これまでの記事でわかる通りですが、明智光秀は内誓紙を交わして相手の弱みを握る、と言う手口を秀吉の様に使わなかったようです。
明智光秀に関する内誓紙については少なくとも摂津衆に対してはどうも残っていないようなのでこのような見方となるのですが、ならば「実際は光秀も内誓紙を交わして相手を脅していたのではないか?」と言う考え方も有るのかも知れませんが、明確な事はわかりません。
ですが光秀はあまりそうした手口は使わなかった可能性が高いと考えています。
それは「光秀が人質をとっていなかったのが山崎の戦いの敗因である」、と言う旨の事をルイス・フロイスは書いているからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80#cite_note-111
フロイスは本能寺の変の後、摂津国に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている[注釈 26]。
(中略)
26.^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[85]
引用終了
「内誓紙を交わして相手の弱みを握る」と言うのは相手から人質を取るのとほぼ同じなわけであり、「内誓紙」か「人質」のどちらにしても明智光秀は敢えて実行していなかったらしいようです。
そして一方では秀吉は少なくとも中川清秀と「内誓紙を交わして相手の弱みを握る」事をしていたようなのであり、結局これが明智光秀には致命傷になったのではないでしょうか。
そして細川忠興には光秀の娘である玉(ガラシャ)が嫁いでいたのですが、これって実際には「細川藤孝・忠興親子に光秀が人質を出していた」、と言う事でも有るわけです。
光秀は細川親子に人質を差し出しておきながら、人質を取っていなかった、だから堂々と細川親子に中立を宣言されてしまった、と言う事にもなるわけです。
そして筒井順慶からも人質は取っていませんでした。
「人質を取る」と言うのが汚い方法と考えればそうかもしれませんが、内誓紙と言う人質同様のものを取って自分に強制的に加勢させると言うのもそれに近いものだったのではないでしょうか。
ですが人質を取るのとは違い、内誓紙を取ると言うのは表面に出て来にくい事、そしてよりソフトなイメージでありながら実際は人質と同様な効果が有るわけで、これが秀吉の多用した「先端兵器」だったのかも知れないと思っています。
明智光秀に関する内誓紙については少なくとも摂津衆に対してはどうも残っていないようなのでこのような見方となるのですが、ならば「実際は光秀も内誓紙を交わして相手を脅していたのではないか?」と言う考え方も有るのかも知れませんが、明確な事はわかりません。
ですが光秀はあまりそうした手口は使わなかった可能性が高いと考えています。
それは「光秀が人質をとっていなかったのが山崎の戦いの敗因である」、と言う旨の事をルイス・フロイスは書いているからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80#cite_note-111
フロイスは本能寺の変の後、摂津国に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている[注釈 26]。
(中略)
26.^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[85]
引用終了
「内誓紙を交わして相手の弱みを握る」と言うのは相手から人質を取るのとほぼ同じなわけであり、「内誓紙」か「人質」のどちらにしても明智光秀は敢えて実行していなかったらしいようです。
そして一方では秀吉は少なくとも中川清秀と「内誓紙を交わして相手の弱みを握る」事をしていたようなのであり、結局これが明智光秀には致命傷になったのではないでしょうか。
そして細川忠興には光秀の娘である玉(ガラシャ)が嫁いでいたのですが、これって実際には「細川藤孝・忠興親子に光秀が人質を出していた」、と言う事でも有るわけです。
光秀は細川親子に人質を差し出しておきながら、人質を取っていなかった、だから堂々と細川親子に中立を宣言されてしまった、と言う事にもなるわけです。
そして筒井順慶からも人質は取っていませんでした。
「人質を取る」と言うのが汚い方法と考えればそうかもしれませんが、内誓紙と言う人質同様のものを取って自分に強制的に加勢させると言うのもそれに近いものだったのではないでしょうか。
ですが人質を取るのとは違い、内誓紙を取ると言うのは表面に出て来にくい事、そしてよりソフトなイメージでありながら実際は人質と同様な効果が有るわけで、これが秀吉の多用した「先端兵器」だったのかも知れないと思っています。