tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

また来ん春 寿福寺

2010-03-16 22:18:15 | 古都 鎌倉

 

長谷川泰子が石炭商の富豪中垣竹之助と結婚した翌年の1937(昭和12)年10月、中原中也は30年の命を閉じる。
葬儀は神奈川県鎌倉市の寿福寺で営まれた。

中也ははじめてであった人に必ず同じ質問をした。

「バッハのパッサカリアを聞いたことがあるかい?」

聞いたことがない人がいれば彼は心の底から羨ましそうな顔をして、

「あんなにも素晴らしいものに出会える喜びが残されている君が羨ましい」

と語ったそうだ。彼はこんな調子で文学仲間に対して毒舌を吐き、けんかを売り、仲間を閉口させた。だが、喧嘩を仕掛けて殴られるのは、いつも中也の方だったという。
それでも、彼は夜な夜な酒を飲みに出かけている。
檀一雄は中也との出会いをこう書いている。

『中原中也がはじめて私のところに顔を見せたのは、草野心平氏に同道されてやって来たものに相違ない。用件は、たしか宮沢賢治の全集が出るから買えというのであった。あいにくとこの時、少しおくれて太宰治がやってきた。しばらく「おかめ」でいっしょに飲み合っているうちに、いつの間にか、大乱闘になった。今でも覚えているが、この時、中原中也が、太宰をつかまえて「おめえ、一てえ何の花が好きだい?」 たしか、こうきいた。太宰に狼狽の色が見えた。必死の抵抗とでもいうか、ためらいとでもいうか、その揚げ句の果て、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」 何ともやりきれない含羞の面持ちを見せながら、今にも泣きだすような声である。それからが乱闘だ。』

太宰は中也の人間性を嫌っており、親友の山岸外史に「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろしている。

恋人の長谷川泰子とうまくいかなかった中也は、故郷でお見合いしすぐに結婚。中也は東京四谷の花園アパートに新居をかまえる。昭和8(1933)年12月のことだ。
翌年、 昭和9(1934)年10月。長男文也が生まれる。その年末に、『山羊の歌』を刊行。
昭和11(1936)年11月。長男死去。そのことが中也の心を蝕む。精神病院に入れらそうになった中也はすぐに病院から逃げ帰る。
昭和12(1937)年2月、中也は鎌倉駅裏近くの寿福寺に転居。
同年10月、結核性脳膜炎のため死去。わずか30歳の短い生涯を終える。

氷雨の降りしきる中、観光客が途絶えてひっそりとした寿福寺参道の桂敷の石畳を歩いた。
閉ざされた山門の格子の向こうに、ビャクシンの古木が見えた。雨にぬれた奥の石畳は光を反射させていた。
今から70年以上も前、かつての恋人の長谷川泰子、そして、親友の小林秀雄や文学仲間がここで顔をそろえ、中也の死を弔ったのだ。

中也は死の直前に詩集の出版を小林秀雄に託す。
翌年、昭和13(1938)年1月、次男愛雅死去。同年4月、創元社より『在りし日の歌』を刊行。


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