山崎の戦いは旧暦で6月13日。
6月1日が新月だったはずなので6月13日は満月に近い月齢だったはずですが、当時は雨天だったようです。
となると月明かりは当てに出来ず進軍は松明利用となるはずで、そうすると夜戦まで持ち越して明智勢が退却戦を仕掛ければ、攻撃側である秀吉勢は松明がアダとなって大ダメージを受ける可能性が高い事になり、ならば明智勢が待ち伏せとその銃撃等と言う戦法を仕掛け、有る程度は持ちこたえられた、或いはかなりのダメージを秀吉方へ与えられたのではないかとも(結果論としては)考えてしまうのです。
それでは何処へ退却するのか?と言う事になるのですが、結論からいうと高野山方面から四国に退却するのがベストだったと思えます。
ですが明智光秀はその様な戦法は採りませんでした。
明智方に加勢した武将らは近江衆などが主であった為にそうも行かなかった面も有るかも知れませんが、そもそも、高山右近と中川清秀が明智方に加勢しないとわかっていればわざわざ高山右近が地理に詳しいあの山崎周辺を戦闘の場にはしなかったと考えています。
6月1日が新月だったはずなので6月13日は満月に近い月齢だったはずですが、当時は雨天だったようです。
となると月明かりは当てに出来ず進軍は松明利用となるはずで、そうすると夜戦まで持ち越して明智勢が退却戦を仕掛ければ、攻撃側である秀吉勢は松明がアダとなって大ダメージを受ける可能性が高い事になり、ならば明智勢が待ち伏せとその銃撃等と言う戦法を仕掛け、有る程度は持ちこたえられた、或いはかなりのダメージを秀吉方へ与えられたのではないかとも(結果論としては)考えてしまうのです。
それでは何処へ退却するのか?と言う事になるのですが、結論からいうと高野山方面から四国に退却するのがベストだったと思えます。
ですが明智光秀はその様な戦法は採りませんでした。
明智方に加勢した武将らは近江衆などが主であった為にそうも行かなかった面も有るかも知れませんが、そもそも、高山右近と中川清秀が明智方に加勢しないとわかっていればわざわざ高山右近が地理に詳しいあの山崎周辺を戦闘の場にはしなかったと考えています。