【月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也】の序文で始まる「奥の細道」。『芭蕉』が門人の『河合曾良』を伴って江戸を発ったのは、崇拝する『西行』の500回忌にあたる元禄2年(1689)3月27日の事。全行程約600里(2400k)。150日間をかけて東北・北陸を巡った『芭蕉』による紀行文は、日本の古典における紀行作品の代表的存在として、多くの人に知られています。
元禄2年8月14日~16日。芭蕉は弟子の等哉と共に「敦賀の気比」に滞在しています。「奥の細道 in 敦賀市」、スタートは「気比神宮」境内の『芭蕉』の銅像から。「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。~あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。」
台石に刻まれた句【 月清し 遊行(ゆぎょう)のもてる 砂の上 】(遊行上人が持ち運んだという砂の上に差している月光は、ことさら清らかに思えることだ。)
気比神宮の参道にこれと良く似た句
「気比のみや【 なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 】
気比神宮の道路向いにある「お砂持ち神事」の像。
「往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍る。」
芭蕉はこの話を聞き、気比の宮に詣でて上記の句を詠みました。
敦賀に滞在した芭蕉は、この時、月を題材に15句を詠んだと伝えられています。該当する句碑、続いては敦賀市民文化センターの一画。
【 国々の 八景更に 気比の月 】
(近江八景等のように景色を愛でる名所は山ほどもあるが、気比の月もこれに加えたいものだ)
続いて金崎宮参道下:金前寺の境内に建立された鐘塚の句碑
「金ヶ崎の海底に、足利軍に敗れた『新田義顕』が沈めた「陣鐘」のありと言う。後に国守、海士に探らせしが、「陣鐘」逆さに沈み、竜頭、海泥に埋もれ引き上げ叶わず」宿の主人からこの話を聞き
【 月いつく 鐘は沈る 海の底 】
(月の光もなく、海の底にあるという鐘の音もない。何ともわびしい十五夜であることよ)
北陸自動車道・杉津PA(上り
明日の名月を期待する芭蕉に、宿の亭主が「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかり難し」と答え「十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨降る。」
【 名月や 北国日和 定なき 】
(敦賀の十五夜を期待してきたが、亭主の言ったとおり、北国の天気は変わりやすいものだ。)
「ライオンズクラブ記念大会」に建立された気比神宮境内の名月句碑。
【 ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月 】
(このように月の綺麗な夜は、古事記にも記された「角鹿(つぬが)」の古き名が恋しいものだ)
北陸自動車道・南条SA(下り線)
元禄2年8月15日、越前福井から敦賀に向かう途中、湯尾峠の茶屋の軒下に疱瘡よけの呪いを見て
【 月に名を 包みかねてや 痘瘡(いも)の神 】
(日ごろは人目を忍ぶ痘瘡神も、この月明かりの下では、流石に隠れられないようだ。)
北陸自動車道・南条SA(上り線)
【 明日の月 雨占なはん 比那が嶽 】
(明日も今夜のような月が見えるのだろうか。天気の変わりやすい北国の事だから、比那が嶽の晴れ具合で占うとしようか)
敦賀での名月の晩。燧(ひうち)が城を見て
【 義仲の 寝覚めの山か 月悲し 】
(燧が城の主であった義仲殿も、この景色を見ていたと思うと何とも感慨ぶかいものであることよ)
訪問:2009年~2016年
松尾芭蕉と奥の細道・・・次は何処の地、掲載は何時になるか当人にも不明(笑)
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