tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

チャイナタウン物語(1)

2010-03-08 23:02:35 | 港町 YOKOHAMA

 

ご存知の方も多いのだろうが、中華街にはすてきな歌姫がいる。
区愛美さん。横浜生まれの華僑三世。
http://aimiku.cocolog-nifty.com/

関帝廟から徒歩1分の悟空茶荘という中国茶の茶館で、毎週、第2、第4水曜日に彼女のライブが行われている。
ライブのことは知っていたのだが、サラリーマンの悲しさ、平日に中華街を遊び歩く機会は無く、休めたら休めたで海に潜りに行ってしまうしで、彼女のライブを聞くことはできないでいた。
ところが、彼女のミニコンサートがこの春節娯楽表演で行われ、幸いなことに彼女の歌声を聞くことができた。

いくつかの中国の古い歌を中心に選曲されていた・・・ように思う。(中国の歌を聞き出したのはつい最近なので・・・)。
彼女ののびやかな歌声が、媽祖廟に響いた。澄み渡る声だった。
コンサートの終わりに歌った曲。オリジナルの「チャイナタウン物語」。
1970年代の横浜チャイナタウン。彼女の父と母の青春時代を歌ったものらしい。
横浜中華街は、華僑1世がミニ中国を作り、そして2世たち、3世たちがそれを継承し、伝統を守りながらと発展させている。

「愉快なことばかりではなかった横浜チャイナタウンの華僑の歴史を歌にしました」

と彼女は話した。彼女の言葉が、そして歌の歌詞が心に残った。

1970年代の横浜チャイナタウン。彼女の両親は、ぼくよりも少しだけ上の世代だろう。ともに戦争、戦後の混乱を知らない世代だ。
1964(昭和39)年。Tokyoはオリンピックに合わせ新駅・高速道路が完成。
そのころの中華街は、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争の影響で、外国人を相手にしたバーが急増していた。
中華文化のシンボルである牌楼(ぱいろう)、『善隣門(ぜんりんもん)』が建立されたのもこの時期(1955(昭和30)年)。
辛亥革命の指導者、孫文の号である「中山」をとって名付けられた関帝廟脇の中山路(ちゅうざんろ)は、米兵たちに“ハッピーアベニュー”と呼ばれていたらしい。
朝鮮戦争による特需を背景に、1960年代、日本は高度経済成長期を迎える。
1970年(昭和45年)の大阪万博。Yokohamaベイサイドでは、海岸沿いに建ち並んでいた各国領事館の多くが東京へ移転し、海辺のマリンタワーが誕生。JR根岸線・石川町駅も落成し、高速道路も整備された。それまでは桜木町を起点に徒歩や市電でアクセスするしかなかった中華街に、新たな人の流れが生まれたのだ。

さて、1972(昭和47)年の日中国交正常化。日本中がランラン、カンカンという名のパンダの来日に沸いた。空前の中国ブームの到来。中華街はグルメの街として知名度を上げ、それとともに、新華僑たちによる中華料理店が増加。こうして、世界のチャイナタウンでも類をみない、来街者の95%が中国人以外という、個性的な街に発展して来た。

彼女の歌は、こうした背景をもとに歌ったものだ。・・・彼女の両親はどんな青春時代を送ったのだろう。
この日、7番まであるという彼女の曲は、残念ながらその3番までしか歌われなかった。
いつか彼女の歌を最後まで聞きたいと思っている。


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