狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2022-02-19 17:28:03 | 政治

新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2021-06-10 00:52:48 | ★改定版集団自決

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沖タイの歪曲記事、徳嵩氏、故赤松大尉直筆の手紙を届ける2012-05-12 

 

                 ☆

■沖縄タイムス 1983年6月8日付記事。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である

             ☆

 

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

 

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知の通りである。

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続・安里巡査の証言、「慶良間の真相」

2022-02-19 16:15:18 | 政治

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続・安里巡査の証言、「慶良間の真相」2012-05-01

 

 パンドラの箱を開けた宮城晴美さん
 一九九五年六月下旬、沖縄タイムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺言―切り取られた〝自決命令〟」を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、子供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は〝嘘〟だった、というのだ。「母はどうして座間味の〝集団自決〟が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。


 ―一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に〝玉砕〟の申し入れを断られた五人はそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。―


 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要)の中で次のように記している。「二十五日夜十時頃、戦備に忙殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その用件は次の通りであった。一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。二、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。私は愕然とした。私は答えた。一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。二、弾薬は渡せない。しかし、彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開されたので、彼らは急いで帰って行った。」


 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来、軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人々は戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんは晴美さんに残した手記で記していたのだ。


 そうか、そうだったのか。僕の目の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般住民の戦死者でも戦闘に協力した者には「年金」を支給するという条件を出してきたため、座間味だけではなく、渡嘉敷でも「隊長命令により自決した」ことにせねばならなかったのだ。宮城晴美さんは正にパンドラの箱を開けてしまった。「母は関係者が存命しているうちは発表してはならないが、いつか必ず真相を発表してくれ」と晴美さんに遺言していたが、晴美さんは母の遺言に背いて新聞で発表した。『母の遺したもの』という本を出版し、時の人となったが、村の関係者から「余計なことをした」とさんざん叱られる羽目になり、本を書き換えたり、裁判に出ては涙ながらの証言をしたり、パンドラのようにひどい目に遭っているようだ。パンドラの箱から飛び出したものが元に戻らないように、彼女が告白した衝撃の真実は変わらない。パンドラの箱からこの世の全ての悪徳が飛び出した。宮城晴美さんは真実の扉を開けた。パンドラの箱には希望が残ったが、晴美さんの箱には知りたくない真実が残った。だが、少なくとも僕の眼の前の霧を払ってくれた。心から感謝している。


 二〇〇六年一月、産経新聞は、琉球政府で援護課業務に携わった照屋昇雄さんに取材し、「遺族たちに戦没遺族援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言を得た。照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と涙ながらに語った。ところが、沖縄タイムスは「照屋氏は一九五七年には援護課に勤務していないという証拠がある」と産経新聞の「誤報」を報じたが、後日、照屋さんは大切に保管していた一九五四年の「任命書」を提出し、この問題は結着したが、タイムスがこの失態を報ずることはなかった。タイムスも新報も重要証人の照屋昇雄さんに一切取材していない。


 梅澤さんは前記の手記の終りに記している。「座間味島の軍命令による集団自決の通説は村当局が厚生省に対する援護申請のため作製した『座間味戦記』および宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島』の手記が諸説の根源となっている。」初枝さんが梅澤さんに「本当にごめんなさい」と謝った時、梅澤さんは感涙したとのことだ。 (つづく)

            ☆

■八重山日報 2012年5月1日

 

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。―(前略)今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。(中略)村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。―


 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。―(前略)安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。(中略)先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次


 これが慶良間の〝集団自殺〟(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。―恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。(中略)座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降。隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。―


 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。


 人間の尊厳を取り戻す時
 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。―


 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。


 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ。僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。                                               (おわり)

             ☆

我々は「言論の自由」などと気軽に言うが、発表する場所の無い言論など一片の紙屑にすぎない。

だが弾圧され、言論封殺された言論が逆境を乗り越え一旦日の目を見ると、本来の価値に加えて輝きを増し、その反動で読む人の胸を打つ場合がある。

ドキュメンタリー作家上原正稔さんの著作「慶良間で何があったのか」が、それだ。

琉球新報が「社の方針と異なる」という理由で掲載拒否したことを、「慶良間で何が起きたのか」を本日の完結編まで読んだ人なら容易に理解できるだろう。

仮に琉球新報が読者を舐めきった暴挙に及ばず、そのまま上原さんの連載記事を継続していたらどうなっていたか。

勿論「言論封殺」で訴えられることもなかった。

「慶良間で何が起きたのか」の記事がネットに載ることもなかった。(琉球新報はこの種の連載記事はネットには載せない) 

したがってこのようにネットを通じて「幻の原稿」が全国に拡散されることも無かったはずだ。

琉球新報が必死になって封殺しようとした「慶良間の真相」は、皮肉にも、琉球新報自身の「言論封殺」により全国読者の耳目に触れる機会を与えられたことになる。

さらにもう1人、「幻の原稿」に輝きと弾みをつけた功労者の名を忘れてはいけない。

南の島の小さな新聞八重山日報だ。

沖縄の代表的新聞琉球新報に反旗を翻すことは、異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」で同じ記者クラブに属する弱小新聞としては、かなり勇気の要ることだ。

さすがの八重山日報も上原さんが琉球新報を提訴した経緯を書いた拙原稿を寄稿したときは、琉球新報社の社名を「R社」にする気の使いようだった。

だが八重山日報はあえて上原さんという火中の栗を拾った。

八重山日報の決断は、閉塞した沖縄の論壇に風穴を開けたことになる。

八重山日報の勇気ある行動にはいくら賛辞を送って余りあるものがある。

           ☆

 

上原さんの原稿に登場する比嘉(安里)喜順さんは4年前の2008年、94歳の天寿を全うされた。

「集団自決」は安里喜順巡査にとってまことに不幸なめぐり合わせであった。

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任したばかりの単身赴任であり、島の様子にも不案内であった。

ところが、渡嘉敷着任の一ヶ月足らずで、本島に新設された塩屋警察署への転勤が決まり、本島へ戻るはずだった。

本島との船便の連絡が途絶えがちだったため、その辞令を受けるのが遅れ、結局島を出ることが出来なかった。

結果的に「集団自決に」に巻き込まれることになる。

昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。

 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。>(「沖縄県警察史」より)

軍隊の主たる任務が敵との戦闘で有るのに対し、警察の主たる任務は住民の安全と秩序を守ることである。

平時にあっては武力を持つ二つの組織、軍隊と警察は日本の官僚伝統のセクショナリズムでしばしばいがみ合うことがあった。

だが、たった一人で島に赴任してきた安里巡査にとって自分の属する警察機構の上部のセクショナリズムに考えが及ぶことはなかった。

新任の安里巡査は、

島を取り囲む敵の艦船の前では全く無力であり、住民を守るためには赤松隊長の守備軍に相談する以外に打つ手はなかった。

島の住民の中では、村長、助役、校長等の有力者が島民をリードする立場にあったが、安里巡査も勿論このリーダーの1人であった

ここで分かりにくいのは防衛隊員の存在である。

防衛隊員は現地招集の軍属である一方、村の助役や島民が兼任していた。

小さな島で島民と軍属の二つの顔を持つ防衛隊員という存在。

これが「集団自決」問題を複雑にしている。

防衛隊員は軍属として軍の陣地に出入りを許可されていたが、その一方で自宅には父として夫として頻繁に帰宅していた。

手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任がまさにこの防衛隊員だった。

 

次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 
私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。(「沖縄県警察史」より)

軍官僚と警察官僚の対立で有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。

だが、戦時中それも敵の上陸を目前にして日本の巨大組織の末端にいる赤松隊長と安里巡査はお互いの主任務を超えて住民の安全を守るため相談しあっていた。

日本の官僚組織の末端で任務に就く若い二人にとって、

「集団自決」はまことに不幸なめぐりあわせであった。

その時赤松大尉は25歳、安里巡査は29歳である。
   

■安里巡査を取材していた地元作家■

安里巡査の証言が「沖縄県警察史」に採録されたのは昭和63だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。

「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。

「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。  そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。 

それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)

安里巡査の昭和63年の証言と20年前に独自の取材をしていた作家星雅彦氏の取材とは一致しているし、元琉球政府職員照屋昇雄さん、渡嘉敷島「集団自決」の生き残り金城武徳さんの証言とも一致する。

勿論、赤松隊長は敵の攻撃から避難する場所の助言はしたが(これを軍の命令する人もいる)、

「軍の命令で集団自決をした」という証言はない。

4年前の2008年、比嘉(旧姓安里)喜順さんは94歳の天寿をまっとうされた。

重要証言者の死

 

「集団自決」を分かりにくくしているも一つの要因に関係者の名前が当時と戦後で異なっている例が多いことである。

例えば手りゅう弾を配ったされる富山兵事主任も戦時中は新城の姓であった。

安里巡査も戦後比嘉家に養子に行き姓が比嘉に変った。

「集団自決」に軍の命令はなかった」と証言する証人たちに取材する沖縄のマスコミは皆無である。

これは上原さんの原稿を掲載拒否した琉球新報の言論封殺と軌を一にする。

 

安里巡査を取材した本土新聞記者■

「世界日報」の鴨野記者が安里元巡査を取材した記録がある。

記録保存のため同記事を以下にコピペする。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」


戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。

古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。

二十分余りのインタビューで比嘉氏は、

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。

比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。

その中で赤松氏は

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。

これに対して徳嵩氏は

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」

などとコメント。

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。

比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。

「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。

……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。

「敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」

そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。

彼は『ある神話の背景』を読み、

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた」

と率直に吐露。

比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

http://www.worldtimes.co.jp/ HPから日本初の電子新聞が読めます。 2007年 臨時増刊号

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安里巡査の証言、「沖縄警察史」より

2022-02-19 13:14:26 | 資料保管庫

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沖縄県が日本復帰50年の節目に『沖縄現代史』を刊行するという。

沖縄2紙に歪められた戦後沖縄の黒歴史が公的刊行物として歴史ロンダリングが行われるのを危惧する。

本日登場する安里巡査(戦後比嘉と改名)は、渡嘉敷島の集団自決現場に立ち会った重要証人だが、同氏が戦後沖縄に在住しているにもかかわらず、彼に取材した沖縄メディアは一人もいない。 

現場に立ち会った重要証人に取材すると不都合な事実が露見するからだ。

 

安里巡査の証言、「沖縄警察史」より2012-04-30

琉球新報が己のイデオロギーを守るため掲載拒否した上原正稔さんの連載沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」

その核心部分である「慶良間で何が起きたのか」が現在、南の島の小さな新聞「八重山日報」で連日好評掲載中である。

同時にこの幻の原稿は沖縄戦研究者の注目を浴びている。

琉球新報の面目はこれで丸潰れである。

琉球新報の独善的な掲載拒否により知る権利を奪われた読者の怒りが今、燎原の火の如く県内に広がりつつある。

筆者の知人にも上原さんの原稿を八重山日報で読んで怒り心頭のあまり琉球新報の購読を止めた人が複数いる。

琉球新報の面目が潰れれば潰れるほど読者は離れていく。

石垣市の読者より上原さんの記事を読んだ感想をメールで頂いた。

重い内容ですが、「極限の事実」、しっかり受け止めて読みました。
それにしても琉球新報の読者の皆様にはお気の毒なことです。

琉球新報の罪は相当に重い、と思いますね。書き手の書物から事実を知り、
学ぶ、読者の喜びであり、知的財産です。これを奪う罪ですね。

石垣島より


■八重山日報 2012念4月29日

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 現地調査で知った意外な事実
 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」


 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」


 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」


 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。  (つづく)

              ☆

 

上原さんの文中に登場する集団自決の証言者で、琉球新報の方針と異なる証言をする人は、例え県内に在住している人でも、沖縄メディアは決して取材することは無かった。

最近物故されたが、1945年3月当時渡嘉敷島の巡査をしていた比嘉喜順さんや赤松隊長と終始行動をともにしていた知念朝睦副官らがそうだ。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかけ、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護法による年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、知念さんや比嘉(安里巡査ー戦後比嘉家に養子で改姓)さんは当時成年であり信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。したがって「援護金」のために嘘の証言をする必要の無い証言者である

また知念副官も他所から赴任した島の血縁社会には無縁な軍人であった。

当時安里巡査は29歳で知念副官は25歳。 二人とも渡嘉敷の血縁社会には無縁であり、親族に「集団自決」の被害者のいない証言者であり、「援護法」に絡む嘘の証言の必要の無いよそ者であった。

年齢的にも、村の指導的立場の副官、警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんと知念さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「(沖縄2紙にとって)不都合な真実」を知っていたからである。

 

安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

安里氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓したことは前に延べた。

曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する安里氏の証言を改めて読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある

 

琉球新報が卑劣にも上原さんに断りも無く削除した一節には、渡嘉敷島集団自決の最重要証人である安里(比嘉)巡査の名前が記されていた。

 

安里巡査の証言を「沖縄警察史」という公的刊行物より2回にわたって紹介する。

安里(比嘉)喜順氏の証言-1

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。
渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。

 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

(つづく)

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★沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2022-02-19 07:55:41 | 資料保管庫

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昨日の記事で「平和学者」で元県知事・大田昌秀の著書『二人の少女』を巡る大田の大嘘を暴露した。

実は、「二人の少女」については、ネタ本がある。 『鉄の暴風』の出版元である沖縄タイムスの記者で後の同紙の社長を務めた新川明の出版物だ。

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログ新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動2009-08-12 を編集・再掲します。

                ★

『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。

当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として沖縄紙の紙面を賑わしている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。

新川明

 

以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集した再掲です。

                   ◇

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” 

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。

中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。

うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

 

 

■白旗の少女

白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場する。

「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。

少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。

以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作

白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。

だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。

記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。

新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。

そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。

 兵隊たちがいいあらそいをはじめました。

「おとなしく出れば殺さないはずだよ」

「では、だれがさいしょに出るのか」

「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」

ほかの人たちもいいあらそっています。

「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」

りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと

隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。

「ためしに子どもをさきに出してみよう!」

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよろとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のように書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。
 >
 
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。

また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。

■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言

記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。

そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。

「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていたであろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、そうではない。

相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

「りゅう子の白い旗」の書評

●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている

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「いきなり出てきて警棒で」沖縄県警、眼球破裂の高校生から聞き取り 食い違い解消されず

2022-02-19 06:00:22 | マスコミ批判

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「いきなり出てきて警棒で」沖縄県警、眼球破裂の高校生から聞き取り 食い違い解消されず

配信

琉球新報

県警「軽率な投稿慎んで」

                 ★


新着順
この頃はね | 11時間前
非表示・報告

眼球問題ばかり取り上げているが、事の本質からそらそうとしているように感じる。
なぜこの事件が起きたのかを解明しないと駄目
その次になぜ少年が警察官と対峙することになったのか
制止する警察官になぜ少年が突っ込んだのか
制止しようとしている警察官の行為は正当だったのか
警棒を使用したのは制止するためだったのか身を守るために使用したのか
まずそこを解明しないといけないのでは。

警察官は職務により制止しようとしたがバイクが突っ込んできたので身を守るために
警棒を使用したと見るのが正当ではないだろうか。
しかし不幸にも少年の目を直撃してしまった。こう見るのが正しいのでは

返信503

38929
4349
hni***** | 11時間前
非表示・報告

琉球新報もメディアを名乗るのなら、この事件の現場やその時の状況を可能な限り再現して、公開すればいい。なんとなく、警察を悪者にしたいと言う意図が透けて見える。
どんな道路で、道路とか住宅や建物の配置、時刻、気象状況、バイクのライトの点灯の有無、バイク運転者のスピード、ヘルメットの着用の有無、バイク免許の有無、履物、服装、飲酒の有無などなど、分かる範囲で報道してはどうなの。
「突然に飛び出して来た!」と言う状況についても、確り前後の経緯を確認する必要があろう。
怪我をしたことが意外に大きく取り扱われているが、元はと言えば、逃走から始まった事なのではないのか。何故、逃げる必要があったのかね。過去にも、同様の迷惑行動をしていたことがあるのではないか。

返信180

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yorosiku | 11時間前
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文春 1月30日記事では・・・
いきなり殴られた恐怖で逃げた。殺されると思った。」と発言。

一貫して発言が変わらないとの記事ですが「殺されると思った」はどこへ消えたのですかね。
恐怖で逃げたのなら「殺されると思った」の方がインパクトが高いと思いますが・・・。
しかも、いきなり出て来たのなら、まず運転者は「ブレーキ」をかけないと危険極まりないと思いますが、何故、殴られる前にブレーキもかけずすり抜けようとしたのか。
猫や犬が急に出て来て止まれないにしても反射的に咄嗟にブレーキは踏むでしょう。
重要なのは、警察が出て来た時にどういう動作をしたのかって事がポイントでしょうね。
警察が極悪人と断定出来ているならまだしも、深夜にライト点けて反射して眩しい状況下なら、どんな人が運転しているかの確認は不可能でしょうから、まずは停止をさせるだけでしょう。
いきなり警棒で殴り付けるはあり得ないかと。

返信169

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a22***** | 12時間前
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走行しながら向かってくるバイクを静止させる為に警官が警棒を持った手を咄嗟に伸ばしたら、それをかわして逃げようとした少年の目に運悪く当たってしまった。っていう気がする。

仮に警官が警棒で意図的にフルスイングで殴って来たら確実に転倒するだろう。衝突の後、走行し続けられたのだから“殴られた”っというより“あたった”という表現の方が適切に感じてしまう。

でも、職務中の警官も軽傷を負ってるわけで…これって轢き逃げしてますよね?

返信106

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kam***** | 11時間前
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日本の警察が暴漢に対処できずあたふたしている動画が
面白おかしく紹介されてしまってたりしますが
結局、力で対処するとこうなってしまうという所もあるんじゃないかなと思いますね
危険と隣り合わせの仕事でバイクと対峙して何ができたのか
もしかしたらもっと酷い事件になっていたかもしれないことを
身を挺して未然に防いだ可能性もあるわけで
高校生という言葉を強調するのではなく深夜にバイクで逃走しようとしていた男
と正しく表現するべきだと思いますけどね

返信59

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yos***** | 11時間前
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少年の言う様に警棒で目を突かれて眼球が破裂したとして、果たしてそれを証明できるのですかね。眼球が破裂するほどの衝撃を受けても運転が続けられるものなのか、逃走を続けた先で自分で転倒してぶつけて眼球を破裂したと捉える方が自然。もし、警棒で目を損傷したと言うなら激痛でその場で悶絶して動けないのが普通だと思いますけど。

返信46

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msa***** | 10時間前
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普通に考えると警察官が何もしていない相手に対して警棒を抜くはずはないと考えられます。また危険を回避する為に使ったとしても相手の眼球を狙ったりもしないと思う。
なぜこの様な状況になったかを考えると
少年にも問題はあったはず。
眼球破裂と大怪我をしてる為あたかも被害者のように書かれてたりしますが
バイクに乗ってて警察官が制止をしたのを振り切ろうとしたと思います。バイクに突っ込まれると見の危険を感じたから防御したのだと思います。また警棒が当たって眼球破裂したって彼はヘルメットを被ってなかったのか?被ってなかったのであればまたそれはそれで問題である。意見が食い違ってるのはどちらかが嘘をついてる事は明らかだが
怪我の事は一旦置いといて真実を突き止めてもらいたいですね。

返信24

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aka***** | 11時間前
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まずは警察官は海外のように常時録画できるカメラを胸に装備するのがいいと思います。お互いの主張が正しいのか正しくないのか、双方非があるとしたらその部分を隠しながら話しているのか、わからないです。
今後無駄な時間を費やさないためにも警察は常時録画して行動するのを薦めます。

返信23

3495
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hwr***** | 9時間前
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記事を見て思ったことです。
 
新聞、ニュース、雑誌記事には、
高校生本人が直接、会話をしたような内容で、
1月27日から報道発表されていたのですが、
実際に高校生本人がマスコミの取材に応じて、
自分の言葉で応えられるようになったのが、
いつなのか気になります。
 
それから、通行人の目撃者がなくて、
監視カメラ等の映像がないとのことですが、
高校生本人からDNAの検体を採取して、
県警が科学捜査研究所に送ったものを鑑定して、
この鑑定結果などを基に、
接触当時の状況を詳しく調べて、
状況を再現することが可能なのかどうか
とても気になります。
 
また、鑑定結果などを基に
接触当時の状況を詳しく調べて得られた内容から
接触当時の状況を再現することができた場合、
この内容を元にシュミレーション映像にして、
公開していただけるのを期待します。
 
全ての謎が、科学的に解明されるのを期待します。

返信8

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mik***** | 10時間前
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路上取り締まりにおいて、警察官が路上側面から飛び出して旗を振り降ろし停止を求めるのは一般的によく見る光景である。警察官の正当な職務執行として何ら問題なしと思われる。旗がなければ警棒などを差し出して停止を求められることもある。。これも職務執行
の一環として認められるはずだ。警棒等を使用することによって自身の身の安全を守る必要がある。今回の詳細は分からないが、警察官が飛び出していきなり警棒を振るって暴行するなどは到底考えられない。考えられるのは差出した警棒が不運にも目に強くあたったというのが真実ではなかろうか。

 

【おまけ】

沖縄タイムス+プラス ニュース

高校生の失明 採取したDNAと警棒の鑑定進める 沖縄県警「暴走行為していない」とSNS情報を否定

2022年2月18日 16:04

 1月27日未明に沖縄市宮里の路上でバイクを運転していた男子高校生(17)と巡回中の男性巡査(29)が接触、高校生の右眼球が破裂し失明した事案で、県警捜査1課は18日、男子高校生から事情聴取を開始し、採取したDNA鑑定を進めていると発表した。接触時に巡査が手に持っていた警棒などの鑑定も進め、その結果を踏まえ事実関係を明らかにしていくとした。

 捜査1課はSNSなどで一部事実誤認が拡散されているとして「男子高校生は当時暴走行為をしておらず、ヘルメットをかぶり、免許を持っていた。バイクは盗難車でもない」と説明した。

 男子高校生は聞き取りに対し「バイクで走行中にいきなり警察官が現れ、警棒で殴られた」「怖くなって現場から逃走した」と話しているという。記憶は明瞭という。

 また、自らの119番通報で「バイクの事故」としたのは「(警察官に殴られたと言えば)いたずらだと思われるので事故と通報した」と説明したという。

 

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バスに乗り遅れるな!「三国同盟」と「カーボンゼロ」

2022-02-19 05:16:00 | 政治

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三国同盟の「バスに乗り遅れるな」

日独伊三国同盟 「根拠なき確信」と「無責任」の果てに (角川新書)
アゴラの「カーボンニュートラルは21世紀の三国同盟」という記事が今ごろヘッドラインに上がっているので、82年前の日独伊三国同盟の本を紹介しよう。これが日米開戦へのpoint of no returnだったという歴史家が多いが、当時の政府部内では反対が強かった。

その情勢を逆転した主役は、松岡洋右外相である。彼は昔の外交官によくある「語学バカ」で、英語で1時間でも2時間でも原稿なしでしゃべったという。松岡は1940年7月に近衛内閣の外相として迎えられ、三国同盟の締結に奔走した。
 
前年からドイツ軍はヨーロッパで快進撃を続け、北欧やフランスを占領して、イギリスの陥落は時間の問題だと思われていた。イギリスのアジアの植民地を獲得するためには、日本軍は早く東南アジアを占領すべきだという火事場泥棒的な南進論が強まった。

対英戦争は、必然的に対米戦争になるので海軍首脳は慎重だったが、松岡は「対米戦争も辞さず」という強硬方針を打ち出した。日独伊がソ連と連携し、イギリスが降伏すれば、アメリカは中立を守るとみていたのだ。そのためヒトラーと会談して、日独伊ソ四国同盟の締結を提案したが、そのときヒトラーは対ソ戦を準備していた。


松岡の状況認識は今からみると荒唐無稽だが、当時はそうではなかった。東京日日新聞ロンドン特派員の「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行語になった。今でいえば「カーボンゼロに乗り遅れるな」という日経新聞のようなものだ。三国同盟が結ばれたときの新聞は、祝賀一色だった。

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そのバスとは、ドイツがヨーロッパを征服して民主主義の時代は終わり、全体主義の時代が来るという時代の流れだった。その「空気」は陸海軍の現場にも共有され、政府や軍の首脳もそれに屈服した。その点では対米戦争の意思決定は民主的に行われたのだが、そこには致命的な見落としがあった。
 

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