本能寺の変の後~山崎の戦いの期間については矛盾点として認められる事が他にも有ります。
山崎の戦いの時、高山右近が秀吉方に加勢し先鋒となって戦ったのですが、同じキリシタン武将の京極高次はすんなり明智方に加勢し、そしてしかも秀吉の居城である長浜城を攻撃しています。
結局この城攻めは明智勢の敗北で落城までには至らなかったようですが、それにしても矛盾の有る話だと思えます。
理由は次の通りです。
先月30日の記事、サブタイトル「明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える イエズス会の宣教師オルガンティノに主導権が有ったと見られる記録の数々」の中で、書いた部分でこのような所がありました。
オルガンティノは高山右近には次の様に言っている事がルイス・フロイスの日本史に書かれています。
「たとえ、我ら全員が礫刑に処せられるに接しても、絶対に、この暴君に仕えないように、そうすることは我らの主なるゼウスに奉仕することになるからである」。
そうです、オルガンティノ神父はキリシタン武将の高山右近には「絶対に、この暴君に仕えないように」と言っているのに、京極高次には特に何も言わずに明智方へ加勢するのを容認し、しかも秀吉の居城である長浜城を攻撃しているのに止めようともしていません。
たまたま連絡が取り合えなかったのか?と言う可能性もゼロでは有りませんが、個人的にはそうは思えません。
当時の状況に於いてそのつもりならオルガンティノ神父は如何なる手段を使ってでも京極高次に「絶対に、この暴君に仕えないように」伝えていたはずだと思っています。
京極高次の方もイエズス会の考え方を確認せずにどちかに簡単に加勢するような事はしなかったはずだと考えるのが普通ではないでしょうか。
そこから浮かび上がって来る事とは次の通りです。
イエズス会は元々明智光秀を討つつもりだった為、光秀がイエズス会を味方につける事ができたと勘違いするようにキリシタン武将である京極高次にすんなり明智方は加勢させた。無論その後突如として高山右近と中川清秀を使ってハシゴを外す為である。
オルガンティノ神父は高山右近に「絶対に、この暴君に仕えないように」と言ってはいますが、「明智光秀に仕えるかのように解釈できるような適当な返答を絶対にしてはいけない」とは言っていません。
なのでルイス・フロイスがローマに送った「1582年度日本年報」に書かれている「家臣たちは都合の良いように偽った返答をした」と言う旨の部分がこれに該当するわけです。
高山右近は家臣が光秀にしたこの「偽った返答」を特に訂正するような内容を特に明智光秀に伝えてはいなかったと考えられます。
伝えてしまうとどうなるか、それは当然の如く明智勢は高山右近と中川清秀から人質を取り、高槻城と茨木城を占拠するはずで、最初から秀吉方に加勢するつもりか、或いはどの武将に付くのか決めかねている場合なら当然そうした返事をしたはずです。
高山右近とその近縁の中川清秀が秀吉方に加勢するだろうと光秀がほぼ確信したのは、この2人が西宮か尼崎あたりまで到着していた秀吉に会いに6月10日か11日頃に人質として差し出す家族を連れて城を出発した時かと思われます。
明智方もその程度の事がわかる間者は送り込んでいたはずなのでそれは6月10日頃に光秀の知るところとなったと言う事です。
そして大体この日あたりに山崎城と男山城から兵を引き上げている事からもこれは理解できます。
イエズス会は明智光秀が高山右近と中川清秀に疑いを持たぬよう、京極高次はすんなり明智方に加勢させる、と言う方法を採った、と言う事なのかも知れません。
そしてもう一つ、京極高次は当初秀吉から逃げ回っていたとも言われているのですが、その後に秀吉から許され石高も増やされて復活しています。
これは京極高次の正妻が浅井長政の娘である初(淀の妹)である事や、美貌の妹、竜子を秀吉の側室に差し出した事も有るのですが、イエズス会は京極高次の生存保障について秀吉に圧力をかけられる自信が有ったからこそ出来た選択だったのではないでしょうか。
そして親キリシタン武将である宇喜多氏と既に近縁となっていた秀吉は当時に時点でイエズス会と連携していたと考えるのがこの頃に起きたいくつかの出来事からわかります。
山崎の戦いの時、高山右近が秀吉方に加勢し先鋒となって戦ったのですが、同じキリシタン武将の京極高次はすんなり明智方に加勢し、そしてしかも秀吉の居城である長浜城を攻撃しています。
結局この城攻めは明智勢の敗北で落城までには至らなかったようですが、それにしても矛盾の有る話だと思えます。
理由は次の通りです。
先月30日の記事、サブタイトル「明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える イエズス会の宣教師オルガンティノに主導権が有ったと見られる記録の数々」の中で、書いた部分でこのような所がありました。
オルガンティノは高山右近には次の様に言っている事がルイス・フロイスの日本史に書かれています。
「たとえ、我ら全員が礫刑に処せられるに接しても、絶対に、この暴君に仕えないように、そうすることは我らの主なるゼウスに奉仕することになるからである」。
そうです、オルガンティノ神父はキリシタン武将の高山右近には「絶対に、この暴君に仕えないように」と言っているのに、京極高次には特に何も言わずに明智方へ加勢するのを容認し、しかも秀吉の居城である長浜城を攻撃しているのに止めようともしていません。
たまたま連絡が取り合えなかったのか?と言う可能性もゼロでは有りませんが、個人的にはそうは思えません。
当時の状況に於いてそのつもりならオルガンティノ神父は如何なる手段を使ってでも京極高次に「絶対に、この暴君に仕えないように」伝えていたはずだと思っています。
京極高次の方もイエズス会の考え方を確認せずにどちかに簡単に加勢するような事はしなかったはずだと考えるのが普通ではないでしょうか。
そこから浮かび上がって来る事とは次の通りです。
イエズス会は元々明智光秀を討つつもりだった為、光秀がイエズス会を味方につける事ができたと勘違いするようにキリシタン武将である京極高次にすんなり明智方は加勢させた。無論その後突如として高山右近と中川清秀を使ってハシゴを外す為である。
オルガンティノ神父は高山右近に「絶対に、この暴君に仕えないように」と言ってはいますが、「明智光秀に仕えるかのように解釈できるような適当な返答を絶対にしてはいけない」とは言っていません。
なのでルイス・フロイスがローマに送った「1582年度日本年報」に書かれている「家臣たちは都合の良いように偽った返答をした」と言う旨の部分がこれに該当するわけです。
高山右近は家臣が光秀にしたこの「偽った返答」を特に訂正するような内容を特に明智光秀に伝えてはいなかったと考えられます。
伝えてしまうとどうなるか、それは当然の如く明智勢は高山右近と中川清秀から人質を取り、高槻城と茨木城を占拠するはずで、最初から秀吉方に加勢するつもりか、或いはどの武将に付くのか決めかねている場合なら当然そうした返事をしたはずです。
高山右近とその近縁の中川清秀が秀吉方に加勢するだろうと光秀がほぼ確信したのは、この2人が西宮か尼崎あたりまで到着していた秀吉に会いに6月10日か11日頃に人質として差し出す家族を連れて城を出発した時かと思われます。
明智方もその程度の事がわかる間者は送り込んでいたはずなのでそれは6月10日頃に光秀の知るところとなったと言う事です。
そして大体この日あたりに山崎城と男山城から兵を引き上げている事からもこれは理解できます。
イエズス会は明智光秀が高山右近と中川清秀に疑いを持たぬよう、京極高次はすんなり明智方に加勢させる、と言う方法を採った、と言う事なのかも知れません。
そしてもう一つ、京極高次は当初秀吉から逃げ回っていたとも言われているのですが、その後に秀吉から許され石高も増やされて復活しています。
これは京極高次の正妻が浅井長政の娘である初(淀の妹)である事や、美貌の妹、竜子を秀吉の側室に差し出した事も有るのですが、イエズス会は京極高次の生存保障について秀吉に圧力をかけられる自信が有ったからこそ出来た選択だったのではないでしょうか。
そして親キリシタン武将である宇喜多氏と既に近縁となっていた秀吉は当時に時点でイエズス会と連携していたと考えるのがこの頃に起きたいくつかの出来事からわかります。