tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

遠野まつり 神々との共演

2011-09-25 21:19:11 | 遠野(岩手)

 
 

人気の民芸のもう一つ、遠野の神楽は、大出早池峰神楽(神人神楽)、山伏神楽、早池峰山伏神楽の2系統がある。大出早池峰神楽は拍子の遅い、女性的で優美な舞、山伏神楽は速いテンポで、荒々しく活発な舞だ。
仏の化身とされる鬼に似た面をかぶるのだが、鬼ではなく仏なので面には角はない。

この遠野の神楽は、大宝年間(701~704年)、修験道の祖である役小角が念仏とともに踊ったのが起源とも、大同年間(806~810年)に羽黒山の僧が、荒沢鬼渡大明神で大日如来の化身に伝授されたともいわれる。
踊り手は、胸当て、鎖帷子に赤いタスキをかけ、手平鉦、太鼓、笛の囃子方の曲目にあわせて舞い踊る。念仏剣舞の一種であり、邪気を払うための反閇と呼ばれる独特な足運びで舞う勇ましい神楽。衆生済度、悪魔退治のために行われるのだが、ビリーズブートキャンプも真っ青の炎天のもと相当な体力が要求される踊りだ。

さて、前置きはこれくらいとして、本題はなにゆえの神楽?
邪気を払うためと言ってしまえばそれで[終わりなのだが、炎天下に面に鬼着という重装備。相当の体力と精神力を求められる。それ故に、嘔吐を覚え、幕内で倒れ込む踊り手もいるという。
そういう窮地を見るにつけ、何が楽しくて舞っているのかと、端から見て不思議に思う時がある。

伝統としての重責に耐えているようにも見えるが、心の中では「鬼」と同化しつつある踊り手もいるのではないだろうか?つまり、昔、山伏たちは我が道を歩まんと、母国から旅立っていった。すべては、大御神の意思に在りしと・・・。

上手に舞いたいといった自我にとらわれることなく、ひたすら自らの内なる世界へと深く入って行く。自分自身を追いこんで、伝説の鬼の生きざまを観客に魅せる時、踊り手の形相もその鬼面と同じくして「鬼」にとなっているように思えてならない。神々の心の叫びだ。


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