AKB48の原点回帰というか、昔よく聴いたような楽曲だ。
イントロのギターは『言い訳Maybe』に似たフレーズがあるし、ソロの歌い出し部分は『大声ダイアモンド』のようだ。全体としても、素直に気持ちを伝えようといった『会いたかった』の世界観だ。
踏切の向こうにいる彼女に「好きだ」と叫ぶのは、松田聖子『夏の扉』で道路の向こう側から彼が「好きだよ」と叫んでいる場面を想起させられる。
2番の「もし君と出会わず生きていたなら どこを歩いているだろう」という仮定法は、麻丘めぐみ『芽ばえ』の「もしもあの日あなたに会わなければ この私はどんな女の子になっていたでしょう」という歌い出しへのオマージュだ。
そうした古典的なアイドルソングの系譜を踏むクラッシックな楽曲なのだ。
この曲を何回もリピートで聴きながら、今一つ盛り上がれない自分に気が付いた。
なぜ今、この歌なのだろう。そんな気がしてしまった。
かつてどこかで聴いたような曲であっても、今日的なときめきが感じられればそれでいい。
AKB48を17年続けてきて、彼女たちは様々な楽曲を歌ってきた。メンバーもどんどん入れ替わる中、以前歌ったような楽曲を歌ってももちろん何の問題も無い。むしろ、青春の「ときめき」と「じたばた」というような永遠のテーマを巡り、同じような内容の歌を、少しずつ変化を付けながら歌い続けてきたのがAKBグループなのだと言える。
何より踏切越しの片思いという同じ状況を歌ったSKE48『初恋の踏切』という歌まであるのだ。
同じような歌に、以前のようなときめきを感じなくなったのは、私の方に問題があるのかもしれない。
10年以上前から聴き続けているファンはもはや少なく、乃木坂とか別のグループにシフトするか、アイドルファンをやめてしまっているのかもしれない。『どうしても君が好きだ』は、そんなオールドファンなど眼中になく、今のテーンエイジャー達に向けた楽曲なのかもしれない。たぶん、そうだ。
それでも、目新しくてちょっと耳を引くのは、1番のサビ部分の歌詞の乗せ方だ。
「ずっと言いたかった 僕の想いよ」の「ぼくの おもいよ」が、音符が足りないので「ぼ・く・のお・も・い・よ」と当てはめている。「の」と「お」で1音使うのだが、母音が同じなので歯切れが悪く聞こえる。
続く「通り過ぎる電車に かき消されたって」の「とおりすぎるでんしゃ」は、「とおりすぎーるでんしゃ」と乗せているので「るで」が忙しい。
これらはきっとわざとそう乗せていて、聴いた時のちょっとした違和感を楽しませようとしているのだ。2番の同じ場所ではそういうことはなく、1音ずつ奇麗に乗っている。この趣向、私はあまり好きではないが、耳に残ることは事実で、楽曲の個性化には貢献しているだろう。
もう1つ気になるのが、エンディングだ。「生きている間にどけだけの踏切があるのだろう 言いたいことはどこからでもいいから叫べ」といったこの曲の要約を歌っている。私には蛇足に思えてならない。それでもメロディーが秀逸で、心揺さぶられるならそれでもいいが、何だか取ってつけたようなメロディーだ。私はこのパートは無くてもよかったと感じた。同じようなことを最近書いたなと思ったら、日向坂46『一生一度の恋』のエンディングにも似たような蛇足感を感じたのだった。
『一生一度の恋』だって、青春の一度限りの夏の恋を歌って、何度も歌い尽くされたテーマだ。だけど私は激しく心揺さぶられた。『一生一度の恋』と『どうしても君が好きだ』のどこに違いがあるのか、もう少し考えてみたい。
イントロのギターは『言い訳Maybe』に似たフレーズがあるし、ソロの歌い出し部分は『大声ダイアモンド』のようだ。全体としても、素直に気持ちを伝えようといった『会いたかった』の世界観だ。
踏切の向こうにいる彼女に「好きだ」と叫ぶのは、松田聖子『夏の扉』で道路の向こう側から彼が「好きだよ」と叫んでいる場面を想起させられる。
2番の「もし君と出会わず生きていたなら どこを歩いているだろう」という仮定法は、麻丘めぐみ『芽ばえ』の「もしもあの日あなたに会わなければ この私はどんな女の子になっていたでしょう」という歌い出しへのオマージュだ。
そうした古典的なアイドルソングの系譜を踏むクラッシックな楽曲なのだ。
この曲を何回もリピートで聴きながら、今一つ盛り上がれない自分に気が付いた。
なぜ今、この歌なのだろう。そんな気がしてしまった。
かつてどこかで聴いたような曲であっても、今日的なときめきが感じられればそれでいい。
AKB48を17年続けてきて、彼女たちは様々な楽曲を歌ってきた。メンバーもどんどん入れ替わる中、以前歌ったような楽曲を歌ってももちろん何の問題も無い。むしろ、青春の「ときめき」と「じたばた」というような永遠のテーマを巡り、同じような内容の歌を、少しずつ変化を付けながら歌い続けてきたのがAKBグループなのだと言える。
何より踏切越しの片思いという同じ状況を歌ったSKE48『初恋の踏切』という歌まであるのだ。
同じような歌に、以前のようなときめきを感じなくなったのは、私の方に問題があるのかもしれない。
10年以上前から聴き続けているファンはもはや少なく、乃木坂とか別のグループにシフトするか、アイドルファンをやめてしまっているのかもしれない。『どうしても君が好きだ』は、そんなオールドファンなど眼中になく、今のテーンエイジャー達に向けた楽曲なのかもしれない。たぶん、そうだ。
それでも、目新しくてちょっと耳を引くのは、1番のサビ部分の歌詞の乗せ方だ。
「ずっと言いたかった 僕の想いよ」の「ぼくの おもいよ」が、音符が足りないので「ぼ・く・のお・も・い・よ」と当てはめている。「の」と「お」で1音使うのだが、母音が同じなので歯切れが悪く聞こえる。
続く「通り過ぎる電車に かき消されたって」の「とおりすぎるでんしゃ」は、「とおりすぎーるでんしゃ」と乗せているので「るで」が忙しい。
これらはきっとわざとそう乗せていて、聴いた時のちょっとした違和感を楽しませようとしているのだ。2番の同じ場所ではそういうことはなく、1音ずつ奇麗に乗っている。この趣向、私はあまり好きではないが、耳に残ることは事実で、楽曲の個性化には貢献しているだろう。
もう1つ気になるのが、エンディングだ。「生きている間にどけだけの踏切があるのだろう 言いたいことはどこからでもいいから叫べ」といったこの曲の要約を歌っている。私には蛇足に思えてならない。それでもメロディーが秀逸で、心揺さぶられるならそれでもいいが、何だか取ってつけたようなメロディーだ。私はこのパートは無くてもよかったと感じた。同じようなことを最近書いたなと思ったら、日向坂46『一生一度の恋』のエンディングにも似たような蛇足感を感じたのだった。
『一生一度の恋』だって、青春の一度限りの夏の恋を歌って、何度も歌い尽くされたテーマだ。だけど私は激しく心揺さぶられた。『一生一度の恋』と『どうしても君が好きだ』のどこに違いがあるのか、もう少し考えてみたい。