tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

God bless You 祈りをささげた日々(2)

2009-12-15 22:54:40 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 (鶴岡八幡宮)(2009.10月撮影)
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昨日、我欲をむき出しにして直訴する日本語で書かれた絵馬と、海外から来た人々が書く絵馬の内容とでは、祈りの次元が異なるということを書いた。
だが決して、「だから日本人の品格は・・・」などと書く気はさらさらない。
日本人は、その昔から、神様に対しては、己の欲をフランクにさらけ出してきたのだ。これが日本の文化なのである。
自分の理想を強いイメージで描くこと。強くイメージすることで、自分に本当に必要なものが見えてくる。大切なことが分かってくる。
日本人はこうして、神様と直に向き合うことで、自分の心を見つめてきた。そして、自分の理想へまっすぐに近づく努力をしてきたのだ。
だから、神社仏閣がいつの時代にも必要なのである。

一方、西洋人のお祈り。主を称えること、主に感謝することが主体である。もちろん、キリスト教信徒の場合でも、「神さま、お願い!」と祈りをささげる場合もある。
このような"お願い!"をするときには、神様は慈悲深いもの、だから私のお祈りが届けば神様は願いを叶えてくれるという前提がある。
祈りが届くか届かないかは本人の心がけ次第。願いが叶わなくてもそれも神の思し召しなわけだ。

無宗教の人が多い日本で、どうやって道徳を維持しているのだろうと西洋の人たちは不思議がる。ぼくに言わせれば、「道徳心を保つのになんで神様が必要なんだ」と言いたいのだが、無宗教と聞くとあからさまに未開の人々のように見下す西洋人に対しては、「宗教は仏教です。お盆にはお休みを取ります」ととりあえず東洋の神秘を強調して答えている。

日本での道徳は、集団の中で共同生活を営むうちに自然と芽生える信頼を元に定まってゆく。つまり、人による人のための法である。一方、キリスト教徒にとって道徳とは神の教えを守ることだ。道徳とは神が人間に与えた従うべき道であり、神による人のための法なのだ。
西洋でキリスト教という道徳体系が発展したのは、異民族同士の侵略戦争が絶えなかった欧州では、絶対的な権威をもち隣人愛を説く神という名の道徳規範が必要だったからなのだろう。お互い理解しあえる同士なら宗教なぞ不要だと言うのは無茶な意見なのだろうか。

・・・主よ、上に書いたことが間違っていたらおゆるしください。。ついでに、この世界的な恐慌が早くおわり、人類が適正な環境を維持したまま、平和に過ごせる日々が永く続く世の中になることを祈る勇気をぼくにください。アーメン。


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