知的障害のある同僚から、嵐が来る前に摘み取ったからと渡されたコスモス。雨風の吹き込む小さな部屋で、握りしめながら息絶えた短い男の一生。そんな人生でもすばらしき世界の一片だと思えればこの作品に寄り添える。
一般的に刑務所暮らしをしたことがある人間には偏見が付きまとう。額面上は刑期を終え罪を償ったのだからリセットされなければいけない。それでも世間はそんなに寛容ではないし、わたくし個人的にもよっぽどその人となりを理解していなければ近寄ろうとは思わない。
統計的によく言われるように、一度罪を犯した人の再犯率は高いようだ。世間に疎まれる孤独感からくる再犯もあるだろうけど、根本的にはその人そのものの資質だと思う。殆どの人は思い通りにならなくとも我慢し努力して生きている。そんな些細な事が出来ず他人に迷惑かけるなら、何らかのペナルティを課せられても仕方がないことだ。前提として犯罪を犯した人の更生を信じないわけではないが、我がことの様に親身になる事は出来ないというのが本当の気持ち。
今度こそ真人間になるのだと固い決意で出所した男に待ち受ける冷たく高い壁。それでも、保護司夫婦(この人たちは分かったうえで面倒見ているんだから当たり前か)やケースワーカー(これも仕事ではある)スーパーの店長、ノンフィクションライター等が差し伸べる温かい手によって生きてゆく一歩を掴んだかに思ったのだが・・・
人と人の繋がりはそんなに捨てたもんじゃないよと肯定的に解釈したけれど、一連の西川美和作品に潜む悪意みたいなものも垣間見えるのだ。
保護司だって可愛い孫が遊びに来ていれば、面倒臭い男の相談にいちいちのってはいられない。入所前に所帯を持っていた妻は別の家庭を作って小学生の娘さえいる。生き別れた母親を探す番組との前振りだったテレビ制作者は、男の暴力を写すことで視聴率が取れると目論んでいる。
粗野で狂暴な性格だけど正義感が強いって、相反するようだけど役所広司が演じれば同じ町内会には一人くらいいるように錯覚するから凄いもんだ。介護の仕事仲間が知的障害者を虐めるシーンが最後にやってくるけど、今までなら正義感で暴れまわっただろうに、世間的な普通の人として見なかったことにする。そうにして自分の居場所を確保することで、自分より弱い誰かを隅に追いやる。切ないけどこれも現実。
手放しで褒めていいばかりじゃないのは、長澤まさみ演じる視聴率第一主義のテレビ制作者を何故もっと厭らしく描かなかったのか。安田成美演じる元妻は安心して自分の娘をヤクザ上がりの男に会わせることができるんだろうか。階下に住む外国人労働者との接点も薄味で拍子抜けだ。西川監督作品の悪意を前述したけど、この辺をもう少しダークに観せて欲しかった。
最後になるが、同時期に公開されている「ヤクザと家族」との設定が類似していると意見されている。確かに良く似た内容でどちらも秀作だから比較したくなる気持ちはわかる。
わたくしはどちらかと言えば、役所広司主演の今村正平監督作品「うなぎ」を思い浮かべていた。浮気していた妻を刺し殺し服役していた男が、獄中で身に付けた技術を活かし辺鄙な町で床屋を営み、保護司はじめ近隣の人々と馴染む中で愛する女と出会い再生してゆこうとする話だ。世界的な巨匠の作品(パルムドール受賞作でもあるし)と比べるのは酷かもしれないが、西川監督にもこんな映画にしてもらいたかったとの思いもある。
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