快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -   カリフォルニア州中部でMw7.1の地震発生

2019-07-06 13:18:02 | 地震 津波
 先程カリフォルニア州中部でMw7.1の地震が発生しました。
 このエリアのMw5以上の地震はEMSCで次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

2019-07-06 03:19:57.8
50min ago
35.79 N 117.58 W 10 7.1 SOUTHERN CALIFORNIA
2019-07-06 03:16:32.3
53min ago
35.73 N 117.55 W -1 5.0 SOUTHERN CALIFORNIA
2019-07-05 11:07:52.5 35.76 N 117.58 W 7 5.4 SOUTHERN CALIFORNIA
2019-07-04 17:33:49.1 35.71 N 117.51 W 11 6.4 SOUTHERN CALIFORNIA
2016-06-10 08:04:38.0 33.44 N 116.45 W 1 5.2 SOUTHERN CALIFORNIA
2014-03-22 00:59:39.0 35.06 N 118.29 W 13 5.2 SOUTHERN CALIFORNIA
2012-08-26 19:31:26.0 33.02 N 115.55 W 12 5.4 SOUTHERN CALIFORNIA
2010-07-07 23:53:34.7 33.34 N 116.56 W 15 5.6 SOUTHERN CALIFORNIA
2005-06-12 15:41:51.2 33.84 N 116.29 W 2 5.1 SOUTHERN CALIFORNIA

引用終了

 今月4日地震はやはり予震だったのかどうか。
 それと今日有ったMw5.0の地震の震源の深さが-1と言うのは標高1000メートルが震源だったと言う事なのでしょうか?
 速報ニュースでも入るかと思ってネットで暫く見ていますが、特に被害を伝えるニュースはまだ国内のサイトでは確認できていません。
 EMSCのデータ開始は2004年の途中からですが、この期間内で見ると次第に地震の規模と頻度が増しているように見えます。
 これが一時的なのか今後も続のかはわかりません。


仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 秀吉が主君家を乗っ取る仕組み それは「内誓紙」など「友としての誓いの書」

2019-07-06 12:08:41 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 秀吉が「内誓紙」や「誓紙」などの「誓いの書」を使いこなす達人だったらしいと考えているのですが、この方式が他の武将と違っていると思う点は「敵方や調略対象の武将やその家臣などに対して」だけでなく「味方の武将や家臣にも内誓紙や誓紙を書かせている点」です。
 主君や他の味方武将に無断で「誓いの書」を書かせるなどと言うは許されない事の様に思えますが、その内容が同盟とかではなく単に「友としての誓いの書」と言う事で主君や他の武将も「まあ良いか」と思ってしまったのかと考えています。
 それは例えば織田家が一丸となって敵方と戦っている時とかは良いのすが、本能寺の変のように主君信長が落命した後、織田家内部で跡目争いや勢力争いとなった場合にはこの「友としての誓いの書」が「友としてだけでは無い意味を持って来る」わけで、秀吉が多くの織田方武将を自分の手下に引き入れる事が出来たのはこの「友としての誓いの書」である「内誓紙」や「誓紙」などだったのではないでしょうか。
 主君が健在でその家臣らも仲が良い期間に内に、早くも将来の内紛を見越して「友としての誓いの書」と言う名目でも良いから味方の武将やその家来などから「内誓紙」や「誓紙」を取る。
 そしてやがて内紛になった時にこれを使って脅し、強請りをかけて敵対する側に加勢できないようにする・・・・・これが秀吉による主君家乗っ取りの仕組みと方程式だったと考えています。
 山崎の戦いではこれが発動された形跡が中川清秀と交わした「内誓紙」と言う記録で残っているに過ぎず、実は他の武将、武士、或いはそれだけでなく商人や僧、その他あらゆる者から必用な範囲で「友としての誓いの書」を手に入れていた可能性は高いはずです。

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 高山右近も秀吉と内誓紙を交わしていた可能性

2019-07-06 08:11:07 | 明智光秀
 中川清秀が秀吉と内誓紙を交わしていた件ですが、内誓紙は秀吉から中川清秀へ提出された事が記録として残っているだけのようです。
 「ならば中川清秀から秀吉へ提出された内誓紙は無かったのではないか?」と疑問に思えるかも知れませんが、通常では契約書のように内誓紙は双方に交わすものか、或いは立場の弱い方が拘束力の有る強い方に提出するケースが殆んどであり、特に秀吉の場合には相手から内誓紙を取っている事が多いようです。
 毛利方の家臣の殆んどが秀吉に内誓紙を書いていたと言う事は有名で以前に記事の中で引用しました。
 他の例でもわかるのですが秀吉はこうした内誓紙を相手から取る事に秀でていたように思えます。
 秀吉が中川清秀と内誓紙を交わした1580年と言うのは、荒木村重の反乱(1578年から1579年)のすぐ後です。
 当時において毛利攻めをしていた秀吉は荒木村重の反乱で背後を突かれる形となり、仮に毛利氏がその気になれば秀吉は挟み撃ちにされてもおかしくなかったわけで、秀吉にとって非常に恐怖な事だったのだろうと考えています。
 なので中川清秀には「もう二度と反乱に加わる事はしません」と誓約させる必要も有った為、その意味でも内誓紙を交わしたのだと思っています。
 信長や光秀を差し置いて内誓紙を交わすなどと言うのはどうかと思うかも知れませんが、内誓紙の内容は「友の誓い」なのでギリギリ許される範囲だったかと見えなくも有りません。
 そして1580年当時に於いては中国方面総司令官だった秀吉の方が中川清秀より立場が上だった事は明らかであり、常識的に考えて秀吉だけが中川清秀に内誓紙を提出したとは考えられません。
 ところでこの内誓紙ですが、秀吉と中川清秀と交わしていたのなら、高山右近とも交わしていたと考えて良いのではないでしょうか。
 何故かと言うと荒木村重の反乱の時には中川清秀と近縁の高山右近がセットで行動していたからです。
 なので秀吉が中川清秀だけと内誓紙を交わした、とは考えにくい、と言う事になります。
 少なくとも畿内ではキリシタン武将の筆頭だった高山右近が、もし秀吉と内誓紙を交わしていた・・・つまり誓いをしていた・・・のにその誓いを破って秀吉と敵対する明智方に加勢すると言う事は最初から有り得なかったのではないか、と言う事になって来ます。
 イエズス会がこのあたりを把握していたと仮定すると、これまで当ブログで記事にしたイエズス会が山崎の戦い前後で残したやりくりの記録が更に納得出来て来ますが、真相は果たしてどうだったのでしょう。