中学時代の友人がパキスタンのカラチで自殺した。自殺した友人の妻から見せられた友人当ての手紙は中学時代に転向していった美少女米花(よねか)からのものであった。
「月光の東まで追いかけて」
手紙に記されたその言葉は、中学生だった米花の口から聞いたものだった。
男と友人の妻は、それから別々に米花を追うことになる。
彼らは、米花を追いながら、少しずつその波乱に満ちた人生の断片を見ていくことになる。
この小説の構成の面白いところは、米花と言う女を描きながら、それは人づてに聞いた話のつなぎ合わせであるところだ。おぼろげな人物像は、像を結びそうで結ばず、わかりそうで解らない。
「月光の東」とは何なのか、それすらもはっきりせずに終わる。
人は、人を、他人が見た人の断片をつなぎ合わせるレベルでしか理解できないのであるから、それこそが真の人物像なのかもしれない。
「月光の東」とは、読者がそれぞれの人生から思い浮かべる像そのものが正解であろう。
自分が考えた「月光の東」は次のようなものだ。
6歳の米花が、本当の父親と1晩過ごした糸魚川の農具小屋で感じた安楽の地ではなかっただろうか。糸魚川の農具小屋は、東斜面に立っているはずだし、そこから月を見れば、月光は西から東を照らす。そこ(月光の東側)には米花を包んで安楽を与えていた父がいたはずである。
仮の両親の愛情を、障碍者の妹にゆずり、少女時代を過ごした米花にとって、ほんとうの父が与えてくれた一晩の安楽こそが月光の東であったと思うのだ。
と言うように、小説の人物を深く考えてしまうのは、作者の術中にまんまとハマってしまったと言うことだ。