快気分析

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仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 戦いを描いた合戦屏風絵の謎

2019-07-15 13:12:13 | 明智光秀
 山崎の戦いを調べていると不可解な事が次々と出て来て、これ程不可解な合戦は稀ではないかと思える位です。
 その一つですが当時の合戦を後に描いた合戦屏風絵などの絵図です。
 「山崎の戦い 合戦屏風絵」「山崎の戦い 絵」などでネット検索すると多くの絵が出て来ます。
 これらは江戸時代に書かれたものなので当然正確でないのはわかるのですが、それでもせめて「馬防柵」や「竹束」位は当時に野戦では既に使われていたなずなので描かれていてもよさそうですが、調べた範囲では絵図の中ではそうしたものが見当たりません。
 明智光秀ならば長篠の戦い使われて効果が大きかった「馬防柵」、そしてその後の戦闘で使われ出した「竹束」を使わなかった事はないはずなのです。
 一体どう言う事なのでしょうか?
 一つ考えられるのは山崎の戦いを描いた古文書や絵図の殆んどが江戸時代に書かれたものであり、史実を伝えると言うよりも、「どれだけ売れて儲かるか」で書かれた「フィクション」と言う面が有ったのではないか?と言う事です。
 次に考えられる事は、仮にこの絵図が実際の戦闘にかなり近いものだったとした場合、これが何を示すのかとなると、ここを光秀は戦場にするつもりが無く、後方の待機所位に考えていた所、突然のように秀吉方やそれに加勢した武将らが襲い掛かった、と言う事になるのかと思えてしまします。
 今川義元が桶狭間の戦いで能を舞っていた所を織田勢が急襲した、と言うにやや似ていると言う見方です。
 そして更に考えられる事はと言うと、「馬防柵」を用意、構築する時間も無かったのではないか? と言う事になるのですが確かにそれも有るかも知れません。
 ですがそれなら竹束くらいは描かれていても良さそうなものです。
 謎めいた多くの絵図は一体何を表しているのでしょうか。