快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 光秀が「捨て奸」を混じえた紀伊、四国方面への退却戦を展開出来なかった理由

2019-07-21 17:03:55 | 明智光秀
 山崎の戦いでは少なくとも明智光秀は自軍の劣勢がわかっていたものと思われますが、ならばそれなりに退却戦を採りながら、追撃してくる秀吉勢を所々で待ち伏せ攻撃して徐々にダメージを与える策も有ったはずです。
 退却戦の最も過激なものは「捨て奸(すてがまり)」と言われるもので、これは島津氏独特の戦闘方法のように見られますが、調べて見ると実は稲葉良通 (稲葉一鉄)が既に1573年に実行していた事がわかります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E8%89%AF%E9%80%9A

稲葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。斎藤氏、織田氏、豊臣氏の家臣。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称され、特に稲葉良通は三人衆筆頭とされた[2]。
(中略)
天正元年(1573年)の長島一向一揆との戦いにおいて、追撃する一揆勢に殿軍の林通政が討死する危急の中、「捨てかまり」と呼ばれる伏兵策を用いて功を挙げた(カマリとは斥候兵の意)

引用終了

 それでこれが山崎の戦いとどう関係しているのか?となるのですが、この点については斉藤利三が稲葉一鉄の家臣であり縁戚であった事から、この捨て奸(すてがまり)と言う戦闘方法を熟知していたものと考えられる事がポイントかと見られます。
 本能寺の変の直前、稲葉一鉄が斉藤利三を光秀から戻すように信長を通して訴えていたのはそれが理由だったのかどうか、と言うのはわかりませんが、少なくとも斉藤利三が捨て奸(すてがまり)と言う過酷な戦法、つまり当時の最高軍事機密を知らなかったわけは無いはずであり、それならば山崎の戦いに於いてはこの戦法を交えた退却戦を展開して秀吉方へ大ダメージを与える事くらいはそう困難ではなかったかとは思えます。
 ところが山崎の戦いは山崎周辺であっさりと決着してしまったのです。
 一体これは何を意味するのか?と謎めいて来るのですが、それは「明智光秀は京都を捨てられなかったので京都周辺以外である四国や紀州などには退却戦を展開できなかった。しかし仮に京都や近江、丹波にまで退却戦を展開できたとしても今度は柴田勝家勢と秀吉の連合勢から挟み撃ちに遭う」と言う事が大きな要因だったかと考えています。
 そして光秀が京都やその周辺である近江・丹波を捨てられなかったのは何故なのか?となると一つは近江・丹波衆が明智勢に加勢していた事、そしてやはり「信長を討ったのは足利義昭を上洛させて足利幕府再興を実行する為だった」と言うロジック以外には自己正当化をする事ができなかったから、と言う状況が大きかったのかも知れないと考えています。

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 兵農分離が進んでいなかった長宗我部氏の農繁期が狙われたのか

2019-07-21 10:54:08 | 明智光秀
 本能寺の変から山崎の戦いまでの間、秀吉が妙に強気な行動をしていた事は明らかです。
 確かに秀吉単独で明智勢に主君であった信長の仇討ちをすればその後の評価は秀吉が有利となるのですが、それは一方ではリスクも高い事でもあり 通常ならば柴田勝家が京都に近付くまで待ってから明智勢を挟み討ちにすると言うのが確実な手法のはずですが、それを待たずに単独で明智勢に勝負を仕掛けて大勝しました。
 余程の自信がなければあのような事は強行できないはずなので、そのあたりがどうも少し違和感が有ったのですが、最近記事の中で書いている内に改めて強く認識できた事が有りました。
 それは「一領具足」と言うシステムで他の勢力に比べて兵農分離が進んでいなかった長宗我部氏にとってこの時期が農繁期だった事で兵の動員が手薄な期間だった事です。
 本能寺の変を知ってから、上杉氏と北条氏やそのエリアの国人や一揆勢らは反信長として蜂起が多発し、それが前田利家を含む柴田勝家勢の帰還を遅らせたり縮小させた面が有りました。
 一方で秀吉は毛利氏と和睦(或いはそれ以上の連携や共謀?)しており、そして明智光秀に加勢する信頼性が最も高く、力もかなり強かったのは長宗我部氏だったのですが、その長宗我部氏が兵農分離が進んでいなかった上、当時が農繁期であった事から明智方に加勢して秀吉勢を多方面から攻撃するようなリスクは秀吉にとって小さかった事になります。
 そもそもこうした状況のシーズンに明智光秀が本能寺の変を何故起こしたのか?と言う疑問については以前の記事で書きましたが、これも本能寺の変が明智光秀の想定外に発生してしまったと考える一つの理由でもあります。
 可能性はともかくとして極端に言えばの仮説に過ぎませんが、次のようなプランも考えられて来たのかと思われます。

 秀吉も、そして毛利氏、宇喜多氏、小早川氏も「独特の一領具足方式である長宗我部氏にとって、この時期は農繁期で兵の動員が手薄なシーズンであり、従って仮に明智光秀が信長を討っても長宗我部氏の強力なサポートを受けるのは無理。ならばこの時期を狙って明智光秀が信長を討つような原因か或いは事実を作ってしまえば、その後に光秀ら明智勢を殲滅するのは簡単である。そして柴田勝家ら関東甲信越の織田方武将らは、長宗我部氏よりは兵農分離が進んでいたはずの反織田勢力に手こずって畿内に戻れないか、戻れても兵力は僅かなはずであり、従って明智勢を討った手柄は秀吉が独占できる。そして表面上は秀吉を擁立すれば毛利・宇喜多・小早川勢は織田方からの反撃のリスクも小さく、実質、秀吉・毛利・宇喜多・小早川連合政権が成立する。残るライバルである柴田勝家を消すには上杉氏と連携して挟み撃ちにしてしまえば良い。」

 そして結果としてその後は実際にその通りになりました。
 
 

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 高山右近と中川清秀を明智方に加勢させる為に光秀は一体どうすれば良かったのか

2019-07-21 00:49:20 | 明智光秀
今回は前回記事の続きです。
 それでは明智光秀が山崎の戦いで高山右近と中川清秀を味方に繋ぎ止めて於く為には一体どうすれば良かったか? ですが、結論から言えばそれは高山右近の高槻城、更に中川清秀の茨木城よりも西にあたるエリアを秀吉勢との決戦の場とすべきだったかと思われます。
 当時において摂津国主であった池田恒興は兵庫城主、嫡男の元助は伊丹城主で、どうも池田恒興も伊丹城にいたらしいような記録も有るようですが、実際にはわかりません。
 いずれにしても池田元助は伊丹城にいたはずであり、この池田親子が秀吉方に加勢する事を止める事は殆んど光秀にとっては不可能だったはずなので、秀吉・池田親子勢に対して、もし光秀が高山右近と中川清秀を味方に出来れば、この明智勢がおそらく茨木城と伊丹城の間の地点で戦う、と言う状況になるはずだった、と考えています。
 しかし明智光秀はそうした方法を採りませんでした。
 もしかすると仮に高山右近と中川清秀を味方に出来たとしても、秀吉方の勢い次第ではこの二人が急に内部から寝返るかもしれない、と考えたのかも知れませんが真相は定かでは有りません。
 このような状況で光秀が、高槻城の東にあたる山崎あたりで決戦をする事に決めた事は確かなようです。
 そしてこの時点で摂津衆である池田恒興、元助親子と高山右近・中川清秀が秀吉方に付くのは少なくとも光秀にはわかっていたはずであり、後はいつ攻撃して来るのか?となると、光秀は摂津衆が来るとしてもそれはおそらく秀吉勢が高槻城について合流してから一緒に連携を取りながら攻めて来るものと考えていたように思えます。
 ところが秀吉勢と合流を殆んどしないうちに先行して高山右近が大山崎町を占拠、中川清秀は天王山の少なくとも中腹以下、もしかしたら山崎城までを占拠していて、それを知らなかった明智勢が無防備な態勢で(禁制が出ていた)大山崎町の東黒門を安易に叩いた所、既に十分な攻撃態勢だった高山右近が門を開けて明智勢を急襲、そして同様に天王山や山麓周辺に油断した状態で入り込んだ明智勢(おそらく松田・並河隊、そして伊勢貞興ら)を中川清秀とやや秀吉本隊の援軍が加わった部隊が森林の中から突如出て来て急襲し、そして川の近くは池田恒興らの部隊が斉藤利三の部隊を囲うように襲撃して威圧。
 これで明智方は総崩れになり逃げ出す兵も続出して短期に決着がついてしまった、と言う所だったのかと思われます。
 摂津衆が何故秀吉の本隊が十分到着しないうちに戦闘を開始したのか?ですが、その理由の一つはやはり明智勢の裏をかく手口と言えるのではないでしょうか。
 光秀もまさか摂津衆が秀吉本隊の到着を待たずに先行して攻めて来るとは考えておらず、明智勢が油断して戦闘態勢の将兵が少なかったと言うだけでなく、元々多くなかった兵力が更に分散した状態になっていた事が明智勢の損害を大きくしたと見られます。
 次に天王山の麓や山中に部隊の多くが有って、秀吉方であった中川清秀らの部隊が森林で見えにくかった事。
 もう一つの理由は当日が雨で鉄砲が使いにくい状況だったため平地を戦場にした明智勢には不利な面が有った事。
 更にもう一つの理由は高山右近・中川清秀が本当に秀吉方に加勢するのかどうか、光秀以外の将兵はあまりよくわかっていなかった可能性が少なくない事。(高槻城で高山右近の家臣や家族から明智方へ加勢するような偽りの返事をもらった事がまだ記憶にあった)。
 他にも明智勢が短期大敗した理由は有ると考えていますが、その点は気が向けば記事にするかも知れません。