先ほど書いた前回記事の続きです。
四国に有った三好氏の軍勢がかなりの規模で四国から離れられたと個人的には考えているのですが、その後、淡路を経由して各ルートを使って山崎の戦いのエリアに到着したと思われます。
有る程度の割合は尼崎、西宮あたりで秀吉の「中国おお返し」の軍勢と合流、或いは疲れた兵からバトンタッチに近い状況でリレーしたものと考えています。
三好氏の軍勢勢が淡路を経由してからのルートは必ずしも「中国おお返し」の軍勢と合流した部隊だけではなく、別ルートで堺の信孝勢と合流した部隊、そしてもしかするとその他のルートで山崎の戦いの地に辿りついた部隊も有ったかも知れません。
しかしそのあたりの経緯は封殺され、その後に秀吉が政権を取ってからは自分のカリスマ性を強調する為に作られた偽情報を拡散し、その結果があたかも秀吉の部隊が単独で「中国おお返し」と言う優れた決断と移動手段により山崎の戦いに勝てたと言う記録としてだけ残った、と言う事なのだろうと考えています。
ところでこの三好氏の軍勢と武器弾薬やその他物品ですが、四国を何故あれだけ軍事的空白にできたかの一要因については前回の記事で書きました。
ただこれ以外にも要因は有ったように思われます。
それは長宗我部氏が「一領具足」と言う兵量分離していない体制が強かった事です。
本能寺の変は6月2日。
これは旧暦ですので西暦では6月20日だったようですが、それから10日間とは農民にとっては田植えの重要な時期にあたります。
当時「一領具足」と言う方式が主体の長宗我部氏は兵農分離があまり進んでいなかったはずで、この時期は戦闘に動員できる兵が足りない時期でもあったはずです。
信長がこの時期に四国攻めを決行しようとしたのもやはり田植えの時期であり、長宗我部氏の「一領具足」による兵力では多分手薄な期間なのだろうと言う目論みが有ったのだろうと思われます。
それでは四国北東部が所領だった三好氏はどうだったのか? と言えば、三好康長は信長が背後に有ったわけで、「兵農分離」方式で成功して来た信長の方式が割合として当然高かったと考えられます。
なので田植えの時期であっても三好氏の軍勢は簡単に四国を離れて移動できるわけで、これが秀吉の軍勢に合流し、(それが名目上は秀吉の「中国おお返し」の軍勢とされようが、或いは信孝勢で残った軍勢とされようが)実際に槍や刀、弓、鉄砲などを使える兵として、山崎の戦いではかなりの戦力になっていた可能性は十分高かったと考えています。
四国に有った三好氏の軍勢がかなりの規模で四国から離れられたと個人的には考えているのですが、その後、淡路を経由して各ルートを使って山崎の戦いのエリアに到着したと思われます。
有る程度の割合は尼崎、西宮あたりで秀吉の「中国おお返し」の軍勢と合流、或いは疲れた兵からバトンタッチに近い状況でリレーしたものと考えています。
三好氏の軍勢勢が淡路を経由してからのルートは必ずしも「中国おお返し」の軍勢と合流した部隊だけではなく、別ルートで堺の信孝勢と合流した部隊、そしてもしかするとその他のルートで山崎の戦いの地に辿りついた部隊も有ったかも知れません。
しかしそのあたりの経緯は封殺され、その後に秀吉が政権を取ってからは自分のカリスマ性を強調する為に作られた偽情報を拡散し、その結果があたかも秀吉の部隊が単独で「中国おお返し」と言う優れた決断と移動手段により山崎の戦いに勝てたと言う記録としてだけ残った、と言う事なのだろうと考えています。
ところでこの三好氏の軍勢と武器弾薬やその他物品ですが、四国を何故あれだけ軍事的空白にできたかの一要因については前回の記事で書きました。
ただこれ以外にも要因は有ったように思われます。
それは長宗我部氏が「一領具足」と言う兵量分離していない体制が強かった事です。
本能寺の変は6月2日。
これは旧暦ですので西暦では6月20日だったようですが、それから10日間とは農民にとっては田植えの重要な時期にあたります。
当時「一領具足」と言う方式が主体の長宗我部氏は兵農分離があまり進んでいなかったはずで、この時期は戦闘に動員できる兵が足りない時期でもあったはずです。
信長がこの時期に四国攻めを決行しようとしたのもやはり田植えの時期であり、長宗我部氏の「一領具足」による兵力では多分手薄な期間なのだろうと言う目論みが有ったのだろうと思われます。
それでは四国北東部が所領だった三好氏はどうだったのか? と言えば、三好康長は信長が背後に有ったわけで、「兵農分離」方式で成功して来た信長の方式が割合として当然高かったと考えられます。
なので田植えの時期であっても三好氏の軍勢は簡単に四国を離れて移動できるわけで、これが秀吉の軍勢に合流し、(それが名目上は秀吉の「中国おお返し」の軍勢とされようが、或いは信孝勢で残った軍勢とされようが)実際に槍や刀、弓、鉄砲などを使える兵として、山崎の戦いではかなりの戦力になっていた可能性は十分高かったと考えています。