快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -   有感地震の空白期間が認められるエリアと大雨対策

2019-07-02 12:54:54 | 地震 津波
 ここ数日は九州エリアで有感地震が発生していません。
 先月27日以降に発生した国内の有感は次の通りです。

                            Mj  最大震度
2019年7月2日 10時00分ごろ 宮城県沖     4.0 2
2019年7月2日 4時03分ごろ 沖縄本島近海     3.6 1
2019年7月2日 0時20分ごろ 新潟県中越地方     3.2 2
2019年7月1日 23時53分ごろ 内浦湾         2.0 1
2019年7月1日 16時21分ごろ 和歌山県北部     2.7 1
2019年7月1日 11時23分ごろ 千葉県東方沖     3.6 1
2019年7月1日 10時10分ごろ 安芸灘         3.1 2
2019年7月1日 10時04分ごろ 宮城県沖     4.1 1
2019年7月1日 9時37分ごろ 青森県東方沖     5.1 2
2019年6月30日 15時54分ごろ 上川地方南部     4.2 2
2019年6月30日 12時18分ごろ 宮城県北部     3.4 1
2019年6月30日 10時13分ごろ 茨城県沖     4.5 2
2019年6月29日 20時19分ごろ 新潟県下越沖     2.6 1
2019年6月29日 15時57分ごろ 根室半島南東沖     4.0 1
2019年6月29日 3時46分ごろ 土佐湾         3.4 1
2019年6月29日 3時19分ごろ 福島県中通り     2.6 2
2019年6月29日 0時30分ごろ 紀伊水道     2.5 1
2019年6月28日 20時13分ごろ 山形県沖     3.5 1
2019年6月28日 18時20分ごろ 苫小牧沖     3.5 1
2019年6月28日 7時57分ごろ 北海道南西沖     3.0 1
2019年6月28日 4時29分ごろ 岩手県沖     4.0 1
2019年6月27日 22時08分ごろ 埼玉県北部     3.6 2
2019年6月27日 13時21分ごろ 熊本県天草・芦北地方 2.9 2
2019年6月27日 11時25分ごろ 熊本県天草・芦北地方 3.0 2
2019年6月27日 10時40分ごろ 熊本県天草・芦北地方 3.0 2
2019年6月27日 10時34分ごろ 熊本県天草・芦北地方 3.1 2
2019年6月27日 10時32分ごろ 熊本県天草・芦北地方 3.4 3
2019年6月27日 10時26分ごろ 熊本県天草・芦北地方 2.4 1
2019年6月27日 10時03分ごろ 沖縄本島近海     3.2 1
2019年6月27日 7時16分ごろ 茨城県北部     3.4 1
2019年6月27日 5時53分ごろ 長野県南部     2.3 1

 九州(沖縄を除く)だけでなく中国、四国地方でも西端エリアでは先月28日以降、同様に発生していません。
 空白期間としてはややと言う程度ですが長いかと思えます。
 このところの九州地方やその周辺での豪雨で地磁気の影響は宇宙からの影響が地震トリガーになりにくくなっているのかどうかは定かでは有りませんが、相対的にはどちらかと言えば晴間の見えるエリアの北海道や東北での地震の方が割合として通常より多いような気がします。
 これが何を意味するのかと言うと、豪雨による地盤や堤防などが緩んだ所へ、雨天曇天が一時途切れて雲が薄くなったり晴間が見えたりした時に「雨天曇天一過の地震晴れ」に近い状態となり、緩んだ地盤や堤防などがそれ程大きくない地震でも通常よりは崩れやすくなる事が多い、と言う事です。
 明日7月3日は大きな方の、そして大きくなりつつある新月です。
 前後期間も含めて、特に地震空白期間が確認できるエリアは通常よりはと言う程度ですが気になります。
 仮に雨天曇天のままでも地殻のストレスが弾ける寸前なら地震となりますし、いずれにしても「地震はいつどこでどの程度のものが発生するかわからない」ので危険が想定されるエリアでは少なくとも通常よりは早めに対策しておくのがベストかと思います。

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 本格的な戦闘開始の状況における不可解な矛盾点

2019-07-02 08:51:58 | 明智光秀
 山崎の戦いでは開始前から多少の小競り合いは有ったものの、本格的な戦闘開始は天王山の山麓に先に陣取っていた中川清秀の部隊に明智方の伊勢貞興らの部隊が攻撃を仕掛けた事だったと言うのが通説のようです。
 個人的に考えた事に過ぎませんが、これについては不可解な矛盾点が有るように思えます。
 前回の記事にある通り、明智勢が無用心に(無防備なままで)山崎町の東門(東黒門)の外側に集結し東門の戸を叩いた、と言うその直前に秀吉方である中川清秀の部隊に明智方の伊勢貞興ら、或いは松田政近・並河易家ら丹波衆の部隊が攻撃を加えて戦闘開始になったのだとしたなら、中川清秀の近縁で同じ摂津衆である高山右近も秀吉側についたと言う事であり、その高山右近が占拠している山崎町の東門を大勢が集まり無防備な態勢で戸を叩く事などしないのではないか? 叩くとしたらまず数名の兵だけを東門に行かせて戸を叩かせ、様子を見てから順次東門に近寄る、と言うの通常の手段だと思うのです。
 これが何を意味するのかと言うと、中川清秀が前夜に陣取った天王山の山麓から高山右近のいるあたりに隣接する場所に移動していた時に、明智勢は(中川清秀らが秀吉方へ加勢したとは知らずに)合流しようとして、中川清秀の部隊から突然攻撃をされた、と言う事なのかと思えてしまいます。
 東門の外側にいた明智勢はこの衝突を中川清秀らの明智勢と秀吉方の黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らの部隊との衝突と勘違いした、何故なら戦闘が開始されたこの天王山山麓は森林が多く、平地である東門あたりにいた明智勢からはすぐには状況が良く見えなかったから、と言う事も少なからず有りえるわけです。
 所詮古文書に記されている事自体がそもそも戦闘の真実を書いているのかどうかさえわからないのでこのあたりの事は確定まで出来ませんが、ただ仮に明智光秀が高山右近と中川清秀が秀吉方へ加勢したのがわかっていたのなら山崎町の東門外側に多数の指揮官や兵を集結させるような事や無用心な態勢で戸を叩いて開けさせるような事もさせなかっただけでなく、明智方の軍勢をあのような分散配置をしなかったと思ってしまうし、更に松田政近・並河易家と言う丹波衆らのように山崎町や天王山の地理を殆んど知らない指揮官の部隊を天王山山麓、山中に配置しなかったと考えてしまいます。
 明智光秀はこのあたりの地理に詳しくない斉藤利三、松田政近、並河易家、伊勢貞興らの部隊を、山崎町周辺や天王山の地理により詳しい高山右近や中川清秀に合流させようとして突如攻撃されたのではないでしょうか。