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<金口木舌>正しく伝える責任
▼沖縄戦の犠牲者数は、沖縄以外の都道府県では北海道が1万人以上と突出する。川村さんは北と南で連帯し、戦争や差別に反対することが国策の犠牲となった人々の願いだと訴えた。2月、川村さんは69歳で亡くなった
▼読谷村のチビチリガマで極限状態の住民が次々と死に追いやられた日から76年。2年前の慰霊祭には肉親らに毒薬を注射した看護師のめいが参列した
▼女性は遺族らに何度も頭を下げた。戦時中の「米軍に捕まったら惨殺される」という誤った情報や教育により、注射器を握らざるを得なかった伯母の無念を訴えた
▼沖縄戦で日本軍は多くの住民を戦闘に巻き込んだ。膨大な数の戦没者を出したことは政府が数十年間、推し進めた沖縄への同化政策と皇民化教育の結果でもある
▼文科省が発表した検定結果で高校の歴史教科書に「一中健児之塔」を「顕彰碑」とする記述があった。戦争体験者がさらに減少する中、記録や教育による継承は重要性を増す。過ちを繰り返さないため、沖縄戦を正しく伝える責任が全国の全ての世代にある。
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>「私たちは言葉と文化を奪い取られ、琉球の人と同じ扱いを受けた。これからも慰霊を続けたい」。旭川アイヌ協議会(北海道)の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ会長の言葉だ。アイヌ民族出身の日本兵や沖縄住民を追悼する慰霊祭を糸満市で続けていた
毎年定期的に行われたアイヌと沖縄共同の慰霊祭が、いつの間にか行わなくなった。
新聞報道の嘘がバレたからだろう。
説明文からアイヌ人の文字が削除された「南北の塔」の碑文
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アイヌに乗っ取られた慰霊の塔⑯
沖縄戦に関連する記事で、沖縄紙が明らかなウソを流し続ける例を、過去記事に加筆して紹介する。
「ウソも繰り返せば真実になる」とはよく言われることだが、本来そのウソを正すべき立場の新聞が、実はそのウソの発信源であるという例は枚挙に暇がない。
周知の通り、集団自決に絡む沖縄の新聞報道でも、自分のイデオロギーを押し通す為に確信犯的に誤報を流し続けた例は数多い。
沖縄紙が「平和」、「連帯」、「差別」といった枕詞の付く運動に敏感に反応し、検証もなく誤報を垂れ流すことはよく知られたこと。
糸満市の真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、左翼集団と連帯したアイヌの団体によって、あたかもアイヌによって建立された「アイヌ人の戦士」を祭る塔であるかのようなウソの報道が一人歩きを始めている。
沖縄にある慰霊塔は南部に集中しているが糸満市真栄平にある「南北の塔」について、そのいわれを知るものは県民はおろか糸満市民でさえ少ないといわれる。(筆者自身も最近まで知らなかった)
「南北の塔」の建立者である真栄平地区の関係者に取材することもなく、確信犯的に「アイヌの塔」の印象操作をする琉球新報、沖縄タイムスの恥知らずな記事がこれ。
平和へアイヌの祈り 南北の塔、戦争犠牲者弔う 糸満市 琉球新報2006年5月18日
沖縄戦で犠牲になった人々を供養する参列者=糸満市真栄平の南北の塔
【糸満】アイヌ民族の先祖供養祭「イチャルパ」が14日、糸満市真栄平の南北の塔で行われ、アイヌ民族を含む沖縄戦で犠牲になった人々を弔った。川村アイヌ民族記念館長の川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんが主宰。アイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや共同代表)のメンバー、真栄平区民ら約70人が参列して祈りをささげた。
アイヌの衣装を着た川村さんらが火を取り囲み、酒をささげた。続いて参列者らは果物などを供え、同じように酒をささげ儀式を行った。
儀式を終えた川村さんは「沖縄戦で亡くなった北海道の人の名簿を見たが、名字だけでアイヌと分かる人はたくさんいて、もっとしっかり調べなければならない。平和を願うこの儀式をこれからも続けていきたい」と話した。
南北の塔は1966年、真栄平区民とアイヌ民族の再会の中で建立され、南北の戦争犠牲者を追悼するという意味から「南北の塔」と名付けられた。
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼(沖縄タイムス)
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼
【糸満】沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。
まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。
川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。
南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている。
◇
札幌市立石山中学校 平井 敦子
☆南北の塔
沖縄県南部戦跡。有名な摩文仁の丘から、少し離れたところに真栄平という集落がある。180戸900人の住民が、沖縄戦でわずか349人になってしまったという激戦の地だ。バス停を降り、緩い傾斜地の畑の間を登り気味に5分ほど歩くと雑木林の中に「南北の塔」はある。官立ではなく、住民ら有志によって建てられた慰霊碑だ。戦後、地域に散乱していた遺骨を集めて納めた大きな納骨堂。そのうえに小さめの墓のような形の碑石がのせられ、「南北の塔」と刻まれている。ふと碑の右側面をみると「キムンウタリ」と朱文字が彫り込まれている。
キムン、アイヌ語で「山」。ウタリ、「仲間」という意味だ。「山部隊」と称される日本軍の部隊にアイヌ出身兵が含まれていた。この部隊の兵士たちも、真栄平の住民とともに多く犠牲になっている。
戦時中住民と交流のあったアイヌ兵のひとり、弟子さんがこの住民有志による慰霊碑建立の話を聞き、アイヌの仲間たちに募金を訴え、碑石の費用の一部として寄付したという経緯がある。この「南北の塔」にまつわる話は、草の根出版会「母と子でみる 沖縄戦とアイヌ兵士」(橋本進編)に詳しい。
☆南北の塔再訪
2001年の夏、私は13年ぶりに「南北の塔」を訪れた。友人にぜひ見せたくて案内をしたのだ。久しぶりに訪れたその場所は、碑の周囲が整備され、壕のあたりの戦争の残存物も目立たなくなっていた。
「あれ、おかしいな。無い…。」
私の記憶に鮮明に残っている碑の解説板が見あたらない。友人に碑の由来を話しながら、少し焦り気味に私はその解説板をさがした。「たしかにあったんだよ、そこにアイヌのことも書いてあるんだ…」と言いながら。しかし思いこみとは怖いもので、“木製”と思っているからみつけられなかったのだ。
「あった!そっか新しくしたんだ。」
そう、粗末な木製解説板は、それは見事な石碑文になって、しっかりあった。安堵して私たちは碑文を読み始めた。ところが、最後まで読み通しても“アイヌ”という文字がどこにも無いのである。私の記憶違いか?前回の解説文にはあったはずなんだ。そうじゃなければ、「南北の塔」という名の由来も、そこに刻まれている「キムンウタリ」の意味も来訪者には何がなんだかわからないじゃないか。焦る私に友人が言う。「書き換えられたんじゃない?」
疑問を残したまま、私たちは真栄平をあとにした。札幌に戻ってからさっそく私は前回訪れた時のアルバムをめくってみた。
「間違いない」
写真には、くっきりと“アイヌ”の文字が見える。新しく石碑に作り替えるときに意図的に消された、そうとしか思えない。でもなぜ?
今でも、南北の塔にはウタリ協会からアイヌの人々が訪れイチャルパ(供養祭)が開かれている。その主催団体、アイヌ民族と連帯する沖縄の会の人に電話で聞いてみた。碑文が変わったことは知らなかったという。ただ、数年前、イチャルパをしているところに数人の住民がチラシをまきにきて「歴史をねじまげるな」「アイヌの墓ではない」というような批判めいた内容だったという。確かに、この碑はあの沖縄戦で散乱した地域住民の納骨場であって、アイヌ民族のための墓などではない。しかし、この地で南北の民族が共に戦争の犠牲となったという思いが響きあってこの碑があることには違いない。
少なくとも、碑を訪れた人の拠りどころは碑文と塔の文字しかないのだ。このままでは「キムンウタリ」の意味はなぞのまま埋もれてしまう。
*木製板は昭和62年6月、石碑は平成元年3月。私が見た木製板はわずか1年7ヶ月の仮設板だったらしい。あくまでも「仮」であればなおさら、そこにあったアイヌの文字を正式には消したことの意味を考えたい、と思う。(北海道歴史教育者協議会)
◇
筆者の平井敦子先生?は「南北の塔」建立の経緯はある程度知っているようだが、以前に来たときにあったアイヌの文字が消えているのをみて北海道民として不快感を味わったのではないかと推察される。
碑文を書き直した理由は、戦後真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、改築の際寄付をした一人のアイヌ人弟子(てし)さんの話だけがクローズアップされ、これに左翼集団が飛びついて毎年塔の前でアイヌ民族衣装を着たアイヌ人たちと連帯し「平和活動」を展開し、これを地元新聞が大々的に報じるので、県民でさえ「南北の塔はアイヌ人によって建立されたアイヌ人の慰霊塔」であるといった誤解が一人歩きをはじめ糸満市議会でも問題になったからだという。
⇒糸満市議会喜納 正治 議員
では、糸満市が言う「南北の塔建立の」の実相はどうなっているのか。糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記録」(平成8年3月23日発行)によるとこうなっている。
≪『南北の塔』は泣いている
ー戦争の落とし子である私はいったいだれなのかー
糸満市真栄平南北の塔を考える会
塔は真栄平区民の意思で建立
先月、ある用件で糸満市役所に行った時、「この前北海道の塔でアイヌの祭りがありましたね。」 Aさんの挨拶である。 やっぱりそうだったのか。 糸満市職員でも南北の塔はアイヌの塔になっているのだ。 テレビ、ラジオ、新聞等のマスコミや図書の威力を改めてみせつけられた思いである。
南北の塔が真栄平区民の意思によって建立された塔であると知っているのは真栄平区民だけになった。
昭和21年、収容所から帰ってきて最初にやった仕事は遺骨収拾であった。それから毎年のように遺骨集めをして、これまで塔も何回か改築し、場所も二転三転したと思う。
昭和41年の改築には県との協力で、立派に作ることになり、区民常会を何回も開いて計画的にすすめた。さらに他県の遺族の方々からのご奉仕(ご寄付)もあった。 その中の一人が北海道出身の元アイヌ兵士T氏である。≫
では、「南北の塔」は一般的にどのように紹介されているのか。
≪南北の塔は、糸満市舞栄平(まえひら)部落の裏側に建立された納骨堂である。戦後、元アイヌ兵の弟子豊治氏らが住民と協力してこの一帯から四五〇〇体を収骨して納めた。≫
≪「南北の塔」建立(昭和41年 1966年)
かつて沖縄戦を戦った兵士であった、アイヌ民芸使節団の弟子豊治が沖縄に訪問。弟子豊治の戦った場所であった真栄平の地域住民と共に、アイヌの兵士、沖縄の人々など、あの戦いで亡くなった全ての人々を祭る慰霊碑を建立。北から南まで、多くの人々がここに眠ることから「南北の塔」と名付けた。碑の側面には「キムンウタリ」の銘も刻まれている。蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)≫
◇
「南北の塔」建立の実相を知るものは今では、糸満市民はおろか糸満市職員でもいない。 勿論北海道のアイヌ側も関わったとされるTが亡くなってしまって事実を知るものはいない。彼らは「真栄平地区の住民たちがアイヌの塔を善意で管理している」と本気で信じているようだ。
アイヌ人と沖縄人が共に慰霊の塔の前で慰霊行事を行うことに異論を唱えるものはいないだろう。
だが、マスコミによって事実が歪められ、左翼運動に利用されるとなると真栄平区民でなくとも異論を唱えたくもなる。
沖縄の新聞は、真実を明らかにすべきだと思うのだが、それをすると、例年「アイヌの塔」の前で行われる「反戦平和イベント」に水をさすことになるので、あえてそんなことはしないだろう
私事で恐縮ですが、本日(17日)より25日までの9日間、関西から東京と旅行をしてきます。
関西では奈良、唐招提寺などを訪ね、東京では大学時代の友人に逢ったり、池波正太郎の本で無性に食べたくなった念願のドジョウ鍋などトライしてみるつもりです。
ネットはいばらく遠ざかる予定ですが、更新は予約で継続します。
その間も勝手ですが、変らぬご支援のクリックなどをお願いいたします。
今日のエントリーも沖縄紙のウソ報道関連の過去記事に手を入れたものです。
「プロ沖縄人」と「プロアイヌ人」の連帯による反日活動、そしてそれを支援する沖縄紙のウソ報道に騙されてはなりません。
人間には悲しい習性があるもので、自分の生まれ育った地域では当然と思っていた習慣と違うものに接すると奇異の眼で見る傾向がある。
若かりし頃初めて上京したとき、居酒屋に入り「さけ茶漬け」のメニューを見て
「ヤマトンチュは酒で茶漬けをするのか」と恐れ入った友人の話には笑った。⇒沖縄の食文化雑感
習慣の違いは、特に食べ物に関して著しい。
が、それが一歩誤ると差別に向かうので要注意である。
沖縄の方言で「イチャリバチョーデー」という言葉がある。
直訳すれば「行き会えば兄弟」、何かの縁で知り合ったものは兄弟みたいなものだという意。
「袖触れ合うも他生の縁」に近い意味を持つ。
アイヌ人が毎年糸満市の真栄平地区にある「南東の塔」の前で行う先祖供養祭「イチャルパ」を行うという。
何かの縁でアイヌ人も塔建立に関わったたわけだから、地元の人がこれを排除する理由は無い。
それこそアイヌ人でも皆「イチャリバチョーデー」である。
ただ、アイヌの供養祭「イチャルパ」は発音が似てはいるが、沖縄方言「イチャリバチョーデー」とは言語的には何の関係もないし、
地元住民は、マスコミの歪曲報道により、真栄平区民が建立した「南北の塔」が、あたかも「アイヌ人が造ったアイヌ兵士の遺骨を祭る」と喧伝されているのに困惑している。 つまり軒を貸して母屋を取られることを危惧しているのである。
沖縄南部の戦跡巡りをした人なら気が付くことだが、沖縄には全国46都道府県の碑はあるが、「沖縄県の碑」だけはない。
筆者が小学校時代、遠足といえば決まって「南部戦跡巡り」と「中城(なかぐすく)公園」だった。
南部戦跡といっても現在のように碑の乱立はなかったので、行く場所は「ひめゆりの塔」、「健児の塔」そして「 魂魄の塔」の三つの塔と相場は決まっていた。
各県の塔が乱立する中、あえて「沖縄の塔」を挙げるとすれば、この「魂魄の塔」がそれに相当するだろう。
肉親の遺骨を確認できなかった多くの遺族にとっては、「魂魄の塔」がその遺骨を納めた場所となっているからだ。
真栄平区民が建立した「南北の塔」は真栄平地域界隈で亡くなった身元不明の遺骨を納めた碑であるから、そこにアイヌ兵士の遺骨が収納されている確証はない。
マスコミが流布させた「アイヌの塔」の神話は一人歩きを始めて、止まることを知らない。
苦難の歴史や芸能紹介 アイヌ民族と交流の夕べ 2006年5月17日
バッタの飛ぶ様子を表したアイヌ民族舞踊を披露する川村さん(手前)=名護市幸喜区公民館
【名護】「第2回アイヌ民族と交流の夕べ」(協賛・アイヌ民族と連帯する沖縄の会、ティダの会)が12日、名護市の幸喜区公民館で開かれ、アイヌ民族でアイヌ文化資料保存館の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ館長が、住民ら約50人と交流した。
川村さんは糸満市真栄平の「南北の塔」で、沖縄戦で亡くなったアイヌ出身兵を供養するために来県。交流会は、伝統芸能を紹介することでアイヌと沖縄の交流を図ろうと、昨年から行われている。
交流会では琉球民謡ショー、まよなかしんやさんによるライブも行われた。川村さんは、アイヌの苦難の歴史などを紹介し、アイヌの民族衣装を身にまとって弓矢を使った踊りやバッタの飛ぶ様子を表現した踊りなど、アイヌの民族芸能を披露した。
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何事も左翼活動家が絡んでくると話が妙な方向に歪められてくる。
>まよなかしんや↓
http://naha.cool.ne.jp/mayonakashinya/020310.html
左翼団体にはこのように蝿がたかってくる。
月間「部落解放」⇒アイヌ文化振興法10年
左翼団体が「南北の塔」を扱うとこうなる。
⇒http://blogs.yahoo.co.jp/tatakau_yunion_okinawa/
20818212.html たたかうユニオンへ! ↓
アイヌ儀式で供養、沖縄-アイヌ連帯
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◇
昨日のエントリーの「南北の塔を考える会」の手記の続きを引用する。
≪間違った記述の本が多い
昭和56年に『南北の塔』という本が出版されている。 この本は、元アイヌ兵士からの聞き取りで書かれたというが、その中に地元を無視したような書きぶりがある。 元アイヌ兵士の行動を称えることと、アイヌ兵士が真栄平の人々に呼びかけて南北の塔を建てたようなことが書かれている。 寄付をしたことが美談になることはよいが、誇張しすぎている。 その後、この本を参考にして書かれた本が沖縄でも出版されているが、間違った記述が多い。 沖縄タイムスの『大百科事典』(『沖縄大百科事典』-引用者注)、太田昌秀著の『慰霊の塔』、高教組南部支部の『歩く、見る、考える沖縄』、沖教組島尻支部の『南部戦跡巡り』、本土でも『沖縄戦でたたかった兵士』等まだまだあるが、これらの出版物にはこれらの出版物には南北の塔は全てアイヌとの関係で書かれている(ただ一冊、沖縄県から出された『沖縄の聖域』だけは正しい)。≫
ウソの情報を撒き散らしている新聞社、発刊者を拾ってみると、
沖縄タイムス⇒『沖縄大百科事典』
太田昌秀⇒『慰霊の塔』
高教組南部支部⇒『歩く、見る、考える沖縄』、
沖教組島尻支部⇒『南部戦跡巡り』
なるほど左翼団体がドキュメンタリーを著すると「反戦平和」に捉われて事実を歪曲することは『鉄の暴風』の場合と同じだ。
赤い脳ミソの著者が発刊すると、事実が歪曲されるということを見事に証明するリストだ。
沖縄タイムスは、取材相手が沖縄にいるにも関わらず、取材もせずにデタラメを書き散らした。
この点でも『大沖縄辞典』は『鉄の暴風』と軌を一つにしている。
さて、糸満市真栄平の「南北の塔を考える会」の手記引用を続けよう。
≪・・・ラジオ、テレビは墓参団が来沖するたびに、アイヌのことを中心に報道するので、ウソも百回いえば本物になるとかで、私達がいくら努力しても訂正されそうもない。 不可解なことだが、北海道のある町から、真栄平の区長や役員等に感謝状と記念品が贈られている。 南北の塔の維持管理に感謝するとのことらしい。 又、地元の知らない中に、アイヌ兵士が30余柱合祀したなどのマスコミ報道もある。 ところが、南北の塔にアイヌ出身者の遺骨があるという確証はないとおもう。 なぜならば、他県人からすれば無名戦士の墓であり、魂魄の塔と同じだからである。≫(続く)
完結編!アイヌに乗っ取られた慰霊塔 イヨマンテの夜と魔女の洞窟
南の島にある小さな戦没者慰霊の塔を巡る北と南の本家争い・・・関係ない読者にとっては興味のもてないと思われる話題を二日に渡ってエントリーした。
昨日の続編で終わりにしようと思ったのだが、予測に反してアクセスが多くコメントも頂いたので、しつこく本日も「南北の塔」についてのエントリーです。
この話題を書くにあたり、「南北の塔」に関わった北海道の方々を「アイヌ人」と一くくりで書くことに抵抗は感じた。
だが、「沖縄で反戦平和」を叫ぶ人々のことをマスコミは一くくりで「沖縄人」と書いている。 一くくりにされても困る沖縄人が多数いても、マスコミは馬耳東風である。
「南北の塔」の北海道の関係者もそれに対応して敢えて「アイヌ人」と書かしてもらった。
因みに知人の沖縄在住20年の元北海道民に「南北の塔」について聞いてみたら、「南北の塔」はおろか、アイヌ人との逸話も聞いたことがないという。
「真栄平区民が建立した慰霊塔にアイヌ人が寄付をして、それが縁で毎年アイヌの慰霊祭が行われる」
これだけの話だったら、「イチャリバ(行き会えば)チョーデー(兄弟)」で、
北と南の心温まる交流の話題でこれに異論を挟むものはいなかったはずだ。
ところがこの話に「左翼」という接着剤が関わってくると「在日」や「同和」といった団体が金魚の糞のようにくっついてくる。
当然のように沖縄マスコミが針小棒大に騒ぎ立てるといういつものパターンである。
このように「南北の塔」の建立者である真栄区民にとって迷惑なことがまかり通っている原因は、間違いだらけの出版物やマスコミの一方的な報道にある。
糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記集」(平成8年発行)に記載の「南北の塔を考える会」の手記を続けて引用しよう。
手記ではデタラメな記述の本やマスコミ報道の例を次のように列記している。
≪・真栄平に「わしは南北の塔をたてました。」
・これは、まぎれもなく、アイヌの建てた塔です。
・アイヌの人が建てた塔がある。
・南北の塔を建てたのは、アイヌの下級兵士と住民です。
・住民と相談して慰霊の塔をつくることにした。
・アイヌの墓がある。
・アイヌ兵士39柱を合祀した。
・塔名も、ごく自然に南北の塔にしたのです。
このような表現が、国民や県民、市民の誤解をまねいている。しかし、事実は、塔の建築中に、T氏(アイヌ人)が世話になった真栄平出身のK氏を通じて寄付の申し込みがあった。そこで塔碑をつくることになり、役員会で塔名を決定し、K氏の紹介である石材店に発注することになった。 そこで石材店に寄付申込者のK氏を呼んで「費用の件で200ドル以上かかるがよいか」と再確認して了解を得た。 その場でT氏から「私のきぼうだが、キムンウタリと関係者の氏名を刻んでくれないか」との要望があり刻名することに決定した。 これが真実である。
したがって、本にあるようなことは、誰かが作り出したものである。 寄付を受けるまでは役員の誰一人としてT氏を知らなかったし、会ったこともない。
従って、「すすめて建てさせた」、「名前も自然にきまった」などありえない話である。 南北の塔はマスコミや関係図書の中ではアイヌ中心に書かれたり、報道されたりするので、市民権はアイヌにあるように思われている。 このままでは、戦争体験者が語れなくなる頃には、籍はアイヌに移ってしまうおそれがあり、今、区民がその解決に向けて立ち上がっている。≫
◇
南北の塔の所有・管理について真栄平区民がこだわるのには訳がある。
沖縄戦で多くの身元不明の遺骨が魂魄の塔に葬られたが、真栄平区民にも多くの身元の確認できない戦没者がでた。
自分の墓に埋葬することの出来ない身元不明の区民の遺骨が南北の塔に祀られている。 真栄平区民は墓参のとき「南北の塔」に向かってウタンカー(遥拝)をして身近な人は線香をあげて供養をしている。 自分の先祖の遺骨を祀る南北の塔を他人に任すことは出来ないという心情が、真栄平区民が南北の塔にこだわる理由である。
マスコミの歪曲報道により、南北の塔が「アイヌ化」されていくのを憂い、「南北の塔を考える会」の手記は次のように結んでいる。
≪これを解決するには、公の記録として残し、民間資料にあるアイヌ中心の記事を訂正することである。 子々孫々に、南北の塔はまぎれもなく真栄平の塔であると語りつぐために筆を取りました。 市民の、ご理解、ご協力をお願いします。≫
◇
【おまけ】
「まよなかしんや」といい「喜屋武マリー 」といい、売れなくなった沖縄歌手は左翼の支援でなんとか生き延びようとする。
≪今回の沖縄行では、恨之碑沖縄建立、南北の塔(イチャルパ)、アイヌ・沖縄・コリア
在日コリアなど、有意義な交流ができました。
関係者のみなさま、ありがとうございました。≫(談話室(BBS))
「恨之碑」や「慰安婦の碑」と同じように「南北の碑」も沖縄左翼のシンボルとなりつつある。
「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を反日の島へ!
朝鮮軍夫 「恨之碑」
【おまけ】2
左翼が接着剤になると、沖縄とアイヌに、ヒロシマ.がくっ付いてしまう⇒北と南で連携の波動/52年目の出発(7月17日)
【おまけ】3
筆者が初めてアイヌ人を意識したのは小学四年ごろ少年雑誌・少年クラブに連載されていた北海道を舞台にした冒険小説「魔女の洞窟」(久米元一)によってである。 勿論筋書きは覚えていないが登場人物にアイヌ人が登場し、ピリカメノコやコタン、イヨマンテといったアイヌの単語を知り、マリモや雄阿寒、雌阿寒といった地名も知りほのかに北海道の大地に憧れを持った。
それから7年か8年後の大学の2年の頃、北海道旅行への憧れは、函館出身の友人とリュックを背負って北海道の無宿旅行により実現した。
無宿旅行というのは、テント、食料持参で旅館、ホテルには泊まらず野宿をするという意味。 洞爺湖湖畔にテントを張ったり、十勝岳頂上でテント泊したことも懐かしい想い出。
伊藤久男が歌うイヨマンテの夜 は好きな歌の一つだが、南北の塔の前でこれを歌われたら、静かに先祖を供養したい真栄平区民にとって迷惑な話かも知れない。
伊藤久男の朗々とした声が聞けます⇒イヨマンテの夜
「魔女の洞窟」 久米元一 昭和28年 ポプラ社
「湯島博士の娘あや子の首にかけた
アイヌ人形の秘密をめぐり、
恐るべき北斗星団の一味の暗躍!
莫大な洞窟の砂金をめぐる
息づまる大冒険!」
……と、あらすじにはあるが、
またしても内容が思い出せない。
大学の図書館で「日本の作家一覧」とかいう
本を読んでいたら、ちゃんとこの
久米元一先生の欄もあって、
「『魔女の洞窟』が内容、構成共に優れている」
と書いてあった。
とにかく、本書は砂金をめぐる話らしい。
私もウソタン川で砂金を採ったことがある。
半日かかって、耳掻き一杯分ほどしか採れなかった≫
政府のコロナ対策分科会の尾身会長が五輪開催について「普通でない」などと開催反対を明言した。
以来、テレビワイドショーお始め、各メディアや「特定野党」が一斉に」五輪反対の狼煙を上げた。
「コロナ、テーヘンダ」から「五輪テ―ヘンダ」に路線を変えた。
沖縄2紙もご多分に漏れず「五輪開催 テーヘンダ」の大合唱。
あたかも五輪開催反対が「世論」であるかの発狂ぶりである。
数年まえ、本土ジャーナリストに対し、沖縄2紙の記者が「沖縄の世論は我々(沖縄2紙)が作る」と豪語していた。
最終的に五輪開催の決定権はIОCにあるのに、あたかも日本政府に決定権があるかのような暴走である。
[大弦小弦]世論を嫌うブレーンたち
菅義偉政権のブレーンたちは、ほとほと「世論」が嫌いなようだ。政府の成長戦略会議委員を務める竹中平蔵元総務相はテレビ番組で、東京五輪の中止を求める声に「世論はしょっちゅう間違ってますから」と発言した
▼内閣官房参与だった高橋洋一氏が、コロナの感染状況を「この程度の『さざ波』で五輪中止とかいうと笑笑」と世論をあざ笑い、辞任したばかり。竹中氏は自身の動画で「内閣官房から天才が奪われた」と褒めちぎった。感性が似ているのだろう
▼そもそも世論を「正しい」「間違い」で選別するのは危険だ。都合が悪い意見は「間違い」と見なし、葬れる。為政者が耳を傾けて対応すべき、市民の叫びと捉えるのがまともな政治感覚だと思う
▼五輪が近づき、政権は異論を疎んじている。政府のコロナ対策分科会の尾身茂会長が「今の状況で開催するのは普通はない」と発言すると、官邸幹部は「尾身氏に開催の是非に言及する権限はない」。邪魔をするなと言わんばかりだ
▼福田赳夫元首相が自民党総裁選で敗れた際に「天の声にも、変な声がある」と発言したのは有名。この場合の「声」は党内世論だろう。言いぶりに、いくらかユーモアも感じる
▼竹中氏は、幅広い市民の懸念を「間違い」と一蹴した。ブレーンの体質と五輪へ突き進む政権の姿が、重なって見える。(吉田央)
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>内閣官房参与だった高橋洋一氏が、コロナの感染状況を「この程度の『さざ波』で五輪中止とかいうと笑笑」と世論をあざ笑い、辞任したばかり
吉田記者は、悔しかったら高橋氏の「さざ波」理論に真正面から反論してからコラムを書くべき。
論理的に反論できないマスコミが大口を叩くから高橋氏に「頭が悪い」とバカにされる。
その一方、沖タイの親分格の朝日新聞など大手新聞社は、一旦反対してはみたが政府は五輪の主催者ではなく決定権がIОCにあると分かってから、急遽「手のひら返し」をはじめた。
その理由は、朝日新聞社をはじめ、読売新聞グループ本社、毎日新聞社、日本経済新聞社、産業経済新聞社、北海道新聞社という5大全国紙を含む6社は東京五輪のスポンサーになっているからだ。
自分がスポンサーになっている五輪開催に反対したら「さざ波」と同様に世界の物笑いになる。