ふっ と想うこと

山・雪・風・人、徒然なるままに--

古墳群の多い妙高、そして少なくなるリンゴ畑

2020-03-30 13:19:39 | アウトドア
天気悪そうですが妙高へ。

相変わらず、梓川SAは車少ないですが、外出自粛の東京ナンバー、皆無。でも、東京での活動自粛、とは言っても毎日、東京以外から300万人も東京へ”侵入”しているのですから東京以外の関東圏そのものを封鎖しないと。

やっぱり、ガスと雨のスキー場。
怪我をしたくないので今回は諦めて前日に開花宣言をした上越高田城へ。
(あとで知り合いのパトロールの人に聞いたら雪は意外と滑りやすかったとのこと)



日本3大夜桜として名高い高田城、今年は東京と同じく各種規制。まぁ確かにここ最近はあまりにも人と夜店が多すぎて桜を見るどころではなかったので、一度立ち止まってみるのも良いかもしれませんね。我が家も10年近く来ましたが最近は少し、どうかと思うようになってやめていました。

開花宣言したばかりなので、あまり咲いていませんが、それはそれで、咲いている桜を咲がすのも楽しみ。

桜の花が落ちているのかと思ったら、なんと、足元で咲いています。

天守閣近くはまだ1分咲。
足元にはカタクリ

ぶらぶらと。



観光客も少ないので鳥たちもお濠でノンビリと。







早く咲きすぎた桜にせかされる椿



とは言っても、これだけ桜の木があるので満開に近い桜も

ライトアップで綺麗な垂れ桜も、チラホラと。

この垂れ桜の目の前に桜の調査木。

この桜を見て開花宣言されるのですね。ぼちぼちと咲いていました。
高田城の中、周りには学校が沢山。

地方都市ではお城の中に学校があることが多いですね。なにを隠そう、通っていた大学も仙台のお城の中にありました。

お昼は知人に教えてもらったラーメン屋さんへ



チャーシューが美味。
ここから、カタクリの花を

観音平古墳群
入り口には扉

でも、両側はスカスカで、なんのための扉なのかしら?
中には地元の小学生の可愛らしい看板

天気悪く、開いているカタクリは少なかったですが一面のカタクリ










カタクリ以外も。





我が家以外、誰もいません。
多くの観光客が訪れる隣の鮫が尾城は避けて、その隣の古墳群へ





こちらもカタクリが一面に。
ただ、後で聞いたところ、ここははっきりとした道がないのでカタクリが踏みつけられて随分減ってしまったそうです。
それにしても、妙高市には古墳群が多いですね。ここまでも大和朝廷の勢力が及んでいたそうです(説明の看板によると)。
夜は赤倉で。





外へ出ると、予報通り雪





翌朝は冬に戻ったような光景



ここから18号、19号と一般道で名古屋へ。



長野県へ入ると、リンゴ畑から葡萄畑へ切り替えられたところがよく目につくようになってきています

長野県は10年くらい前から、全県を挙げてリンゴ畑から葡萄畑への転換事業を進めています。これはワインブームもありますが、むしろ高所作業の必要なリンゴ畑は農家の方達の高齢化を睨んで高所作業の少ない葡萄畑への転換を目的にしていたそうです。そのため土壌改革も含めた大規模な事業、ようやくあちらこちらで目につくようになりました。特に松本は凄いです。時代の流れをですね。
今回の雪は湿り気の多い重い雪、そのために国道のあちらこちらで倒木。

これも手入れがなされておらず、国土が荒れている日本の今の状況が感じられます。

土曜日には雪の無かった梓川SAも雪で覆われています。

ここから木曽路へ

木祖村の福寿草







福寿草ももう、おしまい。
今年の春、物凄い勢いで駆け抜けています。

上松では”日本で二番目に古い”お蕎麦屋さんで。





木曽地方の冬の食べ物、すんきそば。
発酵させた漬物をのせたもので、酸味が特徴。癖になります。
でも、今年は異常に早い春の訪れなので、もう、食べられなくなるかな?
早いとは思いながら定勝寺へ。

ここの垂れ桜は見事。とはいえ、まだ早くてぼちぼちと。
冬らしくない冬を物凄い勢いで春が追い越していきそうな今年。
もう少し、四季が愉しめればなと。でも今年はそれどころかではないかな、中国肺炎のために。

































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環境省パークボランティア。突然の廃止

2020-03-23 11:06:56 | アウトドア



妙高に通い始めて30年近く。

最初は火打山の魅力に。

そのうち、妙高地区の人達の魅力に惹かれてもう長年。

そんな中で、なにか、恩返しのようなことはできないかなと、始めたのが”環境省パークボランティア”。

そこでは地元の妙高地区を愛する人達が色々と活動されていることに触れて、そして人生の先輩の方々の自然保護への強い思いを。

その気持ちでこの活動10年近く。

ところが、急遽、妙高地区”だけ”パークボランティア制度が廃止、との紙切れ1枚。

まぁ、元々、”よそ者”の我が身、色々と話し合いが現地であったのだから仕方ないな、と。

ところが、パークボランティアの組織の幹部も誰も聞いておらず、よそ者の我々と同じ、とのこと。

環境省のホームページによると、”パークボランティア制度”については以下の通り、記されています。 

”国立公園において、自然観察会等の解説活動や美化清掃、利用施設の簡単な維持修理などの各種活動について、広く国民の参加を求め、一層の活動の充実を図るとともに、自然保護の普及啓発を図ることを目的として、これらの活動に自発的に協力して頂ける方々をパークボランティアとして登録しています。

 現在、全国の25国立公園の40地区において、各地区の特性に応じた活動実施計画に沿ってさまざまな活動を行っていただいています。”

他の地区では非常に盛んにおこなわれています。我々の住んでいる地域、近くの地域でも活動盛んに。

まぁ、保護官自体、数年単位での異動、その保護官の思い入れ次第で変わってしまいます。色々な保護官の方と接してきました。皆さんの強い思いを感じていました。

ところが、現保護官は、妙高地区、特に笹ヶ峰には魅力ないので、とのことをパークボランティアの幹部に。確かに、現保護官になってからは活動は減り、計画されたものも色んな理由で中止になったりして、低調でした。

でも、笹ヶ峰の自然の魅力に惹かれて30年近く通っていた我々としては、なにか、自然保護の担当役所としてこれで良いのか?腑に落ちない気がします。

長年、妙高地区、笹ヶ峰地区に通って来ましたが、これで疎遠になるかな。

寂しいですが。

でも、笹ヶ峰は本当に美しい自然、そして歴史ある場所なのに。

残念です。













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小雪、渇雪。笹ヶ峰マジックは?

2020-03-22 20:24:25 | スキー
雪が記録的に少ない今年、スキー場が早くクローズする前に妙高笹ヶ峰へ。

梓川SAも、”中国ウイルス”のせいか、雪が少ないせいか、連休とは思えないくらいガラ~ンと。

北アルプスも雪少ないです。

今日は天気もつかな?
杉野沢のスキー場から入山

中国ウイルスのため、ゴンドラも人数制限、間隔をあけて乗車

今年は雪が少ないので少しゲレンデを登って池の峰方面へ





春の今しか訪れることができない原生林の中を

実は巨木が沢山あります。

目の前をウサギ🐰が。



ウサギの足跡、沢山。

人工林と原生林の境

笹ヶ峰入り口の守り神のようなミズナラの巨木
”今年もきたな!”


そして相変わらずウサギ

笹ヶ峰牧場入り口の看板

やっぱり雪が少ない。

新潟焼山

牧場入り口の石碑

ものすごく雪がありません。
雪が少ない、と言われた2年前の3月最後の光景は

この年のゴールデンウィークの高谷池ヒュッテへのスキー登山の光景は



今年は石碑を見る限り2年前より少なく、こんな状況だとゴールデンウィークはスキーは無理かな?

牧場を見ると柵が飛び出ています。

いつもは、下界が天気悪くてもここ、笹ヶ峰は天気が良い”笹ヶ峰マジック”。でもこの日は笹ヶ峰に来ると風強く、帽子が飛ばされそうでした。

早々に写真を撮って退散



スキー場に戻ってお昼

脱アルコールワイン



シチューとパン、そしてノンアルコールワイン🍷でちょっとしたリゾート気分

夜は知人達と妙高市新井の美味しいお店

翌日は朝、妙高から実家の東京へ。

子供の時からある近所の桜の巨木。今年も満開







そして通っていた小学校前の神明社、子供の時には天祖神社と呼んでいました。
桜のもとに沢山の人達

東京では気温が26℃
今日も東名、新東名には観光バスなし



中国ウイルスのせい。
落ち着いた昔ながらの日本の光景。
もう、ザワザワした光景は見たくない、そんな気持ちに。


























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湯あたり?ツアー

2020-03-16 10:04:12 | スキー
今シーズン最後の野沢温泉へ。



梓川SAは、雪が少ないことと武漢肺炎のおかげで例年に較べて大幅に人が少ないです。
豊田飯山インターを降りてからの光景には驚き

千曲川の河川敷には雪無し。例年は除雪の雪の排雪場所で雪の大きな山があります。そして今頃は茶色に汚れた雪山がありますが、今年は春のような光景

温泉街も雪無し
日本三大夜祭りの”道祖神祭り”の会場も雪ほとんど無し


スキー場を見上げると、ガスが下の温泉街近くまで降りてきて視界悪く、さらに雨交じりの雪。こんなときにはスキーをしても愉しくないし、怪我をするのも嫌なので、野沢温泉ならではの楽しみを。
外湯巡り。
野沢温泉には13の外湯があります。
まずは熊の手洗い

いつも混んでいる上寺湯





野沢温泉では比較的下にある(と思う)真湯へ



そして野沢温泉の最奥地の、最高地の滝之湯へ



下ってきて大湯

野沢温泉と言えばここ、大湯が有名。
昔から沢山の人達で溢れていました。
そして昔はこの大湯、足を入れることができないくらいの熱湯。足を入れると足がジンジンしてきました。水で薄めると地元のおじいちゃんに滅茶苦茶怒られました!
今は、昔、馬鹿が某所で朝一番に飛び込んで火傷になり野沢温泉を相手に裁判をおこしたため、どの外湯も強制的に水で薄めています。そのおかげで随分と湯温はさがりました(とは言っても人の入っていない外湯は熱いです)。大湯の中でも”熱い”と書かれた湯舟は相変わらずジンジンと。勿論、入れませんでしたが。
あとは近くの河原湯

人がおらず、熱かった!

ここでお昼の時間
野沢温泉に30年以上かよってきていますが、昔、よく来ていた中華料理店へ

昔ながらの、日本のどこの町にもあった日本的な中華料理のお店



ここはなんといってもシソ餃子が美味

最近は外国人が多くてお店に入れませんでしたが、今年は外国人も少なく、久しぶりに入ることができました。懐かしいおばちゃんも。色々とお話を
宿に戻って休んでから午後の部

松葉の湯
民宿街にあるので混んでいます。昼過ぎなので悪天候でスキーを諦めたと思われる人達が結構いました。

ここには誰でも利用できる温泉卵を作る小さな温泉場があります。
ここから登って長坂ゲレンデ近くの秋葉の湯

あとはメイン道路まで降りてきて中尾の湯

一番広いせいか多くの人達
宿に戻りがてら新田の湯

十王堂の湯

野沢温泉街のほぼ端から端まで歩き回って廃業、休業したと思われる民宿、宿が沢山ありました。時代の流れかな。
ちょうど良い時間に

夕飯前に麻釜へ





🍻を美味しくいただけました!
ところで今回、オゾン発生機能付きの空気清浄機を

インバウンドで欧米人観光客が急増していますが、彼らの宿泊した後の部屋の臭い、香水・体臭のせいかいつも強烈。大きなホテルではオゾン発生装置でこの臭いを除去しているところもあるそうですが如何せん、高額な装置。
この小型の持ち運びできるものは安く、通販で発見。但し、範囲は狭いですが、宿泊するためには全く問題なし。使うとオゾンの匂いが。
オゾンにはあとは脱臭の他にウイルス対策にも役に立ちます。今回の武漢肺炎に対応できるかは不明ですが”気持ちの問題”で。
オゾンのデメリットは抗酸化作用があるので老化防止には良くないかも。まぁ、還暦を過ぎて今さら老化防止は良いかな、と。
外湯巡りは結構、体力使い、食後にバタンキュー。良く眠ることができました。
翌朝、朝ご飯前に横地の湯で朝風呂。

これで13外湯、制覇

野沢温泉の13の外湯、源泉は同じところ(含む周辺)もあります。
秋葉の湯、上寺湯、中尾の湯、新田の湯、真湯、横地の湯は麻釜、十王堂は麻釜と湯ノ宮。
同じ源泉が多いですがそれぞれ雰囲気あります。
いつもの個人的には一番好きなみゆき商店さんの”道祖神饅頭”を買いに。

このお店には無添加の野沢菜

無添加なので賞味期限は短いですが安くて美味しいです。夜のお酒🍶のあてに。
あとはひたすら国道117号→19号で名古屋へ。途中、松本市街を、避けて。





松本電鉄も昔ながらの塗装。懐かしいです。
木祖村では福寿草を。









ちょうど、木曽地方は雪。
そのため福寿草も花を閉じてしまいました。せっかく咲いたのに寒そう。
上松では”日本で二番目に古い”(とお店に書いてあります)越前屋さんでお蕎麦

二番目に古いとのことで利用した人達の名前。十返舎一九、皇女和宮とか、色々

陽が出てきたのでお店の前の福寿草も春の訪れを楽しんでいるようです。

とても雰囲気あります。3時前でしたので空いていました。土の床です。歴史を感じさせます。
木曽地方の冬の食べ物の一つに”すんき蕎麦”

発酵させた漬物を使っています

独特の酸味が蕎麦とコラボしてとても美味しいです。

あとは蕎麦寿司。
お土産でも。夜のお酒🍶のお供。
冬に逆戻りしてしまったような寒さ。
でも名古屋までノンビリと。
雪が少なくても、楽しみ方は色々。
今年は特に外国人も減って昔ながらのワサワサしていない日本の良さが味わえます。































































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3月に観た映画

2020-03-13 09:26:42 | 映画
中国ウイルスのせいで、映画の新作はどんどん公開延期に。なんとか観ることができた映画。

震災のあった11日の前日にこの映画。
ほぼノンフィクション。
当日は金曜日で、年度末で年休消化のためにスキーで新潟県へ。丁度、知り合い達と遅めのお昼(+🍺)をとっていた時に大きく揺れました。実はこの夜の長野県北部地震のほうが大きく感じて一晩中スマホの警報が鳴り響いていました。
そして翌日、なんと、知り合いのアメリカ人に当時の国務長官名で(ヒラリークリントン)、”原発が危ないので米国人に退避するように”と勧告が来ました。皆で、どこなんだ!と。日本人そのものが知らないのにアメリカは既に知っていた、そのことがある意味驚きでした。その時に現場ではこんなことが起きていたのか、と思って映画を。
福島第一原子力発電所の最後に残った現場の作業員達を欧米のメディアは”FUKUSHIMA 50”と呼称したのに因むもの。
この映画、反原発を声高に訴えて訳ではなく、また、現場の作業員を英雄視しているわけではなく、淡々と。
明確に反原発ではない、当時の非自民党政権を批判している、自衛隊・米軍が出ているとのことで、日本の多くの新聞は無視、さらに映画の感想の書き込みも批判的なものが大量に書き込まれるという、とんでもない事態となっています(批判の中には映画観ているの?というものも)。極めつけは、今や日本でこれ程一方的に書くか、と思うくらい偏った新聞は、”現場は仕事放棄して逃げた”と誤報(またお得意の捏造かもしれませんが)を記事にして、後に事実誤認と小さく訂正しました(産まれてから60年、我が家で購読していますが、そろそろやめようかなと)。
当時の問題だらけの首相、現場ではなく本社(本店)で座っていて上から目線の無能な幹部の東京電力は、既に既知の事実。
しかし、そんな”バイアス”のかかった偏った見方をせず、事実としての災害対応として観ると、果たしてもし、自分があの場にいて同じことができたのか?と。
なにが彼らを突き動かしているのか?。現場から離れて上から目線で指示を飛ばす”ボス”と現場で先頭に立って導いていく”リーダー”との違い、如実に描かれています。
今、新型コロナウイルス(武漢ウイルス)で中国”政府”は叩かれていますが、当初は中国の現場の医師達は、我が身を顧みずウイルスに立ち向かったことが脳裏をよぎります。
そして原発の現場の彼らがいなければ(勿論幸運もありますが)、今の東日本、ひょっとしたら日本全体がどうなったのか、考えさせられます。これは思想的にではなく、事実として。
この手の話しではいつも感じる最大の矛盾点は、反原発の立場の人達がまさに、原発による発電の恩恵を受ける、都会の人達が大きな声を出していること。東京のために、福島、新潟、大阪のために福井が危険にさらされています。都会の24時間のライフスタイルを変えず、反原発を訴えることには疑問を感じます。勿論、廃炉作業のみならずまだ、避難している人達も多いいま、この映画を作る必要があるのか、との声もあります。でも、事実としての事故、その時の事を記録する意味では良いのではと思います。
この映画、反原発を訴えていない、と非難されています。でも、”自分たちはどこで間違ったのか”と自問する姿、そしてエンドロールは太陽光発電、風力発電のシーンです。色々と考えさせられる映画。

映画自身は3年前のイギリス映画。ようやく日本での公開。
長年、夫の横暴と介護で自分の人生の大半を”自分以外の””愛していない人”のために費やした女性。80歳を超えて老人ホームに入るしかない、これで後は死ぬだけ、と。しかし、ある馴染みのお店で追加注文をした時に”追加注文、遅いかしら?”と言うと店主が”何事も遅いことはないよ”と。
ここで彼女は子供の時に父と登るはずの山へ。
現地の若い登山ガイドとプライドの高い彼女との反発、そして彼の悩み、彼女のこれまで生きてきた思いを交わすうちに心を通わします。
これら、互いの思いが、スコットランドのハイランドの美しい自然の中にとけこみ、素敵に描かれています。やり手の彼女に振り回されて、自分としてどうしたら良いのか、と悩んでいる若きガイドに後悔しないように生きるように、との一言、重い一言。やり直しのきかない、1回限りの人生。でも、本当は後悔したのかは、後になってわかること。逆に言うと今を大切に生きること。そして、その”今”とは死ぬまでかもしれません。
副題の”Never too late”
この素敵な言葉、ハイランドの心地良い風に漂ってくるようです。

ジュディーガーランド、といえばなんといっても”オズの魔法使い”のドロシー。そして、ビンセントミネリとの間にライザミネリを産んだ母親。
でも、これが彼女の人生が大きく変わってしまいます。今の時代とは異なり、映画会社は、小さな女の子を”人”としてではなく”商品”として扱う、まさにアメリカの資本主義の象徴。若い頃から、睡眠薬と興奮剤とを与えられ、そしてマインドコントロール。
彼女は精神も肉体もズタズタ、当然、結婚もうまくいかず何度も結婚、離婚。そして最後に残された子供からも引き離されて絶望。
その中での最後の”Ovever the rainbow”
誰にでも希望がある、と歌うその姿は思わず目頭が暑くなります。
主演のレニーゼルウィガーが素晴らしく、ミューズの虜となったジュデーィガーランドを見事に演じています。
まだ、3月ですが今年観た映画で一番の映画。

ちょうど今から40年前に大学に入学した頃は、学生運動自体が下火。とはいえ、入学した仙台の大学ではまだ、学生運動もそこそこ、入学式はありませんでした。というのは、何度も入学式で学長が襲われて中止、特に入学した前の年は試しに入学式を復活させましたが、学長の頭からソースをかけられました。また、仙台の街中では歩道が投石に使われるとのことで、意匠的なブロックではなく、ずっとアスファルト。教育学部はまともに入れずロッカーが入り口に積み上がっていました。法学部棟でも、たまに、血の跡が廊下に点々と。
”総括”、”ナンセンス”、”糾弾”、などという言葉が飛び交っていました。そんな時代の最後の学生運動、かなり政治的で左派政党の流れを汲んだいくつかのグループ(セクト)に別れていました。たまに、知人と彼らと夜、呑みにいったりしたとき、とにかく革命、ということに固執、その結果どうしたいのかよくわかりませんでした。それを指摘すると”日和見法学部生”と言われましたが。また、友人と知人の北海道中標津の牧場へ遊びに行ったとき、某大学の学生運動の幹部でバイトに来ていた農学部生と毎日、徹夜しながら議論?していたのも、今から見ると懐かしい。
この映画はそんな複雑化、行き詰まる前の学生運動の初期(とは言え東大安田講堂は陥落しましたが)のまだ、純粋な、そして言葉がまだ、大事にされていたときを。三島由紀夫さんは、実は大学のゼミの教授の同級生、そして小説”金閣寺”の最後に放火をする僧侶のモデルとなったのがその教授。小児麻痺で体は不自由でした。よく、ゼミで三島由紀夫さんのこと、話されていました。
この映画、三島由紀夫さんと東京大学全共闘、右翼と左翼の対立のように見えますが、実は、根っこのところは同じ、所謂”反米で日本人の自立・独立”、つまりナショナリズムを主張するものであることであること。
この時期、とても言葉は過激ですが純粋な活動。ある意味、思春期の純粋性が力(=暴力)により実現させようとしたもの。
この映画を観て、三島由紀夫さん、東京大学全共闘のメンバーは今の時代をどう見るのか?、そして彼らならばどうしたのか。
言葉=言霊のある意味”美しさ””純粋性”。
万人向きではありませんが見応えのある映画。
全く学生運動を知らない嫁さんは、不服そうで、”いったい、どうしたいのかな”。
この一言がものがたっています、後の世から顧みると。

本当に、なんとかならないのか。発生源でもあり初期対応を誤った中国は盗っ人猛々しい、状況。振り返って我が国、これ程官僚機構が劣化したと思えるくらい混乱、何よりもまともな政治家はいないのか、媚中の連中ばかり。最近は、民主党時代よりも酷い!との声もあちらこちらで。まぁ、今の時代、民主党であればもっと酷かったかもしれません。
歴史に、”もし”は禁句ですが。





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