tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

李下に冠を正して恥じない人

2018年04月12日 11時22分41秒 | 政治
李下に冠を正して恥じない人
  この諺については既に書きましたが、「人から疑われるような事をしてはいけない」という事を説いた諺で、特に人の上に立つような立場の人は心しなければいけないという事を諭したものです。

 いわゆる「モリ・カケ」などの一連の問題の中で、安倍総理もこの諺を使われたこともありますが、ごく普通の国民の客観的な目から見ますと、安倍総理は明らかに「李下に冠を正した」という事になるでしょう。

 ご本人は「私の言動には一点の曇りもない」と言われましたが、真偽のほどはいずれ明らかになることでしょう。そうでなければ、日本の政治は国民に開かれたものと言えないでしょう。

そして、例え、安倍さんは行動には一点の曇りもなく、すべてが、偶然の一致や周辺が忖度してやったことだったとしても、一年以上の国会の混乱という無駄な時間は、「安倍総理が李下に冠を正し」周囲の人から「すもも(李)を取ったに違いない」と思われ、「取ったように見えたかもしれないが、私は絶対に取っていない」と言い訳をするための時間だったという事になります。

そういうことが無いために、人々は「李下に冠を正さず」という諺を語り継いで来たのでしょう。

安倍総理も勿論この諺はご存じだったのでしょう。しかし、その本当の意味を理解しておられなかったのが残念です。
その結果が、「私の行動を疑う人の方がいれば、疑う人の方が卑しい人々で、私は清廉潔白、一点の曇りもない」と言い張って憚らないという事になるのでしょう。

 国民のために政治を行う頂点に立つ人が、こうした程度の認識で、本当に国民の信任を得ることが出来るのでしょうか。

 個人にも社会的責任が言われ、企業でもCSR、コンプライアンス(注)はますます重視される世の中です。他者に迷惑をかけても法には違反しないといったレベルでは社会的責任を果たしていないと問題になるまでに、現在の社会のレベルは進んできています。

 世界的にも、日本人の道徳・倫理観は評価され、災害や事故の際の整然とした行動、さらにはイベント会場などの後始末について日本人行動は称賛されるようになっています。

 にも拘らず、国家の中枢機能である政治や行政の中で、社会的責任やコンプライアンスには程遠いことが日常的に起きているといった現状が国民の前に明らかになってしましいした。

 戦後、確かに各種のスキャンダルはありました。しかし、今回のような低次元の問題で、これほどの政治的混乱が起きたとは『私の記憶する限りにおいて』ないようです。

 日本にとって、今は、国際的にも経済的にも大変重要な時期でしょう。
国民は、早期に事の真偽が明らかになり、国民のための開かれた政治が戻ってくることを熱望していると思います。
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(注)コンプライアンスは「法令順守」と訳されますが、「法律にさえ違反しなければいい」というのではなく(広義の社会的責任も含む)と理解されています。