快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -   奄美大島北西沖でMj5.9の地震発生 これをどう見るか

2019-07-13 19:27:00 | 地震 津波
 今日は奄美大島北西沖でMj5.9の地震発生しました。

                        Mj  最大震度
2019年7月13日 9時58分ごろ 奄美大島北西沖 5.9 3

 そして今日は平年より2週間遅く奄美地方が梅雨明けと気象庁が発表した日でもあります。
 奄美地方は今日の朝から晴れていたようですから、「雨天曇天一過の地震晴れ」なのか、と言う所ですが海域の地下、しかも震源が深いようなのでこれに該当するのかどうかはわかりません。
 そしてこのエリアについて過去も含めたMw5以上の地震をEMSCで見ると次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes

2019-07-13 00:57:42.1
9hr 01min ago
        29.47  N 128.00 E 238 6.1 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2017-08-16 12:51:24.8 28.81 N 127.85 E 189 5.7 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2015-11-14 20:34:29.1 31.26 N 128.89 E 10 5.1 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2015-11-14 19:20:22.2 31.39 N 128.89 E 20 5.7 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2014-10-17 17:41:35.1 29.73 N 128.53 E 44 5.0 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2014-08-14 17:09:54.1 28.16 N 127.96 E 48 5.4 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2010-08-07 16:04:07.2 29.55 N 128.30 E 237 5.3 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2009-03-26 19:19:58.0 27.46 N 126.78 E 144 5.9 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2008-08-05 01:00:52.6 27.03 N 126.33 E 60 5.0 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2007-08-07 00:02:25.7 27.40 N 126.77 E 40 5.9 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2007-07-31 15:07:38.0 27.41 N 126.88 E 40 5.9 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2006-04-09 18:28:12.5 29.49 N 128.74 E 53 5.0 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2004-10-02 18:14:03.9 29.75 N 128.43 E 33 5.3 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS

引用終了

 EMSCではMwで6.1としていています。
 震源の深さが200km以上とやや稀な方に属する地震でした。
 過去にもやや似たパターンで発生が確認されているのは、

2010-08-07 16:04:07.2 29.55 N 128.30 E 237 5.3 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS
2009-03-26 19:19:58.0 27.46 N 126.78 E 144 5.9 NORTHWEST OF RYUKYU ISLANDS

 です。
 ではこのあたりで目立つ地震が国内でどうだったのかと言うと、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#2010%E5%B9%B4%E4%BB%A3

2009年(平成21年)
8月9日 東海道南方沖で地震 - Mj6.8 (Mw7.0[146] - 7.1)、深さ333 km、関東から東北地方南部にかけて最大震度4[147][148]。
8月11日 駿河湾で地震 - Mj6.5 (Mw6.3)[149]、静岡県御前崎市・牧之原市・焼津市・伊豆市で最大震度6弱。死者1人。最大40 cmの津波を観測。気象庁は史上初の東海地震観測情報を発表[150]。

2010年代
2010年(平成22年)

2月27日 沖縄本島近海で地震 - Mj7.2 (Mw7.0)[151]。沖縄県糸満市で最大震度5弱。負傷者2名。沖縄本島地方に一時津波警報が発表された。南城市で10 cmの津波を観測。
11月30日 小笠原諸島西方沖で地震 - Mj7.1 (Mw6.8)[152]、深さ494 km[153]、関東から東北地方南部の広い範囲で最大震度3[154]。
12月22日 父島近海で地震 - Mj7.4[155] - 7.8[156] (Mw7.3[156] - 7.4[157])、父島と母島で最大震度4。小笠原諸島に一時津波警報が発表された。伊豆諸島で0.5 m[注 21]、八丈島で最大60 cmの津波を観測[158]。

引用終了

 あまり似ていない気もしますが、前後してこれから発生するのか、それとも関係はやはり無いのか、どちらなのでしょう。
 そう言えば山形県沖の地震は2009年から2010年には特に無かったので全然別の場所で目立つ地震が発生したと言う事だったのでしょうか。・・・いやいや少し似ている気もするデータは有ります。

                        Mj  最大震度
2011年1月3日 13時45分ごろ 新潟県下越沖 4.7 4
2010年3月14日 12時17分ごろ 新潟県下越沖 3.5 1
2010年1月27日 23時36分ごろ 新潟県下越沖 4.0 1
2009年10月27日 23時54分ごろ 新潟県下越沖 2.9 1
2009年8月3日 14時13分ごろ 新潟県下越沖 4.7 2
2009年8月2日 3時53分ごろ 新潟県下越沖 3.9 1
2009年8月2日 2時54分ごろ 新潟県下越沖 4.8 3
2009年8月2日 0時57分ごろ 新潟県下越沖 4.9 3
2007年10月29日 8時27分ごろ 新潟県下越沖 3.0 1

2010年7月18日 10時52分ごろ 山形県沖 3.9 1
2010年5月14日 8時24分ごろ 山形県沖 3.1 1
2008年7月28日 23時07分ごろ 山形県沖 3.0 1

 2009年後半から2010年前半は通常より多かったようです。
 ただ広域の地殻やプレートのバランス、そしてストレスの状況なども加えると全容は見えません。
 今後どうなるのでしょう。
 
 
 

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 山崎城を放棄したのにあのエリアでの野戦と篭城戦を選んだ、と言う不可解な点

2019-07-13 09:43:53 | 明智光秀
 山崎の戦いの直前、明智光秀は山崎城と男山城から兵を撤収し、実質放棄したと言う事のようです。
 その後に秀吉方がこの二つの城に入って戦いを有利にしたようなのですが、どうも調べているとおかしな点が有る様に思えて来るので記事にしてみました。
 この二つの城からは山崎の戦いが有った主に湿地帯などの平地や大山崎の町が殆んど一望できるようで、ネットで「天王山 眺望」、「山崎城 眺望」、「男山城 眺望」などでネット検索すればすぐに多くの画像が出て来ます。
 ここから山崎の戦いが有ったエリアが一望できるのはわかるのですが、不可解に思うのは、「男山城は放棄が仕方ないとしても山崎城も放棄したのに明智光秀は何故この城やその山から一望できてしまう主として平地を戦場に選んだのか?」と言う点です。
 この城を放棄したのなら、ここに見張りを置くだろう秀吉勢から一望できてしまうエリアを野戦の場としてはいけない事くらい光秀ならわかっていたはずではないでしょうか。
 秀吉勢が大軍でとても通常の野戦で明智勢はかなわないと言うなら、残された選択肢と言うと篭城戦か 退却戦、或いは他で地理がわかるエリアでの野戦、山や森林などの逃げ込んでゲリラ戦などだろうと私なら考えます。
 なのに天王山や山崎城などから一望できてしまうこんな場所で野戦をし、そして短時間で大敗したと言うのが古文書などによって通説とされる事のようです。
 ここで可能性として考えられる事は次のいずれかではないでしょうか。

1.明智光秀は中川清秀と高山右近が秀吉方に加勢したと知っていたので退却戦を考えた。
  しかし一方では篭城戦と見せかける事も考えて勝竜寺城に有る程度の部隊は置いた。
  そして明智光秀や重臣らは真っ先に退却しながら退却戦を行った。
  なので明智光秀は勝竜寺城が攻められるかなり前から城から出ていたか、或いは最初から勝竜寺城に はいなかった。
  このケースだと明智光秀が小栗栖で落ち武者狩りに遭って落命した、と言う事はなく、生き延びて身 を隠した、と言う可能性も出て来る。

2.明智光秀は中川清秀と高山右近が秀吉方に加勢(寝返り?)したと知らずに、山崎城や天王山を中川 清秀に任せ、そこから一望できる平地である戦場について秀吉勢の動向を把握させ、合図などで明智勢 に知らせるような役目をさせようとしていた。
  ところが、中川清秀が突然秀吉方に加勢し(寝返った?)明智方である松田・並河隊が中川清秀と合 流しようとした所を急襲し壊滅させた。
  ほぼ同時に高山右近は大山崎の町を占拠していたがこれを明智勢は自分らと合流しようと待機してい ただけと思っていたら、東黒門を叩いた明智勢を高山右近の部隊が突然急襲し大打撃を与えた。
  これらにより明智勢は逃げ出す兵などが続出し総崩れとなった。

 果たして上記のどちらなのでしょうか。
 少なくとも言える事は野戦や退却戦などの戦闘経験も多く、そして知略家と言われた明智光秀が、いくら想定外に早くて多かった秀吉勢と戦う事になったからと言って僅か数時間で壊滅すると言うなど通常では考えられない、と言う事です。