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世界日報「真実の攻防」から、沖縄タイムスの古い記事の紹介です。
沖縄タイムス1998年1月6日 朝刊 6面>
忘れ得ぬあの取材
比嘉敬さん
岸・高嶺会談
写真撮影に没頭 メモ忘れた
入社したのは一九五〇年。新聞広告を見て応募したが、正直言って、新聞社なのかどうか、よく分からずに応募した。比嘉博さんら採用予定枠の二人はすでに決まっていたので、どうなるのか分からなかった。そこへたまたま通りかかった専務の座安盛徳さんが私の兄をよく知っているということで、机の上にあった紙に簡単な略歴を書かされて「あしたからすぐ来い」と言われた。
翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。
入社三年ほどで東京勤務になった。五七年六月十一日、日本規格協会理事長の高嶺明達さんを介して、訪米前の岸信介首相と本社の高嶺朝光社長の対談を企画することができた。明達さんは岸首相のブレーンの一人だった。
取材では、写真が肝心といわれていたので、頭には写真のことしかなかった。フラッシュをたかずにバチバチやっていたら、岸首相が「そこは逆光だから、こっちにいらっしゃい」と明達さんを明るいところへ呼ぶなど、気を使ってくださった。
写真撮影に一生懸命なあまり、メモを取ってなかったので、対談の内容はほとんど覚えてなかった。あとで「どんな話でしたかねえ」と社長に聞いたら、「君は取材に来て、メモも取らないのか」とこっぴどく怒られた。(談)(元沖縄タイムス社長・現琉球朝日放送社長)
◇
上記記事で注目黙すべきは、「『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行った」というくだり。
『鉄の暴風』が沖縄タイムス独自の企画ではなく、米軍の企画を沖縄タイムスが代行したという情景がよみがえる。
■日本軍を誹謗した『鉄の暴風』の発刊を」拒否したシーツ司令長官
発行権を有するシーツ軍司令長官は『鉄の暴風』は読み物とは面白いと周囲に購読を勧めるが、結局発刊を拒否する。(軍司令長官は当時の沖縄の最高権力者で、後に高等弁務官に変わる)
そこで座安専務一行は上京してマッカーサーの発行許可のお墨付きを得て、初版は朝日新聞から発行される。
発刊後、シーツ長官は病気を理由に沖縄司令長官を辞任し、米本土で軍関係の私立学校の校長などを務めるが、シーツ長官が『鉄の暴風』の発刊を拒否した理由は不明である。
これは筆者の推測だがシーツ長官は沖縄戦で日本軍の果敢な防御戦に、苦労をした沖縄戦の現場を知る軍人である。
そのシーツ長官が『鉄の暴風』の英訳本を読んで「読み物としては面白い」と感想を述べたが、発刊は拒否した。拒否の理由は『鉄の暴風』で描かれる日本軍は住民に自決を命ずる程卑劣で「残虐非道」である。
一方シーツ長官が実戦で体験した勇猛果敢で士気溢れれ称賛に価する日本軍の印象とは、あまりにもかけ離れており、『鉄の暴風』の嘘八百を本能的に見抜いていたからではないか。
<1998年5月26日 朝刊 6面>
人物列伝 沖縄 戦後新聞の足跡(21)
マッカーサー元師と会見
座安盛徳(10)
特ダネで現地米軍けん制
活字印刷にもめどつける
ガリ版刷りでスタートした沖縄タイムスが活字印刷に移行したのは、創刊一周年を目前に控えた一九四九(昭和二十四)年六月五日の第五十六号から。ガリ版刷りでは六千部までが限界で、それ以上は原紙が切れたり、写りが悪くなったりするので、新たに原紙を切らなければならない。活字印刷への移行は避けられない状況だった。
この活字印刷移行にめどをつけたのも座安盛徳だった。その年の五月、奄美大島名瀬市の印刷会社「自由社」を営む重江国雄が、沖縄で一旗揚げたいと活字と印刷機を持参した。その話を聞いた座安は「場所は提供するから機材を利用させてくれ」と申し入れ、沖縄タイムス社屋内に印刷所を設け、共同経営するという方向で話をまとめた。
平版印刷機二台と活字八万個が持ち込まれ、創刊一年もしないうちに紙面を一新したのである。
こうして次々と設備を充実させる中、翌五〇(二十五)年五月二日、座安は東京で米極東軍司令官マッカーサー元帥への会見に成功する。同年五月六日の沖縄タイムスは特ダネとして一面で大々的に報道、社説でも扱っている。随行記者などいないから、記事を書いたのはもちろん当時専務の座安自身である。
その日の紙面によると、沖縄新聞界代表の座安は、日本本土への視察旅行中、一週間前から申し込んでいた会見が許可され、約一カ月も前から交渉していた北部琉球代表の笠井大島副知事、有村大島産業社長、久保井大島農業会長の三人とともに五月二日午後七時から三十分間、第一相互ビル六階の総司令部司令官室で沖縄人として初めてマッカーサーに会見した。通訳は田上中尉。
(座安特派員発)というクレジットの付いた本記で座安は次のように書いている。
「田上中尉に導かれて司令官室に入ると、マッカーサー元帥は身軽く椅子(いす)を立って急ぎ足に一行を迎え温顔をほころばせ一人々々とかたい握手を交わし遠来の労をねぎらいながら椅子をすすめた。かくてマ元帥は会見劈頭(へきとう)『沖縄復興はどうなっているか』と質問したが、これに対し一行から『シーツ長官赴任以来希望をとり戻して明るい気持で復興にまい進している』旨答えると、如何(いか)にも満足の態でアイシーを連発し『米国及び米国民は琉球の復興と平和と経済的独立を希望し多大の関心を有(も)っている』と語り、更(さら)に語をついで、食糧事情はどうか? 被服、住家はどんな状態か…、六カ月前とはどうか…、戦前とはどうか…、日本の経済事情との比較は…生活物資はどちらが多いか…、等々…矢継ぎ早に質問を発した」
さらに座安は、自分が見たマッカーサーの素顔を次のような雑感記事にまとめている。
「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして歯に衣を着せないで実情を訴えた。記者が『終戦以来太平洋の悲劇は沖縄人だけで背負った形で前途頗(すこぶ)る悲観していた、今日ではゼネラルシーツの赴任によって希望をとり戻し明るく復興にまい進している、この際元帥のメセージを』と云えば『君は僕と話しているから、それを書けば一片の紙切れにすぎないメッセージなど、どうでもよいではないか』と軽く打込んで一本参らすなど、すっかり父親の意地悪にベソをかかされた形で、いよいよ思い切り甘えてみたくなった」
かつて鹿児島で一人何役もこなしながら、発行していた郷土雑誌『沖縄』で見せたあの語り口そのままの文章ではないか。沖縄朝日に入社後四年で新聞記者から営業、経営者に転身した座安が記者として、その文章を見せた極めて珍しい例だろう。その行間に本来は、やはり経営者よりも活字人間を目指していたと見るのは、読みすぎだろうか。
記事の最後に座安はこう書いている。
「尚(なお)別れに際して元帥は是非一度は沖縄にも行きたい、有力者が上京の際には訪ねてもらい度(た)い等と語り、グッドバイ、グッドバイを連呼して握手を交わし部屋の入口まで一行を見送った」
その言葉の通り、マッカーサーはその年の暮れには、いわゆるスキャップ指令(琉球列島米国民政府に関する指令)で改称された米国民政府の民政長官を兼任、沖縄を訪れている。
このマッカーサーとの会見。実は座安にとっては、ほかの所用を兼ねた上京だった。四九年五月に編集プランが立てられて以来、牧港篤三、大田良博が取材、執筆、十一月に脱稿した沖縄戦記『鉄の暴風』の出版を朝日新聞に依頼しようと上京したのだった。
前年の末に沖縄と本土間の正式渡航が開始されたばかりで、それも沖縄の米軍政府と在日米軍への面倒な手続きを必要とした。新聞社員の本土派遣は認められず、座安の渡航申請も「印刷業代表の本土視察」という名目でパスしたのだった。
ところが座安の上京はこれだけでもなかった。出版の協力依頼のほかに本土で輪転機を探してこようという魂胆があり、事実年内に北海タイムスからマリノニー式輪転機を購入するめどをつけたのだった。一度の上京で三つも大きな仕事をこなし、一線記者並みに記事も書いたのである。
座安のマッカーサー会見について高嶺朝光は『新聞五十年』(沖縄タイムス社)で次のように振り返っている。
「マ元帥が会見に応じたのは、沖縄からはるばるやってきた業界代表と聞いて、宣撫(せんぶ)工作にでも利用できると思ったのだろう。また、座安君が会見によるプラス…たとえば沖縄現地米軍へのけん制…を計算に入れていたのは間違いない。それから数日後、私は米軍政府に呼び出され、係官の質問を受けた。『ほかの新聞から抗議が来ている。新聞代表でもないのに、座安氏がマ元帥と会ったのはけしからんと言っている。本当に新聞代表として上京したのか』。私が『代表などとは言っていない。単なる印刷業の視察だ』と答えると『そうだろうな』と係官、はじめてホッとした顔色を見せた。ほかの新聞社から抗議をうけたのは、座安君を新聞代表として渡航を許可したミス…と係官は思ったのかもしれない。それ以上に座安君のマ元帥との会見で一番驚いたのは沖縄現地米軍で、座安君が何か告げ口でもしなかったかと、あわてたようだった」(敬称略)(編集委員・真久田巧)
『鉄の暴風』が裏付け調査のないデタラメな噂話の類で埋められていることは多くの研究者によって明らかにされているが、そのデタラメな取材の証言者を米軍の協力でかき集め、執筆者に引き合わせる大きな役割りを果たしたのが沖縄タイムス創業者の一人である座安盛徳氏だと言われている。
沖縄タイムス専務の座安盛徳氏は、後に琉球放送の社長もなるマスコミ人だが、そのユニークな性格は文筆で活躍するというより、巧みな交渉力で絶対的権力を持っていた米軍上層部の信頼を一手に集め、不足していた新聞用紙やその他の物資の調達に力を発揮していた。
上記引用文にもあるとおり、米軍との交渉は全て座安氏が仕切り、当然『鉄の暴風』の出版、執筆にも大きく関わっていた。
『鉄の暴風』は豊平良顕氏が監修で、執筆は牧港篤三、太田良博となっているが執筆のほとんどは、戦前からのベテラン記者である豊平、牧港の両記者を差し置いて、入社したての記者としては素人同然の太田氏が行っている。
『鉄の暴風』の執筆には執筆者が自ら取材することはなく、会社側、つまり専務で米軍の信頼の厚い座安氏が米軍を通じてかき集めてきた話をそのまま面白おかしく書き綴ればよかったのだ。
ここで『鉄の暴風』のデタラメさを端的に示すのが太田良博記者による山城安次郎氏の取材である。
沖縄の戦後史は沖縄タイムス・琉球新報と言う沖縄2大紙によって歪められた黒歴史である。
昭和24年、沖縄タイムスの太田良博記者は『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(当時の座間味村助役)に取材している。
太田記者の執筆手法には証言や史料の収集を基本とする新聞記者の姿勢はない。
渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことは勿論、取材といえば専ら「米軍」が集めた人々の話が主で、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。
新聞記者の太田良博氏が、ドキュメンタリー作品の基本ともいえる当事者への取材もないずさんな記述で『鉄の暴風』を書き上げたのに対して、それを批判する立場で『ある神話の背景』(後に『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真相』と改題で再出版)を書いた作家・曽野綾子氏のルポルタージュ的記述手法は極めて対照的であった。
曽野氏は伝聞に頼る太田氏のずさんさんな取材手法を同書(『集団自決の真相』)の中で次のように指摘している。
<太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった>
この部分に関して太田氏は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両氏が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論し、「(両氏は)証言者ではなく情報提供者」とも述べている。
太田氏が宮平、山城の両氏とどのように接触したかはともかく、そのとき山城氏は渡嘉敷島の伝聞情報である「赤松大尉の暴状」について語り、「そのことを戦記に載せてくれ」と頼んでおきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。それが大きな問題なのである。
戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。
事件を追う事件記者が、飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。
これは記者としてはいかにも不自然である。
太田氏の言うように、その時、何のメモも取らなかったということも、にわかには信じがたいことである。
■大田良博と沖縄タイムスの関係
このように新聞記者としては不適格にも思える太田氏が何ゆえ沖縄タイムスが社を上げて企画をした『鉄の暴風』の執筆を委ねられたのか。
その謎を解く鍵は太田氏の沖縄タイムス入社直前の職にあった。
太田良博記者の略歴を見ると、『鉄の暴風』の監修者の豊平良顕氏や共著者の牧港篤三氏のような戦前からの新聞記者ではない。
そもそも太田記者と沖縄タイムスとの関係は、沖縄タイムスの月刊誌にエッセイ、詩などを寄稿していたが、昭和24年に発表した『黒ダイヤ』という短編小説で注目を引いた、いわば投稿者と新聞社という関係だったという。
太田氏が戦後米軍政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕氏に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっている。
米軍政府が沖縄の統治権を米民政府に移管するのは太田氏が沖縄タイムスに職を変えた後の昭和24年の12月15日以降になっている。
『鉄の暴風』の執筆時に米軍側と沖縄タイムスそして太田氏の間に「共通の思惑」があったと考えても不思議ではないだろう。
曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。
≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫
驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。
このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。
この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろうか。
曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。
◇
以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、
「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。
これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目
<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。
直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >
「「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
(曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)
<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 >
太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去
★
素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。
昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。
住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。
太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。
その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。
太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。
「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。
余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。
その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。
このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。
ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。
『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。
≪なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい≫
米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。
実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。
彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。
ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。
その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。
沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。
≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)
『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。
著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。
昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。
だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。
沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、
攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。
これは歴史の皮肉である。
【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】
日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。
以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。
実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。
「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして歯に衣を着せないで実情を訴えた。記者が『終戦以来太平洋の悲劇は沖縄人だけで背負った形で前途頗(すこぶ)る悲観していた、今日ではゼネラルシーツの赴任によって希望をとり戻し明るく復興にまい進している、この際元帥のメッセージを』と云えば『君は僕と話しているから、それを書けば一片の紙切れにすぎないメッセージなど、どうでもよいではないか』と軽く打込んで一本参らすなど、すっかり父親の意地悪にベソをかかされた形で、いよいよ思い切り甘えてみたくなった」
昭和24年、沖縄タイムスの太田良博記者は『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(当時の座間味村助役)に取材している。
太田記者の執筆手法には証言や史料の収集を基本とする新聞記者の姿勢はない。
渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことは勿論、取材といえば専ら「米軍」が集めた人々の話が主で、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。
新聞記者の太田良博氏が、ドキュメンタリー作品の基本ともいえる当事者への取材もないずさんな記述で『鉄の暴風』を書き上げたのに対して、それを批判する立場で『ある神話の背景』を書いた作家・曽野綾子氏のルポルタージュ的記述手法は極めて対照的であった。
曽野氏は伝聞に頼る太田氏のずさんさんな取材手法を同書の中で次のように指摘している。
<太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった>
この部分に関して太田氏は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両氏が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論し、「(両氏は)証言者ではなく情報提供者」とも述べている。
太田氏が宮平、山城の両氏とどのように接触したかはともかく、そのとき山城氏は渡嘉敷島の伝聞情報である「赤松大尉の暴状」について語り、「そのことを戦記に載せてくれ」と頼んでおきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。それが大きな問題なのである。
戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。
事件を追う事件記者が、飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。
これは記者としてはいかにも不自然である。
太田氏の言うように、その時、何のメモも取らなかったということも、にわかには信じがたいことである。
■大田良博と沖縄タイムスの関係
このように新聞記者としては不適格にも思える太田氏が何ゆえ沖縄タイムスが社を上げて企画をした『鉄の暴風』の執筆を委ねられたのか。
その謎を解く鍵は太田氏の沖縄タイムス入社直前の職にあった。
太田良博記者の略歴を見ると、『鉄の暴風』の監修者の豊平良顕氏や共著者の牧港篤三氏のような戦前からの新聞記者ではない。
そもそも太田記者と沖縄タイムスとの関係は、沖縄タイムスの月刊誌にエッセイ、詩などを寄稿していたが、昭和24年に発表した『黒ダイヤ』という短編小説で注目を引いた、いわば投稿者と新聞社という関係だった。
太田氏が戦後米民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕氏に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっている。
米軍政府が沖縄の統治権を米民政府に移管するのは太田氏が沖縄タイムスに職を変えた後の昭和24年の12月15日以降になっている。
『鉄の暴風』の執筆時に米軍側と沖縄タイムスそして太田氏の間に「共通の思惑」があったと考えても不思議ではない。
曽野氏は『集団自決の真相』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。
≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫
驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。
このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。
この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろうか。
曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。
◇
以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、
「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。
これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目
<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。
直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >
「「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
(曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)
<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 >
太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去
素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。
昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。
住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。
太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。
その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。
太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。
「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。
余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。
その後同ホテルは廃業したが、「浮島通り」と道路にその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。
このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。
ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。
『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。
≪なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい≫
米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。
実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。
彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。
ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。
その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。
沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。
≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)
『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。
著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。
昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。
だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。
沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、
攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。
これは歴史の皮肉である。
モフモフ
| 非表示・報告全ロシア将校協会の見解は的を得ているし、そもそもクリミア併合なんてせず、親露派勢力に加担しなければ、少なくとも経済的に窮地に追い込まれることはなかったと思う。
どんな理由を付けようがクリミア併合は侵略であり、決して許されることではない。
直ちにウクライナに返還し、また北方領土も日本に返還するべき。
覇権を目論むより、国際社会と融和的に付き合う方がどれだけ国益になるか冷静に考えるべき。
bes*****
| 非表示・報告将校協会の書簡内容は正論である。ロシアはロシア憲法の前文において民主主義であることを明文化している。将校協会が正論を唱え異議申し立てをすることを公に認められているならば、ロシアは民主化に変化していることが伺える。読売新聞の調査(調査機関は非政府系)ではロシア国民のプーチン大統領支持率は2022年2月現在約70%であり、ロシアの進む方向は約50%の国民が正しいと思っているとの調査結果もある。今回のウクライナへの軍事力行動によって支持率は更に高まっていると言われている。将校の書簡がどのように影響を及ぼすのか、どのような意味があるのか不明だが、ロシア国内の情勢まで影響を及ぼす可能性は低く、ロシア軍への影響は皆無に等しいと思われる。プーチン大統領の側近や長官クラスの反旗が無ければ続行姿勢は貫くだろう。
kon*****
| 非表示・報告この情報は中々貴重だね、もっともロシア人の思考過程は我々が知っている欧米人とはやや異なりロシアの今までのたどってきた歴史による影響が大きいのではないか。単純に喧伝されているNATOへの加入問題ではなく相当以前からの歴史的な軋轢やその変遷などが尾を引いていると思うけど。話によるとキエフはロシア人の心のふるさとのようで日本だと京都みたいとか。
それに複雑なことにプーチンがKGB出身でロシア人の情緒的な面より論理的な面を好むからややこしくなるってるね。しかも現在のロシアのお金持ち、特権階級など利権集団が絡んでいて特に天然ガスを手札にEUと交渉してるから、単に軍事的な国の安全保障の問題に経済、お金が凄く絡むからこの問題は簡単に解決できるとは思えないね。
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