本能寺の変の直後から山崎の戦いに至る期間において四国の長宗我部氏が特に目立つ行動をしていないのが調べていて気になりました。
仮に明智光秀が計画的に信長を討つつもりであったなら、それが例え5月中旬からであったとしても四国の長宗我部元親元地下に連携を持ちかけ、それに対応する形で軍事行動を長宗我部氏が行った記録が有っても良いはずなのですが、それが有りません。
以前の記事で書きましたが、当時は梅雨であり、農繁期、つまり田植えの時期であったので、兵農分離が進んでいない一領具足方式を採っていた長宗我部氏は戦闘態勢がとれなかった、そしてそれを見越して信長も長宗我部討伐の進軍を計画したように考えられます。
ならば本能寺の変後から山崎の戦いに至る期間に長宗我部氏の援軍などを期待するのは無理であり、それも光秀はわかっていただろうと思われます。
ならばこの時期に信長を討つのは光秀ならば考えない、と言う事なのかと思えますし、そして光秀が信長を討ったカタチになってしまた以上であっても長宗我部氏に大規模な援軍は期待しなかったはずとなります。
しかし農繁期の長宗我部氏であっても直属の少数精鋭部隊は持っていたはずであり、更に当時の長宗我部氏の所領について画像検索してみると、どうも鞆の近くの四国陸地は長宗我部氏の勢力範囲だったようで、それならばこれら直属の少数精鋭部隊や金で釣った水軍、漁師らを動員して足利義昭を鞆から脱出させ、四国の長宗我部氏領経由で上洛させる手順が有っても良かったはずなのですが、そのような動きが有った記録さえも無かったようです。
これが何を意味するのかといえば、それは「明智光秀は事前に長宗我部氏と連携を取っていなかった」と言う事であり、そしてそれが更に意味する事とは「本能寺の変は明智光秀の想定外で発生してしまった」と言う事だったのではなかったのか、と考えています。
仮に明智光秀が計画的に信長を討つつもりであったなら、それが例え5月中旬からであったとしても四国の長宗我部元親元地下に連携を持ちかけ、それに対応する形で軍事行動を長宗我部氏が行った記録が有っても良いはずなのですが、それが有りません。
以前の記事で書きましたが、当時は梅雨であり、農繁期、つまり田植えの時期であったので、兵農分離が進んでいない一領具足方式を採っていた長宗我部氏は戦闘態勢がとれなかった、そしてそれを見越して信長も長宗我部討伐の進軍を計画したように考えられます。
ならば本能寺の変後から山崎の戦いに至る期間に長宗我部氏の援軍などを期待するのは無理であり、それも光秀はわかっていただろうと思われます。
ならばこの時期に信長を討つのは光秀ならば考えない、と言う事なのかと思えますし、そして光秀が信長を討ったカタチになってしまた以上であっても長宗我部氏に大規模な援軍は期待しなかったはずとなります。
しかし農繁期の長宗我部氏であっても直属の少数精鋭部隊は持っていたはずであり、更に当時の長宗我部氏の所領について画像検索してみると、どうも鞆の近くの四国陸地は長宗我部氏の勢力範囲だったようで、それならばこれら直属の少数精鋭部隊や金で釣った水軍、漁師らを動員して足利義昭を鞆から脱出させ、四国の長宗我部氏領経由で上洛させる手順が有っても良かったはずなのですが、そのような動きが有った記録さえも無かったようです。
これが何を意味するのかといえば、それは「明智光秀は事前に長宗我部氏と連携を取っていなかった」と言う事であり、そしてそれが更に意味する事とは「本能寺の変は明智光秀の想定外で発生してしまった」と言う事だったのではなかったのか、と考えています。