goo blog サービス終了のお知らせ 
毎日、1000件以上のアクセス、4000件以上の閲覧がある情報発信ブログ。花や有機農業・野菜作り、市民運動、行政訴訟など
てらまち・ねっと



 各紙の1月1日の社説の続編、
 ユニークな信濃毎日新聞は <競争政策の限界> といい、
 同じく河北新報は、「ワーキングプア(働く貧困層)の言葉に象徴されるように、拡大する一方の格差社会の現実がある」とする。

 昨年、小沢福田会談・連立の糸引きょ画策した渡辺氏の読売新聞は「問責決議などは、憲法にも国会法にもまったく根拠のない性格のものだ。内閣不信任決議とは、およそ重みが違う。 衆院の任期は、あと2年近くある。解散・総選挙を急ぐ必要はない。」と衆議院選挙で負ける自民党の保護・擁護に走ったようだ。

 ここの地元・岐阜新聞は「各地のきれいな水や緑、空き家は都会人のスローライフ・定住の呼び水にできる。 地域で知恵を絞り、地域自ら挑戦する年にしたいものだ。」と結んだ。

 なお、社説を見るにはこんなページもある ⇒ 新聞コラム社説リンク  表の前半はコラム欄リンク、後半は社説欄にリンク。

人気ブログランキング→→←←ワン・クリック10点


社説 心豊かな未来のために 成熟の社会へ(1)  信濃毎日 1月1日(火)
 新年明けましておめでとうございます。2008年が始まった。

 年が改まるときよく引用される高浜虚子の句がある。〈去年(こぞ)今年貫く棒のごときもの〉

 ここ数年、いやバブルが崩壊してからの十数年、日本を「棒のごときもの」が貫いている。先の見えない閉塞(へいそく)感だ。

 去年もひどい年だった。相次ぐ食品偽装が企業倫理の低下を印象づけた。「経済は一流」神話はとうに崩れ去り、「いざなぎ」超えの景気といわれても実感はわいてこない。若者の雇用環境は相変わらず厳しい。自殺する人は一向に減らない。

 安倍晋三首相の突然の辞任、防衛省不祥事、年金記録不備問題…。日本はこの先どうなってしまうのか、暮らしは大丈夫か。そんな不安が社会に重くのしかかっている。



   <日本が小さくなる>

 閉塞感のよって来るところを掘り下げていくと、1つは、急速な少子高齢化にぶつかる。

 日本の人口は2004年12月をピークに、既に減少局面に入っている。人口減少は働き手が少なくなると同時に、国内市場が小さくなることを意味する。

 1947年から49年にかけて生まれた「団塊世代」のリタイアが、経済の縮小を一段と加速する。現役を退いた世代は預貯金を取り崩す暮らしに入る。国全体として貯蓄率が下がれば投資に回るお金も減っていく。成長率は下がる。

 この世代は高度経済成長の成果である豊かさとともに、つけを残して一線から退こうとしている。

 環境の制約もある。国連の科学者グループ「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」によれば、大気中の二酸化炭素(CO2)濃度を上げないためには排出量を半減させる必要がある。

 京都議定書により2012年までに90年に比べ、欧州連合(EU)が8%、米国が7%、日本は6%減らすことが義務付けられている。それだけでは温暖化の進行には追いつかないのだけれど、現状ではその目標さえ達成が危ぶまれている。

 われわれ日本人がこれまで通りの暮らしを続けられないのは、はっきりしている。財政事情や資源の制約を考えても、これからは低成長を前提に暮らしを考えるほかない。“身の丈”でいくしかない。

 「成熟の社会」へどうソフトランディングするか-。われわれがいま直面する最大の課題である。



   <競争政策の限界>

 約5年という異例の長い期間にわたって政権を担当した小泉純一郎元首相は、日本社会の課題に対し「構造改革による経済の活性化」を解答として打ち出してきた。具体的には民営化、規制緩和、競争原理の徹底などを内容とする新自由主義的な「小さな政府」政策だった。

 小泉政権が示した処方せんは、確かな効き目を表しただろうか。答えは「ノー」だ。

 地方税財政の三位一体改革にしろ郵政民営化にしろ、国民の暮らし、特に地方の暮らしを苦しい状況に追い込む結果を招いた。

 とりわけ労働政策だ。派遣労働の対象範囲拡大をはじめとする規制緩和によって、働く環境は不安定になった。今では働く人の3人に1人が、パート、アルバイトなど不安定な雇用形態で働いている。年金未納が減らないのは、若者が十分な収入を得られず、年金どころでなくなっていることも大きい。

 小泉政権の5年間で、日本は余裕のないギスギスした雰囲気になってしまった。社会を成り立たせてきた「連帯」「思いやり」といった価値観は色あせてしまった。

 小泉首相の退陣を受けて登場した安倍首相は、基本的に競争政策を引き継ぎつつ、そこに「美しい国」に象徴される復古調の政治路線を接ぎ木しようとした。その結果の参院選敗北・退陣である。

 小泉・安倍政権の合わせて6年間。実に騒々しい6年間だった。社会に亀裂も広がった。



   <軟着陸の条件は>

 福田康夫首相の役割は重要だ。亀裂を繕いつつ、人口減や成長率低下でパワーが落ちていく“日本丸”を転覆しないように、かじ取りしなくてはならない。

 福田首相は昨年秋の自民党総裁選では「自立と共生」のキャッチフレーズを掲げていた。自立と共生がどう両立し得るのか、分かりにくい。政権が目指すところは、就任から3カ月が過ぎた今でもまだ、はっきりとは見えてこない。

 日本を安心して暮らせる社会にするには、各面にわたる腰の据わった取り組みが必要になる。

 暮らしの基盤である地域、地方を元気にするのは大前提だ。対外的には、外交手腕を磨き上げて世界で一目置かれる存在を目指したい。

 環境の制約を考えれば、暮らしのスタイルの見直しは避けて通れない。政治の質の向上は無論、必要だ。社会的連帯の再構築は大事なポイントの1つになる。

    ×    ×   
 どうすれば日本を「成熟の社会」にできるか、6回続きで考える。

社 説
新年を迎えて/一人一人幸せと誇り探そう
  河北新報 2008年01月01日火曜日
 新しい年、2008年が幕を開けた。雪に見舞われながらも、元日の朝、神社で手を合わせ、この一年のお願い事をしたり、心温かい古里でお屠蘇(とそ)とお雑煮をいただき、家族だんらんのひとときを過ごしたりしている人が多いことだろう。
 一人一人の日々がつつがなく、そして、世の中が平和で戦争や暴力、災害がないことを、まずは祈念する。

  ◇  ◇

 年頭に当たり、人の幸せや誇りということについて考えてみたい。
 先日、仙台市青葉区五橋の地で、1873(明治6)年に創業し、大豆が乏しくなった戦後の一時期を除いて、130年余もお豆腐屋さんを続けている4代目のご主人にお話を伺う機会があった。

 お店の所在地は旧町名を上染師町と言い、周辺に清水小路、鹿子清水など水にまつわる名がある通り、井戸を掘れば透明で無臭の地下水がこんこんと湧(わ)き、豆腐づくりの適地だったとされる。

 60代半ばに達したご主人の豆腐づくりも、もう40年を超えた。仕事のバネになったのは、朝早く、作りたての豆腐を買い求めに来る町内の人たちがいたからだ。
 「おいしかった。軟らかくも、硬くもなく」。そんな言葉が何よりうれしい。

  ◇  ◇

 120円の木綿、絹ごしの手作り豆腐を350丁、それに、100円の油揚げ100枚ほどを作る毎朝だ。10時間前後、水に浸した大豆をグラインダーで挽(ひ)きつぶし、水と混ぜて100度ぐらいの釜で煮て5、6分。それを漉(こ)すと、豆乳とおからになり、豆乳ににがりを入れて出来上がりだ。
 大量生産、大量消費の時代が進み、製造が手作りから機械化するとともに、一つの町に何軒かは必ずあった豆腐屋さんはだんだん消えてしまった。

 それでも、家業を続けたのは、「おいしかった」というお客さんからの声をじかに聞きたかったからと言っても過言ではない。もちろん、家族を支えるためでもある。

 日々、ものづくりに努め、他人を喜ばす。もうけは少しあればいい。お話を聞くうちに、心が洗われ、幸せや誇りとは、こんな日常の片隅にあるのではと得心した。

  ◇  ◇

 昨年は、世相を漢字一つで表す年末恒例の「今年の漢字」に「偽」が選ばれてしまった。「食」や「嘘(うそ)」「疑」も上位にランクされた。

 大阪市の高級料亭船場吉兆や三重県伊勢市の老舗和菓子メーカー赤福などで相次いで発覚した食品偽装。業者から、接待ゴルフのみならず、現金まで受け取った前防衛事務次官に至っては、ここまで落ちたかと嘆かわしいばかりだ。

 しかし、偽装や汚職は極端なケースだとしても、その根底に、社会全体のモラルの低下や信頼の喪失があることも事実だろう。
 その原因の一つに経済至上主義、拝金主義が関係していると思うのは、小生だけか。

 生身の人の価値は金や地位で測れるほど単純なものではないはずだ。企業にしろ、株式の時価総額やキャッシュフローが唯一の物差しではないだろう。
 お豆腐屋のご主人がおっしゃるように、人はつながり、支え合い、社会とかかわって生きる宿命を背負わされているのだと思う。だから、「おいしかった」と褒められ、頼りにされることに感激するわけだ。

  ◇  ◇

 今、ひとたび国内に目を向けると、ワーキングプア(働く貧困層)の言葉に象徴されるように、拡大する一方の格差社会の現実がある。
 世界では、8億もの人が飢えに苦しんでいるという。各地で紛争も勃発(ぼっぱつ)、たくさんの命が奪われ、人間の尊厳が冒されている。

 行き過ぎた経済競争、もうけ第一主義が、弱肉強食の社会を生みだしたり、他人を許容しない国際紛争などの引き金になったりしていることは否定できない。

 こうした混沌(こんとん)とし、迷走を続ける時代だからこそ、それぞれの幸せと誇りはどこにあるのか追い求め、暮らしていくことが大切だ。
 なかなか答えは見つからず、呻吟(しんぎん)するだろうが、それを解く鍵は、コツコツと自分の仕事を掘り下げたり、地域の文化や伝統などを見直したりする中、足元の日常に、埋まっているかもしれない。
 個々の幸せや誇りが、思いやりや共生の気持ちにつながり、きっと「負の社会」を変える力になることを信じたい。

●多極化世界への変動に備えよ 外交力に必要な国内体制の再構築   2008年1月1日1時20分 読売新聞
 ◆唯一の超大国の揺らぎ◆
 どうやら、今、わたしたちは、世界の構造的変動のただ中にいるようだ。
 「唯一の超大国」とされてきた米国の地位が揺らぎ、多極化世界へのトレンドが、次第にくっきりしてきた。
 米国の揺らぎは、イラク戦争の不手際が招いた信頼感の減退によるものだけではない。より本質的な要因として、長らく世界の基軸通貨として君臨してきたドルの威信低下がある。

 欧州の単一通貨ユーロが着実に力を伸ばし、第2の基軸通貨としての地歩を築いている。原油高騰で巨額の金融資産を積み上げている中東産油国や外貨準備世界一の中国などは、その一部を徐々にドルからユーロへと移し始めた。
 やはり原油収入で潤うロシアは、国際政治上での「大国」復活を目指し、ソ連崩壊以来の対米協調路線から、対米対抗姿勢に転じた。

 他方では、中国がめざましい経済成長を続けている。早ければ数年以内にも日本を追い抜いて、世界第2の経済大国となる勢いだ。それと並行して軍事力をも急拡大しつつある。いずれは、軍事パワーとしても、米国に拮抗(きっこう)する一つの「極」をなすだろう。
 BRICsという言い方が出回り始めたのは、4年ほど前からだ。2050年のブラジル、ロシア、インド、中国の経済大国化を予測し、その頭文字を並べた造語である。
 それによると、あと40年ほど後の世界では、中国が世界一の経済大国となっており、米国が2位、中国に匹敵する人口大国インドが3位へと躍進している。

 ◆重さを増す対中外交◆
 最近では、メキシコがロシアより上位に来るとも予測されているが、いずれにしても、中国、インドという新たな「極」が出現し、日本の経済的存在感は大きく後退する。
 購買力平価で見ると、すでに1995年に中国は日本を追い抜き世界第2位、06年にはインドも日本を抜いて第3位になっているとの報告もある。
 世界のパワーバランスの変動過程には、さまざまな曲折、摩擦もあろうが、今後、日本にとっては、新たな「極」となりつつある中国との関係が、外交政策上、もっとも難しい重要な課題となるだろう。いわゆる「戦略的互恵関係」をどう構築していくかということである。

 しかし、日本外交の基軸が日米関係であり続けることには、変わりはない。中国との関係を適切に調整していくためにも、見通しうる将来にわたり、日米同盟を堅持していかなくてはならない。
 福田首相が、日米同盟関係とアジア外交の「共鳴」を掲げているのも、そうした判断からだろう。
 懸念されるのは、中国の興隆にともない、米国の日本に対する関心が低下するのではないか、ということだ。
 米大統領選挙に手を挙げているヒラリー・クリントン候補が、21世紀の2国間関係で「最重要」なのは中国だと述べたことが、話題を呼んでいる。

 ◆日米同盟基軸は不変◆
 だが、だれが次期大統領になるかにかかわらず、中長期的には、米国にとっても、経済・軍事巨大パワーとしての中国との関係が「最重要」課題になるのは、いわば、自然な成り行きだろう。
 そうした米国と、今後も、「最も重要な同盟国」としての関係を維持するためには、日本もこれまで以上のさまざまなチャンネルを通じての外交努力、あるいは相応の負担をする覚悟が要る。

 その対米外交にしても、中国・アジア外交その他にしても、機動的な日本外交展開の前提になるのは、国内政治の安定である。国内が混迷状態では、日本の対外的発言、約束も信頼性が薄れ、外交力が弱まってしまう。
 ところが、現在の日本は、衆・参院の与野党ねじれ状況により、内外にわたる重要政策について迅速な政治決定が困難になっている。新テロ特措法を巡る迷走は、その象徴である。

 内政上、喫緊の課題ともいうべき税財政改革も、ほころびの目立つ社会保障制度の抜本改革も、与野党の次期衆院選がらみの思惑で先送りされている。
 社会保障制度が持続する条件は、そのための財政的裏打ちがしっかりしていることである。社会保障費の伸びに見合うだけの財政収入増がなければ、いずれ財政が破綻(はたん)する。財政が破綻すれば、社会保障制度も破綻する。
 08年度政府予算案の社会保障費は、約22兆円、一般会計歳出の4分の1を占める。08年度以降も、高齢化に伴う自然増だけで毎年1兆円近い。他方で国の債務は年間税収の10倍以上に達してなお増え続け、利払い費だけでも9・3兆円に及ぶ。

 ◆危機の財政、社会保障◆
 財政上の見通しがつかない中で、政府は社会保障関係費の伸びを切り詰めてきた。だが、そうした手法を重ねた結果、年金制度の将来不安だけではなく、医療、介護などに至るまで“システム崩壊の危機”といった声が上がっている。
 こうした窮状を打開するには、国民全体が広く薄く負担を分かち合う消費税の税率を引き上げる以外に、現実的な財政収入増の方途はない。実は、そのことを与野党ともよく知っているはずだ。それなのに改革をためらっている。
 ドイツでは、現メルケル首相率いるキリスト教民主同盟が消費税(付加価値税)率引き上げを公約に掲げながら選挙で勝利したという近例がある。だれしも増税がうれしいわけはないが、ドイツ国民はそれが必要なことを理解した。

 ◆強い政治的意思を示せ◆
 日本国民も、その必要性、それによる福祉の将来像などを丹念に説明すれば、理解できないはずはない。
 福田政権が当面なすべきことは、内外に強い政治意思を示すことである。
 新テロ特措法案に限らず、外交上、財政上、あるいは国民生活上必要な政策・法案は、憲法に定められる「3分の2」再可決条項を適用して、遅滞なく次々と断行していくべきである。
 野党の問責決議を恐れる理由は、まったくない。「3分の2」再可決は憲法に明記されているルールだが、問責決議などは、憲法にも国会法にもまったく根拠のない性格のものだ。内閣不信任決議とは、およそ重みが違う。
 衆院の任期は、あと2年近くある。解散・総選挙を急ぐ必要はない。
 もちろん、政策・法律の断行に際しては、国民に対する丁寧な説明を怠ってはならない。


社説 年の初めに、県内の地域再生  地域の文化を手がかりに   岐阜新聞 2008年 1月 1日
 2008年が明けた。昨年の世相を表す漢字は「偽」だった。けしからんと国民は怒ったが、裏を返せばより透明性の高いルール社会を求めている証しである。看板よりも中身が肝心な時代なのだ。その地域に暮らす人たちの笑顔が満ちあふれ、誠意や真心が伝わる、そんな1年でありたいものだ。

 ことしはどんな1年になるのか。政治では衆院の解散・総選挙の可能性は高く、結果次第で「政界再編」という新たな展開が想定できないわけではない。経済は米国のサブプライムローン問題、原油高などの影響で景気の上向きは期待薄だ。

 国際関係は緊張をはらむが、日中関係は年末の首脳会談で「春を迎えた」(福田康夫首相)。省エネ・環境対策、4000人の青少年交流を進め、東シナ海のガス田開発問題の解決を目指す。北海道洞爺湖サミットや北京五輪が開催されることしを「日中関係飛躍の年」とすることで一致した。

 地方はどうか。大都市と地方、地域間の「格差」は縮まりそうにない。山間地は少子高齢化によって過疎化に拍車が掛かり、集落機能の維持が困難な「限界集落」が増えている。地場産業は元気がなく、中心市街地のシャッター通りはいい例だ。

 地方分権を進める三位一体改革で税源移譲は行われたが、補助金・地方交付税の減額はそれを上回る。「平成の大合併」で、面積が広くなりすぎて行政サービスが手厚く行き渡らない地域の不満は半端ではない。むしろ格差拡大の勢いが増し深刻だ。

 県内でも似た地域は少なくない。こうした問題を抱える自治体ではこれまで、いろいろ対策を試みてきたが、状況は変わっていない。地方の実態を熟知していない国の役人が考えた政策や補助金制度にぶら下がってこなかったか。反省してみる必要がある。

 手をこまねいていても地域は疲弊、衰退していく。かつてそこに住む人々が生き生きとしていた地域を取り戻すことができないか。特効薬はないが、愚痴を言ったり、人のせいにしたり、事なかれ主義をやめ、ピンチをチャンスと受け止める気概を持ちたい。

 そこで提案―。地域の「文化」に目を向けたい。公共事業では地域は潤わない。これまでの政策を見れば明らかだ。自然、歴史的建造物、地場産品、民俗芸能、地域に根付いたイベントなどを地域資源と位置付け、磨きをかけて地域再生の手掛かりにしたい。

 なぜ「文化」なのか。地域に根ざした文化は、その地域に暮らす人たちの「アイデンティティ」である。地域を持続的に生き生きさせていくためには「地域からの発想・やる気」がカギとなり、ほかではまねのできない文化がその源になる。

 今夏、東海北陸自動車道が全線開通する。沿線の地域文化をつなげば一大文化ゾーンになる。高山市が「飛騨高山の町並みと祭礼の場」、郡上市などが「霊峰白山と山麓(ろく)の文化的景観」で世界遺産登録を目指して再挑戦する。

 2日間で10万人強の観光客を呼び込めるようになった「美濃和紙あかりアート展」の優秀作品を商品化して売ったらどうか。各地のきれいな水や緑、空き家は都会人のスローライフ・定住の呼び水にできる。

 地域で知恵を絞り、地域自ら挑戦する年にしたいものだ。 



コメント ( 0 ) | Trackback ( )




 1月1日の各新聞社の社説。
 中日新聞と系列の東京新聞は貧困問題。今年の争点の一つを示していると思う。

 朝日新聞は、「今年もまた、穏やかならぬ年明けだ」と始めて、「今年、政治の歴史に大きな節目を刻みたい」と結ぶ。

 毎日新聞は「08年を考える 責任感を取り戻そう」とし、「討論の場といえば議会であり政党だ」。

 やはり政治の責任は重い。

 なお、社説を見るにはこんなページもある ⇒ 新聞コラム社説リンク  表の前半はコラム欄リンク、後半は社説欄にリンク。

人気ブログランキング→→←←ワン・クリック10点


●【社説】「反貧困」に希望が見える 年のはじめに考える 2008年1月1日   中日新聞 2008年1月1日 
 グローバル化のなかで貧困層の増加に歯止めがかかりません。貧困問題に向き合い、若年層への有効な手だてを講じないかぎり、日本の未来が語れません。
 昨年暮れ、東京にワーキングプアの若者たちの小さな互助会組織が生まれました。
 「反貧困たすけあいネットワーク」。パートやアルバイト、派遣の低賃金長時間労働に疲れ果て、体を壊したり、一日の生活費を二百円に限定したり、「ケーキを食べること」や「アパートを借りること」が夢だったりする若者が支え合い、明日へ向かって自立していくための組織。

 広がるワーキングプア
 会設立の中心になったのがNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠事務局長と「首都圏青年ユニオン」の河添誠書記長の二人。千人以上の生活保護申請に付き添った湯浅さんと労働の悩み相談に乗る河添さんの体験・経験から構想された役立つ組織。ゆるやかな連帯が目指されているようです。
 「休業たすけあい金」「生活たすけあい金」が目玉の制度。一カ月三百円の会費を六カ月以上納めると病気やけがの際に一日千円最長十日の補償が受けられたり、無利子の生活資金一万円が借りられたり。

 消費者金融や貧困ビジネスの被害者にならないための情報メールや独りで落ち込まないために、月に一度は「若者カフェ」が開店します。
 二〇〇二年から六年連続の景気拡大がありました。が、各統計が示したのは裏腹の貧困の広がりでした。

 ワーキングプア層とも呼べる年収二百万円以下が千二十三万人(〇六年)。二十一年ぶりの一千万人突破で、相対的貧困率(平均所得の半分に満たない人の比率)はOECD諸国中、米国に次いで世界二位。

 生活保護受給者の百五十一万人と国民健康保険の滞納は四百八十万世帯で過去最高記録。母子家庭や高齢者世帯だけでなく一家の大黒柱も、だれもがワーキングプアと背中合わせになっていました。

 国が未来を育てる番だ
 若年層に絞ると、四人に一人が非正社員で、三人に一人は年収は百二十万円ほどとの調査も。パート・アルバイト男性の四人に三人が親元に身を寄せて、結婚は極めてまれ。正社員だからといって恵まれているというわけにはいかず、全力投球の長時間労働を強いられる過酷さです。

 若者たちの無職や低賃金が個人の資質や努力の足りなさでなく、経済社会システム問題や大変革時代との遭遇に由来していて不運です。

 IT(情報技術)革命を伴って加速化した経済のグローバル化がもたらしたのは、下方スパイラル現象。低価格、低賃金へ向けての激烈な競争で、日本の最低賃金も中国やインド、ベトナムやタイなど国境の壁を超えた闘いになりました。
 グローバル競争の勝者は一部の大企業で労働者の七割を占める中小企業に恩恵はなく、〇六年の全産業の経常利益は五十四兆円。十年前の倍ながら、全雇用者の報酬は6%減で残業時間も増となるところに一部の勝者と大多数の敗者の法則が貫かれています。法改正で派遣労働が人件費節約や雇用調整になってしまうケースも出てきました。

 深刻なのは親元で暮らすパート・アルバイトたちです。これまで日本の福祉を引き受けてきたのは企業と家族でした。企業は余力を失って社宅や福利厚生施設提供から撤退し、親たちは数十年先には消えていく存在です。雇用の改善がなければ大量の若年たちが生活困窮に直面する事態にも陥ります。

 未来を担う世代を育てるのは国の最重要任務です。福祉を企業と家族に依存してきた分だけその責任は大きく、公教育の充実、職業訓練、就労支援、生活保護受給資格の緩和などが緊急の課題で、生活扶助基準引き下げなどは本末転倒です。
 かつて75%だった所得税最高税率は、ここ二十年で何度か引き下げられ累進度合いは低められました。この税と年金、医療、介護などの社会保障制度の検討も早急に行われるべきです。ただ、税には「役立っている」との実感と政府への信頼が不可欠です。消費税増税をいう前に政府・行政には信頼の回復など為(な)すべき多くのことがあるはずです。

 声を上げることから
 「たすけあいネット」代表運営委員にも就いた湯浅さんには「貧困襲来」の著書があります。
 そのなかで、店長以下全員が非正社員の職場で、がんばる店長を支えるために、みんなが過労死寸前まで働き、その連帯感が巧妙に利用されている例が紹介されています。

 やっぱり、「やってらんないよなあ」とぼやき、声を上げてはじけてみようというのが湯浅さんの提案。
 耐えるだけでなく、不正や理不尽な扱いには抗議の声を上げ、時には法律を武器にした法廷での闘いも必要でしょう。
 そして湯浅さんは願うのです。
 「最後には社会を変えたい。いくら働いても暮らしが成り立たないような社会はどうかしている」と。

●平成20年の意味―歴史に刻む総選挙の年に    朝日新聞 2008年01月01日(火曜日)付
 不穏な年明けである。
 と、元旦の社説に書いたのは5年前のことだった。米国がイラク攻撃へひた走り、北朝鮮の拉致と核でも緊迫の度が高まるばかり。世界はどうなるのか、せっぱ詰まった重苦しさがあった。

 今年もまた、穏やかならぬ年明けだ。
 外から押し寄せる脅威よりも前に、中から崩れてはしまわないか。今度はそんな不安にかられる。
 日本防衛の重責を担っていた官僚トップに、あれほどモラルが欠如していようとは。暮らしの安心を保証する年金が、あんなにずさんに扱われていたとは。日々のニュースがこれほど「偽」の字に覆われようとは……。

 ただでさえ、年金制度の将来設計は危ういし、借金づけの財政にも、進む少子高齢化にも、これといった策が打ち出せない。経済のかげりは隠せず、生活苦のワーキングプアも増えた。日本は沈みつつある船ではないのか。
 私たちが昨秋から社説で「希望社会への提言」シリーズを展開しているのも、そんな危機感からである。

 だが最も切実なのは、深刻な課題に取り組むべき政治が混迷の中にあることではないか。「ねじれ国会」でますます迷路をさまようのか、それとも出口を見つけるか。今年は大きな分岐点にある。

蛇行の末のねじれ
 平成も、はや20年を迎えた。
 昭和から平成に元号が変わったのは89年1月8日。時の竹下登氏から福田康夫氏に至るまで、日本の首相は何と13人を数えた。小泉政権の5年半を除けばあきれるばかりの数であり、政治の非力と蛇行をうかがわせるに十分だ。

 平成元年は激動の入り口だった。
 リクルート事件が山場を迎え、政治改革が課題に。消費税がついに導入され、参院選で自民党が大敗、一時とはいえ初めて与野党が逆転した年だった。
 世界史の上では、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩れた年である。
 冷戦終幕は「55年体制」からの脱却に向けて日本政治の背中も押した。小沢一郎氏らが自民党を出て「非自民」連立の細川政権をつくったのは93年。これが政界再編の第1章であり、政治改革の目玉として衆院に小選挙区制導入の改革が行われた。政権交代を当たり前とする「二大政党」時代への条件整備だった。

 再編第2章は、いまの民主党が結成された98年。これで二大政党の準備はできたが、小選挙区制の果実は自民党が先に味わった。05年に小泉首相が郵政総選挙で大勝し、与党が議席の3分の2を獲得したのだ。だが、小泉後のしっぺ返しも強烈。昨年の参院選で民主党が圧勝し、衆参「ねじれ時代」に突入した。

 正月休みが終われば越年国会が再開され、「給油新法」の対決にけりがつく。参院で野党が、衆院では与党がそれぞれ数にものを言わせ、最後は衆院で「3分の2」ルールが使われるという。この半世紀、なかったことだ。

 しかし、与党はこの方式を毎度あてにはできないし、参院の民主党優位は6年は続きそうだ。ねじれ国会をどうするのか。それが切実に問われている。
沈没を防ぐため
 昨秋、「大連立」の話が降ってわいて大騒ぎになった。あっさり消えたのは当然として、与野党が対決を乗り越えて必要な政策を力強く進めるには、どうすればよいのか。政治が重い宿題を負わされたことは間違いない。

 どんな道があるだろうか。
 与野党が政策をすりあわせて合意を探ればよいのだが、いまは簡単ではない。参院選で勢いづいた野党は「民意はこちらに」と譲らないし、与党も最後は衆院の「3分の2」に頼るからだ。
 ここは衆参の1勝1敗を踏まえて、改めて総選挙に問うしかあるまい。政権選択の、いわば決勝戦である。

 結果をおおざっぱに考えてみよう。
 もし民主党が勝てば、いよいよ政権が交代して衆参のねじれも消える。政権交代の実現は、もともと政治改革のねらいだったはず。それが果たされる。
 一方、与党にとっては、勝ってもねじれは変わらぬうえ、「3分の2」を失うリスクも大きいが、それでも「民意」の旗を取り戻すことができる。もはや野党も「反対」だけを通せまい。

 今度の総選挙はそんな勝負だけに、あらかじめ厳しい節度を求めておきたい。まず、与野党とも受けねらいのバラ色の政策ではなく、政権担当を前提に、可能な限り現実的な公約を競うこと。

 第二に、敗者は潔く勝者に協力することだ。自民党の下野は当然として、もし民主党が負けたら参院の多数を振りかざさず、謙虚に政策調整に応じるのだ。仕組みを工夫して、ねじれ時代のルールを確立する必要がある。
 選挙の勝敗が鮮明でない場合など、政党再編や連立組み替えもありえよう。場合によっては大きなテーマを軸に「大連立」が再燃するかもしれないが、それもこれも総選挙をしてからの話だ。

 世界は待ってはくれない。冷戦後、統一ドイツはしっかり国の基盤を固め、フランスとともに欧州連合(EU)を引っ張ってきた。ソ連に代わって登場したロシアも、経済混迷の時代などいまや昔の物語。中国やインドをはじめ、アジアもダイナミックな伸び盛りだ。
 今秋には米国で大統領選があり、「ブッシュの時代」は終わりを告げる。世界の中の日本も曲がり角にあるが、まずは日本の沈没を防ぐため、政治の体勢を整えるしかあるまい。
 平成20年。政界再編第1章から15年、第2章からは10年――。今年、政治の歴史に大きな節目を刻みたい。

●社説:08年を考える 責任感を取り戻そう   毎日新聞 2008年1月1日 0時12分
     マッチ擦る
     つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの
     祖国はありや
 寺山修司の短歌は高度成長期をはさんで若者の心を強くとらえた。これはとりわけ有名な歌である。
 50年代後半にできたようだが今日的だ。世界を覆う霧は今も深い。日本の心もとなさも同じではないか。

 日本と世界の混迷を振り返ると、そこには共通項がある。「責任」の欠如である。「公(おおやけ)」の感覚の喪失とも言えるだろう。
 まずは米国。唯一の超大国としての威信は昨年、大きく失墜した。政治的にはイラク問題、経済的には低所得者向け住宅融資のサブプライムローン問題だ。
 超大国の役割は「平和と安定」という世界のための公共財を提供することだ。高いコストを負担する国力が必要だが、米国は限界を明らかにしつつある。

 露骨に国益追う
 サブプライムローン問題は米国が住宅バブルを放置した結果である。世界のリーダーとしての責任放棄だ。基軸通貨国としての信認が揺らぎ、ドル安が危険なまでに進んでいる。
 イラク戦争でも地球環境問題でも、米国がその理念と構想力で世界をリードするのが難しくなった。もう冷戦終了直後の精神的指導性を有していない。

 米国の混迷の間に、中国と資源国ロシアの台頭がめざましい。しかし、彼らが米国に代わって世界運営の責任を引き受けたわけではない。逆に露骨に国益を追うことが多く、世界の不安定化に拍車をかけている。

 世界の多極化にともない、核兵器の拡散、テロとの戦い、温室効果ガス削減などグローバルな問題は中国、ロシア、インド、ブラジルなど台頭する新興諸国に、どこまで国際公共財を負担させることができるかという問題になってきた。世界の将来はその説得にかかっている。

 責任回避は地球温暖化問題ではなはだしい。今日から京都議定書による温室効果ガス削減の第1約束期間(5年間)がスタートした。だが、議定書がカバーする排出量は世界の3分の1に過ぎない。「ポスト京都」では大排出国の米国、中国、インドの参加が不可欠だが、相互非難の応酬にとどまっている。

 しかし、無責任では日本も同断だ。「テロとの戦い」では洋上給油の再開か別の貢献策か、与野党は対立したまま合意から遠い。外から見える日本の姿もまた、責任感の低下した内向きの国ではないのか。

 国内では「偽装」事件の続発。老舗企業ですら商道徳を忘れ果てている実態が明るみに出た。そして「消えた年金」「防衛次官汚職」。責任を放り投げて恥じない人々の何と多かったことだろう。日本人の「劣化」という評もあった。

 慎重に留保を付しつつ、「公」の回復について、思いをめぐらしてみたい。
 わざわざ留保と言うのは、「公」の回復という言葉で復古的な国家優先主義を主張する人が多いからだ。私たちはそのような意味で「公」の回復を語ろうというのではない。

 公共心や公共への責任感は空から降ってくるわけではない。それは私たちが共通する課題にどう対処するか、平等な立場で、オープンに議論をたたかわせるなかで血肉となっていくはずのものだ。公共性に関する定説であろう。

 偽装の経営者にしても防衛次官にしても、公共心や責任という言葉を知らなかったはずがない。しかし、身についていなかった。前述の意味での「公」の過程を経ない借り物だったからではないか。「公」は誰かが与えてくれるものでなく、私たち自身が手探りで作っていかなければならないものだ。

 そして、討論の場といえば議会であり政党だ。「公」の回復をいうなら、まず政治の「公」である。
 折から「ねじれ」国会である。だが、その弊害を大連立で解消しようというのは賛成できない。「不都合な真実」かもしれないが、これも民意だからだ。
 ねじれの解消も民意、つまり選挙にゆだねるべきだ。ねじれの緊張関係の中で合意をめざし議論を練り上げていく。それが「公」の回復そのものであろう。

意見を鍛える
 メディアも同様である。インターネットへの期待は大きいが試行錯誤が続いている。新聞は「公」への意識を生み出す「広場」としての機能をさらに強化する必要がある。読者が意見を鍛えるために必要な情報をきちんと伝え、自由な意見交換を保障する場である。そのための潜在力を全力で掘り起こしたい。

 冒頭の歌に戻ろう。
 これは半世紀前、多感な青年が瞬間感じた「祖国喪失」の感覚だ。まだ日本が貧しかった時代。国に対する愛憎半ばする叫びが思わず口を突いて出た。
 時代状況は違うし個人的事情も異なるだろう。しかし、「祖国はありや」という切迫した歌の心を、いま多くの人が共にしているのではないか。日本には衰退の気分が広がり、年金の先行きさえ定かでないのだから。「祖国」を実感できる年としなければならない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( )