、触らぬ神に祟りなしを決め込んだ結果と言われている。

この時点で県連は保守党としての誇りをかなぐり捨て、「発狂3紙」と沖教組の下僕に成り下がったと公表したことになる。

自民党の義家議員が関連法規の解釈でアドバイスしたり、文部科学合同会議に玉津教育長を招待したときも、県議からは「県連がこれだけ気配りしているというのに、党本部は沖縄の空気を分かっていない」とのぼやきも漏れていたというから、「空気を読めないのはどっちだ」と怒りの言葉を投げつけたくもなる。

沖教組の言いなりになって違法な介入をを続ける県教委に対し、自民党県議が意見も言えず恭順の意をあらわしているのは一にも沖縄2紙に逆らったら議員としての地位さえ危ないと言う恐れがあるからである。

沖縄県が異論を許さぬ「全体主義の島」と言われる所以である。

これまで沖縄では教科書採択に口を挟むことはタブーとされてきた。

教科書問題で「違法は違法」として、自民党県議が堂々と県教育長の違法行為を追及できる石川県が羨ましく思う今日この頃である。

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