鎌倉文学館で「鎌倉と詩人たち」と題した展覧会が開かれていた。
どうしても、惹きつけられてやまないのが、中原中也の写真。
帽子を目深にかぶっている彼は、あどけなく、精神的にもどこか不安定そうな顔をしている。
「何をやっているんだい?」
写真をみるたびにぼくは、この明治生まれの詩人に問いかけられるような気がして落ち着かなくなる。
美しく儚い言葉たち、度重なる大切な人との別れ。
時代や環境の変化の中で、彼は詩人であり続けようとした。
西の京、古都の風情を漂わす山口の湯田温泉で生まれた彼は、1923(大正12年)の冬に女優の卵だった長谷川泰子と知り合う。
このとき中也はまだ16歳。
2人は急速に親しくなって京都で同棲。
翌年の春、早稲田大学予科を受験することを口実にして2人は上京。現在の新宿区西早稲田3丁目あたりに下宿。
この頃に彼が銀座の有賀写真館で撮影した写真がそれだ。
この頃の撮影料金は、キャビネ1枚あたり10円。銀行員の初任給50円と比べるとかなりの高額。
それでも彼が写真を残したのは、自分が生きたことの証が欲しかったのだろうか。それとも、自分を客観的に確かめるために必要だったのだろうか。
「詩はまた生き物である。いじくりまわせば死す」
彼の“運命の女性”は、彼の親友の小林秀雄に寝取られる。
グレタ・ガルボにも似たエキゾチックな美人の彼女に、中原中也が執着し出して同時に伝説的な酒乱の傾向を見せたのは、彼女が彼の元を去ってからのことだ。
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長男の誕生。一家を支えるため27歳になった彼は、NHKの初代理事だった親戚中原岩三郎の口利きで放送局(NHK)の入社面接を受ける。
彼の履歴書には「詩生活」のみしか書かれておらず、面接官の
「これでは履歴書にはなりません」
という言葉に
「それ以外の履歴が、私にとって何か意味があるのですか?」
と彼は答えて面接に落ちる。・・・落ちるべくして落ちた。だが、そうしかできないのが彼だった。
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