快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 明智勢が無防備な態勢で東黒門付近に集結して門を叩いた理由を考える

2019-07-27 13:15:13 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 明智勢が東黒門付近に来ていた所へ高山右近の部隊にされて大きなダメージを受けたのですが、ではなぜ明智勢が無防備な態勢で東黒門付近に集結していたのでしょうか。
 結論から書きますと、それは「明智勢は高槻城へ援軍として向かう為に大山崎町を通過しようとしていたから」だと考えています。
 後詰めとして高山右近の居城である高槻城へ援軍として向かうのなら、大山崎町ではまだ無防備であったはずだからです。
 明智光秀は秀吉があれだけ早く摂津、特に伊丹城より東を配下に置くとは考えていなかったのではないでしょうか。
 理由は単純です。
 以前にも書きましたが、明智光秀が中川清秀について秀吉との間で内誓紙が有った事を知らなかったはずだからです。
 秀吉本隊がまだ伊丹城付近までしか来ていない、と判断した光秀は、高槻城か茨木城までを配下に入れ、そして秀吉勢との決戦の地を高槻城かできれば茨木城の西にしようと考えていたのかも知れません。
 それで援軍を進めるつもりで明智勢は大山崎町を通過する為に集結し、そして閉まっていた東黒門を叩いた。
 ところが中川清秀は秀吉の進軍を手引きし、そして近縁の高山右近も秀吉方として既に加勢していたため、大山崎町には高山右近の部隊が急襲態勢で待機しており、中川清秀もその近辺である天王山の山麓付近にあって、東黒門の外側で集結していたカモである明智勢を見張っていた。
 そして確実に大きな戦果をあげられる状況を中川清秀が確認してから高山右近へ合図で知らせ、高山右近隊は突然東黒門を開けて明智勢を急襲した、と言う状況だっただろうと考えています。
 中川清秀が秀吉との間で内誓紙が有った事、そしてそれをテコに秀吉が通常では有り得ない進軍スピードで部隊を進められた事を明智光秀は想定できなかったように思われます。
 
 

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 東黒門付近で発生した尋常でない出来事

2019-07-27 11:46:11 | 明智光秀
 明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因は多々有るようですが、その大きな要因の一つが東黒門付近で発生した高山右近による明智勢への急襲でした。
 ルイス・フロイスの「1582年度日本年報追信」には「彼らキリシタンはこれを勇敢に行なって1人の戦死者を出したのみであったが、最初の合戦ではたちまち明智の身分の高い者の首を200以上取った」と言う記述があるのですが、これが通常の戦闘では尋常でない事は誰の目にも明らかです。
 仮に自軍が戦闘態勢であったならば例え相手側が奇襲したとしても相手方へのダメージがたった一人の戦死者と言う事は通常では有りえません。
 これが何を意味するのか?といえばそれはこうです。
 明智勢にとって「敵方が門の先にいるとは考えていなかった」・・・・・状況がどうだったのかと言うとですが、それは大山崎町が敵方に占拠されていると認識していると言う前提の戦闘ならば、通常は弓や鉄砲、槍などをいつでも瞬時全開モードで動員できる体制だったはずで、仮に敵方に急襲されて大損害を受けたとしてもそれなりの相手にもかなりの損害を与えているはず、と言う事になるはずなのですが、それを認識せずにほぼ無防備な状況で明智方が東黒門を叩いた、と言う事になります。
 これが意味する事が何かと言えばそれは「高山右近か中川清秀が大山崎町を占拠しているとは考えていなかった」、或いは「高山右近か中川清秀が秀吉方として大山崎町を占拠しているとは考えていなかった」と言う事ではないでしょうか。