山崎の戦いについては奇妙な矛盾点と思われる事が他にも有ります。
秀吉方の軍勢は大体3つに分けられ、天王山の山麓付近は中川清秀らの部隊、中央は大山崎町を占拠していた高山右近の部隊、そして桂川沿いを池田恒興らの部隊でそれぞれ後詰めや後方援護部隊も有りました。
このうち桂川沿いの川岸周辺を進んだ池田恒興らの部隊ですが、あっさりと円明寺川に到達し、そしてこの川を越えています。
明智光秀が山崎を戦いの場とした理由は、「ここが隘路になっているため、ボトルネック効果が期待できて兵力の差が出にくい、と言う利点があったから」と言われているのに、大山崎町の両サイド、特に桂川沿いの川岸周辺ルートが戦闘経過の記録では特に明智勢が防御するための策を構築していた記録がどうも無いようです。
実は防御策は有る程度構築していたのかどうかはわかりませんが、それにしても短時間で秀吉方の池田勢などに兵をすすめられているのはやはりこのルートを使ってくる秀吉勢をここで叩くための策が殆んどなされていなかったからではないでしょうか。
しかしそれでは明智勢が山崎と言う隘路を利用するメリットが殆んど無い事になってしまいます。
これも山崎の戦いの記録に見られる奇妙な矛盾点の一つです。
秀吉方の軍勢は大体3つに分けられ、天王山の山麓付近は中川清秀らの部隊、中央は大山崎町を占拠していた高山右近の部隊、そして桂川沿いを池田恒興らの部隊でそれぞれ後詰めや後方援護部隊も有りました。
このうち桂川沿いの川岸周辺を進んだ池田恒興らの部隊ですが、あっさりと円明寺川に到達し、そしてこの川を越えています。
明智光秀が山崎を戦いの場とした理由は、「ここが隘路になっているため、ボトルネック効果が期待できて兵力の差が出にくい、と言う利点があったから」と言われているのに、大山崎町の両サイド、特に桂川沿いの川岸周辺ルートが戦闘経過の記録では特に明智勢が防御するための策を構築していた記録がどうも無いようです。
実は防御策は有る程度構築していたのかどうかはわかりませんが、それにしても短時間で秀吉方の池田勢などに兵をすすめられているのはやはりこのルートを使ってくる秀吉勢をここで叩くための策が殆んどなされていなかったからではないでしょうか。
しかしそれでは明智勢が山崎と言う隘路を利用するメリットが殆んど無い事になってしまいます。
これも山崎の戦いの記録に見られる奇妙な矛盾点の一つです。