明智光秀が大敗した山崎の戦いについては、調べている内に次第にわかって来る事が多く有ったので今回記事にします。
山崎の戦いにおける高山右近と中川清秀の裏切りとも採れる史実がどの程度であったのか? については様々な見方が有るのかも知れません。
筆者が個人的にグレーゾーンであるとする可能性を考えている事については以前の記事で書きました。
その後更に調べている内に、どうもグレーゾーンレベルでもない程度なのかも知れない、と考えられるロジックが存在する事がわかって来ました。
ではこれが一体何なのか?ですが、それは「明智光秀が秀吉方との対決する戦場を山崎エリアにした時点で、既に「大山崎西門以西は捨てる方針だったらしい」と言う事です。
これが何を意味するのか?ですが、「明智光秀が秀吉方との対決の戦場を山崎エリアにした」と言う事は「高山右近の高槻城と中川清秀の茨木城は出城にする」と言う事であり、「場合によってそれらの城を捨て駒、捨て城」にすると言う事であるわけです。
そんな光秀の方針に従って明智方に加勢して自分の城を捨て城にする程、高山右近と中川清秀はお人好しでは無かったはずで、当然の如く西宮までは少なくとも押し寄せていた秀吉勢に加勢する事となります。
では高山右近と中川清秀がどれだけ秀吉勢の兵力を分析していたのか? と言うと、それは当地で見た目でしかわからず、秀吉勢が西宮あたりなどに集結し、例えそれがそろらの百姓の次男三男や或いは借金で首の回らなくなり何とか返済しようする町人や浪人などの胡散臭い連中が武具や武器を持った程度の大軍であったとしても、見た目では戦闘力がわからず、しかし事情のわからない高山右近と中川清秀にはそれなりに説得性が有るわけで、それを目撃していればかなり圧倒され、秀吉方に加勢しようと判断した可能性は高かっと思われます。
それともう一つ。
摂津衆と言うのは摂津国でありその国主は当時において池田恒興だったようです。
摂津衆のトップは池田恒興であり、しかも信長と乳兄弟であるからには、高山右近と中川清秀は余程の理由が無ければ池田恒興の傘下で動き、そして織田氏としてのリベンジをする方向に加勢するのは明らかだったと思えます。
明智光秀は主戦場を山崎周辺にした時点で既にこの事がわかっていたはずだったと考えられます。
高山右近と中川清秀が秀吉方に加勢するのはほぼわかっていた。なのに大山崎の東黒門を無防備な状況で叩いたのは何故なのでしょう。
それが意味するのは「明智勢はまさか大山崎町を高山右が占拠しているとは考えていなかった」。
そして松田・並河隊が壊滅したのも「天王山の中腹と、もしかしたらその山頂や山崎城も中川清秀らを含む秀吉勢が占拠しているとは考えていなかった」と言う事ではないでしょうか。
これらの状況から考えると、「高山右近と中川清秀の挙動は果たして悪質な寝返りだったのか」と言われればそれは「明智光秀が戦闘の場を山崎とその周辺にした時点で、高山右近と中川清秀は秀吉方に加勢すると光秀は想定していなければならなかた」と言う事で、「高山右近と中川清秀の挙動は悪質な寝返りにはあたらない」となるのかと、現時点では考えています。
山崎の戦いにおける高山右近と中川清秀の裏切りとも採れる史実がどの程度であったのか? については様々な見方が有るのかも知れません。
筆者が個人的にグレーゾーンであるとする可能性を考えている事については以前の記事で書きました。
その後更に調べている内に、どうもグレーゾーンレベルでもない程度なのかも知れない、と考えられるロジックが存在する事がわかって来ました。
ではこれが一体何なのか?ですが、それは「明智光秀が秀吉方との対決する戦場を山崎エリアにした時点で、既に「大山崎西門以西は捨てる方針だったらしい」と言う事です。
これが何を意味するのか?ですが、「明智光秀が秀吉方との対決の戦場を山崎エリアにした」と言う事は「高山右近の高槻城と中川清秀の茨木城は出城にする」と言う事であり、「場合によってそれらの城を捨て駒、捨て城」にすると言う事であるわけです。
そんな光秀の方針に従って明智方に加勢して自分の城を捨て城にする程、高山右近と中川清秀はお人好しでは無かったはずで、当然の如く西宮までは少なくとも押し寄せていた秀吉勢に加勢する事となります。
では高山右近と中川清秀がどれだけ秀吉勢の兵力を分析していたのか? と言うと、それは当地で見た目でしかわからず、秀吉勢が西宮あたりなどに集結し、例えそれがそろらの百姓の次男三男や或いは借金で首の回らなくなり何とか返済しようする町人や浪人などの胡散臭い連中が武具や武器を持った程度の大軍であったとしても、見た目では戦闘力がわからず、しかし事情のわからない高山右近と中川清秀にはそれなりに説得性が有るわけで、それを目撃していればかなり圧倒され、秀吉方に加勢しようと判断した可能性は高かっと思われます。
それともう一つ。
摂津衆と言うのは摂津国でありその国主は当時において池田恒興だったようです。
摂津衆のトップは池田恒興であり、しかも信長と乳兄弟であるからには、高山右近と中川清秀は余程の理由が無ければ池田恒興の傘下で動き、そして織田氏としてのリベンジをする方向に加勢するのは明らかだったと思えます。
明智光秀は主戦場を山崎周辺にした時点で既にこの事がわかっていたはずだったと考えられます。
高山右近と中川清秀が秀吉方に加勢するのはほぼわかっていた。なのに大山崎の東黒門を無防備な状況で叩いたのは何故なのでしょう。
それが意味するのは「明智勢はまさか大山崎町を高山右が占拠しているとは考えていなかった」。
そして松田・並河隊が壊滅したのも「天王山の中腹と、もしかしたらその山頂や山崎城も中川清秀らを含む秀吉勢が占拠しているとは考えていなかった」と言う事ではないでしょうか。
これらの状況から考えると、「高山右近と中川清秀の挙動は果たして悪質な寝返りだったのか」と言われればそれは「明智光秀が戦闘の場を山崎とその周辺にした時点で、高山右近と中川清秀は秀吉方に加勢すると光秀は想定していなければならなかた」と言う事で、「高山右近と中川清秀の挙動は悪質な寝返りにはあたらない」となるのかと、現時点では考えています。