快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 秀吉方の軍勢に三好氏の軍勢が合流できた背景を考える

2019-07-14 17:48:23 | 明智光秀
 先ほど書いた前回記事の続きです。
 四国に有った三好氏の軍勢がかなりの規模で四国から離れられたと個人的には考えているのですが、その後、淡路を経由して各ルートを使って山崎の戦いのエリアに到着したと思われます。
 有る程度の割合は尼崎、西宮あたりで秀吉の「中国おお返し」の軍勢と合流、或いは疲れた兵からバトンタッチに近い状況でリレーしたものと考えています。
 三好氏の軍勢勢が淡路を経由してからのルートは必ずしも「中国おお返し」の軍勢と合流した部隊だけではなく、別ルートで堺の信孝勢と合流した部隊、そしてもしかするとその他のルートで山崎の戦いの地に辿りついた部隊も有ったかも知れません。
 しかしそのあたりの経緯は封殺され、その後に秀吉が政権を取ってからは自分のカリスマ性を強調する為に作られた偽情報を拡散し、その結果があたかも秀吉の部隊が単独で「中国おお返し」と言う優れた決断と移動手段により山崎の戦いに勝てたと言う記録としてだけ残った、と言う事なのだろうと考えています。
 ところでこの三好氏の軍勢と武器弾薬やその他物品ですが、四国を何故あれだけ軍事的空白にできたかの一要因については前回の記事で書きました。
 ただこれ以外にも要因は有ったように思われます。
 それは長宗我部氏が「一領具足」と言う兵量分離していない体制が強かった事です。
 本能寺の変は6月2日。
 これは旧暦ですので西暦では6月20日だったようですが、それから10日間とは農民にとっては田植えの重要な時期にあたります。
 当時「一領具足」と言う方式が主体の長宗我部氏は兵農分離があまり進んでいなかったはずで、この時期は戦闘に動員できる兵が足りない時期でもあったはずです。
 信長がこの時期に四国攻めを決行しようとしたのもやはり田植えの時期であり、長宗我部氏の「一領具足」による兵力では多分手薄な期間なのだろうと言う目論みが有ったのだろうと思われます。
 それでは四国北東部が所領だった三好氏はどうだったのか? と言えば、三好康長は信長が背後に有ったわけで、「兵農分離」方式で成功して来た信長の方式が割合として当然高かったと考えられます。
 なので田植えの時期であっても三好氏の軍勢は簡単に四国を離れて移動できるわけで、これが秀吉の軍勢に合流し、(それが名目上は秀吉の「中国おお返し」の軍勢とされようが、或いは信孝勢で残った軍勢とされようが)実際に槍や刀、弓、鉄砲などを使える兵として、山崎の戦いではかなりの戦力になっていた可能性は十分高かったと考えています。
 

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 秀吉の「中国おお返し」に見られる多くの仕組み

2019-07-14 15:33:06 | 明智光秀
 明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因は様々有るのですが、その大きな要因の一つが秀吉による「中国おお返し」だった事は既に知られている通りです。
 この「中国おお返し」の少なからぬ部分が「トコロテン方式」であったと考えている事は以前に記事で書いた通りです。
 おそらく疲れてきた秀吉軍の特に兵については、バトンタッチ方式で宇喜多氏やそこから東の織田方勢力圏にい将兵、軍事物資や食料、或いは農民や町人まで動員して数を合わせたのではないかと考えています。
 刀や槍などを使えない農民や町人だって、物資輸送や見張り、火縄銃から守る竹束を運んだり支えたりするくらいは出来ますからね。
 とりあえず数だけでも確保すれば、外見上は圧倒的な兵力に見えてしまうわけで、これで秀吉方に加勢する諸武将が有ってもごく自然な事かと思えます。
 そしてトコロテン方式ではないのですが、調べて見ると実は秀吉勢に合流できる部隊が有ったと考えられます。
 それは三好康長の所領にいた将兵や、そこに有った軍事物資や食料です。
 当時の四国は北東エリアを三好氏が、それを囲むように広く長宗我部氏が所領としていました。
 そして本能寺の変の前、既に長宗我部元親は信長に恭順する旨の書状を斉藤利三に送っている事から、既に信長が健在である限りは織田勢に反抗する意志は無かった事になり、そうすると仮に本能寺の変で信長が討たれたとしてもその信長の首が見つからず、更に信孝らは健在だった事などから直ちに反旗を翻すような事はしないはずです。
 それで考えられる事は三好康長の将兵、軍事物資が淡路経由で秀吉の部隊と合流すべく、長宗我部との間で和睦などもせずに四国から例えば5千位の将兵が抜けて四国での軍事力が空白化し、それが長宗我部側にわかってしまったとしても四国に残った三好方の十河存保勢らを長宗我部勢がすぐに攻撃するような事はしないだろう、と言う見通しが有ったのだと考えられるのです。
 長宗我部氏が四国に残った三好方の十河存保らを攻撃したのは1582年8月の中富川の戦いからですから、少なくとも6月中は様子見に徹していた事になります。
 山崎の戦いで妙に秀吉方の兵力が多かったのは、こうした三好氏などからの合流部隊も少なからず有り、移動も比較的楽だったので戦力になる位に体力は温存できた、と言う状況は十分に考えられると思っています。