tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

God Bless Us 祈りをささげた日々(1)

2009-12-14 22:59:49 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 (鶴岡八幡宮)(2009.10月撮影)
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鶴岡八幡宮の願い事が記された絵馬。ちょっと行儀が悪いのだが、目に付いたものを読ませてもらっていたら、後ろに人だかりができてしまった。
熱心に見入っていたから、何事かと通りがかった多くの人の興味を引いたのだろう。大勢の人が絵馬を覗き込んでくる。身動きもままならないので早々に退散。。
絵馬にそれぞれの言語で書かれた願い事。英語でかかれたものには、世界平和とか母国に平和をと書かれている。
異国の地に入れば、母国のことが懐かしく、そして誇りに思うものである。だが、例えば外国の教会に行って祈りをささげる時に、果たしてぼくは世界平和を祈るのだろうか。。

詳しくはないが、キリスト教にはいろいろな宗派がある。それにもかかわらず、海外の小説などで目に付くものは、
「主よ、今日一日貧しい人や病んでいる人を助けるために私の手をお望みでしたら今日、私のこの手をお使いください」
というような意味の祈りの言葉だ。神が助けるのは「我々」であって、けっして「私」ではない。「私」が望むのは、神に対し良い行いをする「勇気」である。
また、祈りの言葉に「私」が出てくる場合は、
「主よ、みだらな私をお救いください」
というように、自分の非を謝罪する場合だ。

えてして、やれ受験に合格したいだの、恋愛が成就するようにだの、我欲をむき出しにして直訴する日本語で書かれた絵馬とは、祈りの次元が異なるようだ。
ひょっとしたら、日本人の場合は連帯意識が強いから、「悪いのは我々」であって「私」ではなく、そして、「私だけを大衆から抜け出させて」と常々、思っているのかもしれない。もちろん、これは、ぼくが日本人はみな同じ感覚だろうと考える同族意識から来るものなのだが・・・。

・・・神様、上に書いたことが間違っていたらゆるしてください。。ついでに、この世界的な恐慌が早くおわり、人類が適正な環境を維持したまま、平和に過ごせる日々が永く続く世の中になることを祈る勇気をぼくに与えてください。合掌。  って、願い過ぎか。。


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