2004(平成16)年から発行されている1000円札の肖像の野口英世。
黄熱病の研究に自信があった野口英世は、黄熱病を追い続けた結果、ついにアフリカのアクラで自らが黄熱病となってその命を落とす。1928(昭和3)年、5月のことだった。
小さい頃、野口英世の伝記を読んで、苦境に立たされてもそれに怖じ気づくことなく、一生懸命努力をして最後には世に認められるすごい人だなと思った。
あこがれの人だった。この年明けに、英世が命を落とした西アフリカを旅することができた。西アフリカもまた、イメージとは違う都会だった。
野口英世がノーベル賞にノミネートされたのは1914(大正3)年のことだ。彼の研究成果は、麻痺性痴呆症と脊髄癆の患者から梅毒スピロヘーターを世界中で初めて発見し、その純粋培養できたこと。しかし、彼が選ばれなかったのは日本人であること以上に追試に成功した人がいなかったことによる。
1918(大正7)年、エクアドルで黄熱病の病原体を発見し、そのワクチンまで完成させる。黄熱病は熱帯アフリカと中南米の風土病だ。だが、かれが発見したのはワイル氏病の病原体で、そのワクチンもワイル氏病には効果があったが黄熱病にはまったく効かなかった。黄熱ウィルス(YFV)は一本鎖RNAウィルスで、Flavivirus(フラビウィルス)属。
その後、南アフリカ出身のアメリカの微生物学者マックス・タイラー(Max Theiler、サイラーとも)が黄熱ワクチンを開発。このワクチン開発の功績によりタイラーは、1951年にノーベル医学生理学賞を受賞。
英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)にある彼の記念会には、ガーナで研究に使った顕微鏡が展示されていた。黄熱病の病原体は,ウイルスだった。野口英世の時代には電子顕微鏡はなく、光学顕微鏡ではウイルスが見えなかった。野口英世は初めから間違いに気付いていた。自分の間違いに気付きながら、彼はそれを隠して論文を書いた。
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