tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

試論と考察の暫定的な纏め(4)

2020年11月11日 16時58分24秒 | 政治
最近の日本政治につての例証
 前回、本来の新自由主義は、合理的な規制はしっかりと守り、不合理な規制は改めるように考える。そして改めるのは、行政の権力ではなく、立法府において行う、その上で、政府は、決められたルールがしっかり守られるようレフェリーの役に徹する、間違ってもプレーヤーにはならない、というのが基本的な理念ではないかと纏めました。

 こうした本来の新自由主義に則って我々の身近な、日本の政府の最近の行動について見ていきたいと思います。

 安倍政権が発足して、「決める政治」を標榜し、長期不況で低迷を続けた日本の経済、社会の活性化を図ろうとしました。
 志は立派でしたが、最初から「勇み足」風でした。それは「行政の力」で決めるという意向が透けて見えたからです。

 具体的に見ていきますと、先ず、日本経済の長期低迷の最大の原因は、国際金融市場において、円の相場が高すぎる事(円高)が原因だから、合理的な手法で適正な水準(例えば購買力平価)まで円安にすべきだと考えました。

 しかしこれは政府にはできませんから、日銀に頼みました。日銀は立派にこれをやり遂げたのです。
 異次元金融緩和(アメリカが取った方法)で1ドルは80円ら120円になりました。これで日本経済が健全な経済成長をするベースが出来ました。大成功でした。

 これが「アベノミクス」の出発点です。アベノミクスというのは、どうやら安倍さん自身が使い始めたようです。こういうのは通常「贈り名」で、マスコミや後世の学者がつけるのもですが、安倍さんは、決める政治で自分が決めたいという気持ちが強すぎたのでしょう。

 それからは岩盤規制に風穴をという事でいろいろな事が出てきましたが、大きく躓いたのが所謂モリ・カケ問題です。

モリ・カケについて考えますと、基礎教育が大事だから小学校教育を良くしようとか、不足が見込まれる畜産部門の獣医師の育成が必要との理由で獣医関連の高等教育の充実のため、そうした大学の新設が必要と考えたようです。

 そして、新設の学校が容易にできないのは、岩盤規制の為という理屈で、ルールは無視し、特定の件を安倍首相の「首相案件」のラベルで「岩盤規制に風穴」を空けたと自画自賛したのです。
 学校新設という事業に、総理の意向で行政がプレーヤーになってしまったのです。

 当然ルール違反です。記録は改ざんや廃棄をしなければなりません。国会答弁も本当のことは言えません。結果、これらの関連だけで、国会は過半数の時間を費やしたのではないでしょうか。

 菅政権になって早速起きたのが、日本学術会議会員の推薦候補の内6人の任命強費問題です。これも、菅総理が「前例を守る必要はない」「既得権は見直すべきだ」と従来のルールを破ることが良いことだと自らプレーヤーになったのです。

 まずかったことに気づいて、「選考方法をもっと公明正大になものに見直すべきだ」とルールの見直しにすり替えていますが、本来そちらが先で、それでいいルールが出来れば、何も問題は起きなかったでしょう。
 これも総理がプレーヤーになったことが無駄な国会空転を齎しています。

 いずれにしても、政府には、学術会議の会員を選ぶための知見も能力もありません。
 桜を見る会に見ますように、容易に自分の都合のいい人選をするような事になるだろうという想像はつきます。

 立法府がルールを作り、政府、行政は、それが誤りなく実行されるようレフェリーの役に徹するべきで、そうすれば無駄な国会論議も忖度も記録改竄も虚偽答弁もなくなり、大臣や官僚の仕事もずっとすっきりするでしょう。

そうなることで、日本の経済社会は、合理的、効率的に経済社会の発展の道を歩めるのでは無いでしょうか。
「新自由主義」の理念に立って現状の問題点を指摘すれば、政府・行政が、総理以下、自分たちが規制改革のプレーヤーだという誤った認識を持ってしまったことが最大の原因という事になるのでしょう。

蛇足:聖徳太子の「17条の憲法」
第17条「夫事不可独断 必与衆宜論」現代語訳「それ事は一人にて断ずべからず 必ず衆とともに宜しく論ずべし」

試論と考察の暫定的な纏め(3)

2020年11月10日 16時45分56秒 | 文化社会
新自由主義:その理論と現実
 新自由主義には、労働組合が左翼の政権政党と結んで、自由経済指向の企業の活動領域を狭めるのに対抗するというスタグフレーション回避を契機とした面と同時に、大恐慌の回復を支えて経済政策が政府の経済活動を拡大が民間の企業活動の領域を冒すことに反対するといった面があります。

 いずれにしても、自由経済活動の領域を規制することが健全な経済成長を阻害すると考える所が「自由主義」を名乗る原点です。

 自由経済の原点はレッセフェールにあるのでしょうが、自由放任には限度があり、必要なのは適切なルールを設定することによって(例:交通信号)、社会的に合理性のある自由な経済社会活動が促進され、経済・社会の発展を効果的に実現するというものでしょう。

 これはアダム・スミスや渋沢栄一が 「道徳」や「論語」に求めていたものをルール(合理的な規制)置き換えるという趣旨でしょう。

 そうした「新自由主義」の目で見ると、これまでの社会は不合理なルールがいっぱいあって、そのために経済発展が阻害されている、具体的には、社会意識や技術の変化に対応していない古い規制などが不合理な既得権を生み、経済社会活動の動きを阻害しているとみるのです。

ですから、政府は、合理的なルールを作り、それが守られるようにレフェリ-の役を確り務めるべきで、規制はみんな悪いと考えたり、勇み足で政府が経済活動に参加すると、それは、「神の見えざる手」と反対に「政府の見えざる手」によって、経済社会の自由な活動を妨げ、その健全な発展を妨げると考えるわけです。

 この「勇み足」ですが、政府というのは権力がありますから、レフェリー役に飽き足らず、自らもプレーヤの中に入って、権力にモノを言わせて、自分に都合のいい結果を出そうという気になるのがどうも一般的のようです。

 そして、こうした政府の介入を合理的なものに見せようとして利用する言葉が、規制改革、「岩盤規制に風穴を開ける」とか「既得権打破」といった「改革こそが良きもの」と思わせるような形で政府の口から出て来ることになるようです。

 端的に言って「赤・青・黄色の交通信号」が規制だから改革や緩和をすべきだという人はいないでしょう。相撲の土俵をボクシングのように「四角にしよう」という人もいないでしょう。野球の三振・フォアボールは誰も変えようとはいいません。
 
 それはこうした規制が合理的だからです。「規制改革」「既得権打破」が必要というのは、「本来非合理だから直す」のが原則でしょう。合理的な規制を見直す必要はないのです。
 そして見直すならば、それはルールの変更ですから行政がやるのではなく、立法府がやるべきなのです。

 「政府の見えざる手」というのは、見えないのではなくて、権力に任せて(外からは見えないようにしながら)合理性に欠けることを政府が自分の手でやることによって、社会の秩序が混乱し、その混乱の収拾に大変な手間とカネがかかるという事の結果起きることが多いからだと考えられます。

 次回、その具体的な例を挙げて、この項を締めくくりたいと思います。

試論と考察の暫定的な纏め(2)

2020年11月09日 10時40分20秒 | 政治
新自由主義はいかにして生まれたか
 資本主義というのは単純に言えば、資本を蓄積すれば社会は豊かになる、だから資本を大事にしようという事で生まれた思想だと思います。
 
 これは一面ではその通りで、企業が発展するためには資本が必要です。資本の準備をし、技術開発(これが資本主義成立の前提)の成果の高度な設備を購入、生産性の高い仕事をして利益を上げるというのが基本です。資本のない人は銀行からカネを借りて資本を準備します。中世(カトリック)では許されなかった「金利」が一般化し金融システムが勃興し、資本主義の発展を支えます(プロテスタントは金利容認:マックス・ウェーバー)。

資本主義が(蒸気機関の発明からの産業革命を契機に)経済発展の基盤となり、経済成長が始まります。しかし、初期の資本主義は資本家と労働者の分断を生み、アンチテーゼとしての社会主義、 共産主義(カール・マルクス)、を生み出します。民主主義国では産業界には労働者と資本家の「階級対立」が生まれ、政治の世界では労働党や社会党が生まれます。( 共産主義支配の国は結果的に共産党一党独裁に)

 産業界では労資対立、政治面では左右の対立が生まれますが、社会が分断対立では、経済活動も妨げられ、経済成長も頓挫、大恐慌が起きたりします。そして生まれたのが、産業界では「 経営者革命」政治では社会保障の概念です。「労資関係」は「労使関係」になり、政治では社会保障の充実、福祉国家の概念が生まれます。

 これで社会の階級対立、格差社会化が上手く解決するかと思われたのですが、今度は労働側が労使関係、政治の場でも強くなり過ぎ、社会保障負担、福祉充実の負担が行き過ぎ、資本蓄積が滞って、経済成長がうまくいかなくなり( スタグフレーション)、資本の側にもう少しカネの配分を増やし、資本蓄積を充実して、経済成長を促進する必要を感じる状況になって、それを実現しようという理論的根拠として「新自由主義」が生まれることになったのでしょう。

 これらは欧米先進諸国に共通にみられる現象ですが、日本の場合は少し違います。
 日本では、戦後、欧米に追い付け追い越せの努力のなかで、社会保障の充実は遅れましたが、産業界における「共助」の理念が健全で、労使の信頼関係による協調が、労働側への配分を過剰にする振れを抑え( 労働組合から「経済整合性理論」が発信されるほどの合理性)、労働への配分と資本蓄積は適切な範囲に収まり、1970年代以降も欧米の停滞をしり目に順調な経済成長を続け、エずラ・ボ―ゲルをして「ジャパンアズナンバーワン」と言わせるような健全な経済発展を実現していました。

 その意味では、日本では民間労使が賢明だったので「新自由主義」は不要だったのです。
 それが何故今日の様なことになってしまったのか、というのが、今日の日本の状況打開のカギになるのですが、長くなるので次回にします。
 欧米と全く違った原因で長期不況になった日本で、理論とは大分違った事を「新自由主義」に則った「規制撤廃」「既得権打破」などといってやっているような気がしています。

試論と考察の暫定的な纏め(1)

2020年11月08日 11時03分09秒 | 文化社会
民主主義について
 10月から「新自由主義」について試論と「自助、共助、公助」についての考察を書いてきました。
 昔学んだことも思いだしながら、今日的環境変化にもいろいろ学び、整理した結果、民主主義と自由主義を上手く生かして、政治的にも経済的にも社会的にも、もう少しましな世の中になるにはどうしたらいいのか暫定的に纏めてみました。

 上手く整理できたかどうかは解りませんが、一応その結果を報告しておきたいと思っています。

 政治形態としては、矢張り民主主義が、全体主義、独裁制にならないための最良の方法だともいますが、現実の世界の国々の歴史や現状を見てみますと必ずしもそうではない場合もあるようです。

 現実に、ロシアもベラルーシも形は民主主義ですが、実体は独裁制でしょう。中国も国家主席は全人代で多数決のようです。
 明らかに独裁の国でも、形式的には選挙と多数決だという事は、民主主義をそれなりにスタンダード化しているという事です。

 第二次大戦前、ファッショ、独裁制、軍国主義になった枢軸国(イタリア、ドイツ、日本も、民主主義の形を取ながら全体主義、独裁制になって、戦争から破滅の道をたどりました。

 民主主義のつもりでいても、いつしか独裁制になってしまうこともあるのです。
 理由はいろいろあるのでしょうが、リーダーが長期政権を望むことと独裁制化は常に「併存」するようです。

 アメリカでは大統領は2期までとなっています。日本でも自民党総裁は2期まででした。リーダーの任期の期限を切ることは、民主主義が独裁制に変容しないための重要な予防措置だと思われます。

 習近平、プーチン、は着実に長期政権のためのルールの改変をやっています。その末席に安倍総理を加える人もいるようです(総裁任期を2期から3期に伸ばしました:注)。
 アメリカは多少の(かなりの)混乱の中ですが、今回は一期で交代という選択になるようです。

 もう一つ、民主主義の選挙制度を「人気投票」にしないことが重要なようです。ミスコンや、ベストドレッサー、今年の流行語などは人気投票でいいでしょうが、政治家はそれではまずいようです。

 特に、昨今のメディアの発達と普及は表面上のポピュラリティーをあたかも真実の姿のように思わせることを可能に出来るようです。

 トランプさんがYMCAを踊れば観衆が熱狂するといった映像が、どんな影響力を持つのか、国政選挙ともなれば、もう少し本質的なものを判断基準にすべきだということを、すべての国民に解ってもらうにするにはどうした良いのか、民主主義自体がもっと進化しなければいけないのではないかと感じます。

 民主主義以外によりよい方法はないのですから、これからも確り考えていかなければならない問題だとつくづく感じるところです。 
 結局は、民主主義も重要な問題を内包しているという事になりました。
・・・・・・・・
(注) もし安倍さんが、一部の人が予測するように「院政」を敷いたり、ここ1年静養し、再出馬でまた政権をというようなことになったら、安倍一強から更に独裁色を強めるという推論になるようです。

自助、共助、公助、の問題を考える(7)

2020年11月06日 20時57分47秒 | 政治
「自助、共助、公助」と規制改革
 民主主義政治、自由主義経済システムが今の世界では、いわばスタンダードで、日本もその中にあるわけです。いわゆる自由世界です。
 その中でも、経済システムとしてはかなり幅があり、アメリカのような自由経済から北欧型の福祉国家までが存在します。これは、統計数字から見れば、「国民負担率」に反映されています。」
 国民負担率は、自助重視の国は低く、公助重視の国は高いということが出来ましょう。高い方から 北欧、ヨーロッパ、日本、アメリカといったところです。

 菅政権は安倍政権を継承し、規制改革、既得権の見直しを主張する新自由主義を基軸にすると言われていて、新自由主義者の竹中平蔵氏やデービッド・アトキンソン氏などがブレーン役です。

  新自由主義とは一言で言えば、北欧のように公助が大きな比率を占め、自由な経済活動を担う自助の部分が少ないと、社会主義に近づいてしまう(社会的自由主義)、そこで政府の規制を減らして民間の自由な経済活動を大事にしようという立場です。

 ですから、各種の規制や、法律制度に支えられた既得権は打破すべきという政策が出てくるわけです。

 この辺りは現実には大変ややこしくて、今回の日本学術会議の問題でも、菅総理は「学術会議の推薦を政府がそのまま任命するのは学術会議の「既得権」で、そうしたものは認めず、もっと開かれた制度にすべき」と言っています。

 ここで問題は、そのために、政府が、「任命拒否」という行動をとってしまったことでしょう。これはゲームの進行中に、現行ルールに従ってやっている選手にレフェリーがレッドカードを出した様なものです。これは当然揉めるでしょう。

 レフェリーは、今のルールは良くない、今のプレーはレッドカードを出すべきだという意見が出ているので、私の判断でやった、と弁明しますが、だれもが「それはルールが改正されてからでしょう」というのは当然です。

 学術会議は目立ってしまいましたが、携帯電話料金にしても、政府がこのぐらい下げろとか、春闘の際に賃金を何%引き上げろなどというのは、本来自由経済システムの中ではルール違反なのです。 政府は現行ルールに忠実なレフェリー であって、自分の権限を過信してプレーの中に割り込んで来てはいけないのです。

 政府は春闘では何の権限もありませんから賃上げ率は政府の言う通りにはなりませんが、携帯電話料金問題は政府が電波利用の割り当ての権限を持っていますから、民間企業は言う事を聞くしかないようです。もともと自由経済が阻害されているのです。

 本当は電波の割り当て制度が規制改革の対象になるべきなのでしょう。つまりは、政府が規制という権限を持って、プレーヤーのプレーの自由を制限していることが、携帯電話料金が下がらないことの原因という指摘も可能です。

 規制緩和、既得権打破というのは、制度を合理的(国民の多くが納得する)なものに作り変えるためで、政府の役割は最も合理的なルールを民間の意見を聞いて作ることです。
 あたらしいルールが合理的なモノであれば、経済活動は活性化するでしょう。

 その手間を省いて、政府の権力で民間の活動に介入することは、決して良い結果を生まないというのが 自由経済の経験なのです。

 自由民主党が主導権を持つ日本です。全体主義国のように、政府がプレーヤーのやることに無闇に口を出したり、自分がプレーに入ることはやめるべきではないでしょうか。

日本学術会議問題:総理答弁に思う

2020年11月05日 22時58分12秒 | 政治
日本学術会議問題:総理答弁に思う
 アメリカでは大統領選挙が終わり、集計作業に時間がかかっています。
 大きい国なので、大変なようですが、それにしても、混迷の度は深いですね。
 候補の一方が、選挙に不正があるからと、法廷闘争を選挙前から言うというのは、独裁国の話かと思っていましたら、アメリカで起きるとは、国の様相の一大変化でしょう。

 所変わって日本ですが、今日も国会でやっていました。日本学術会議の問題についての菅総理の答弁を聞いていると、民主主義を掲げる文明国のリーダーの答弁とは思われないような情景が連続していて、こんなことが続いていたら、日本も野蛮国か独裁国になっていくのではないかと暗澹たる気持ちになるのを禁じ得ませんでした。

 まあ、日本は民主主義国ですから、そんなことになる前に政権交代になって、まともな先進国の一員として生き残るだろと思うのですが、いや、まかり間違えばと、国民学校時代に経験したあの全体主義、軍部独裁の日のおぞましさが、ふと蘇るのです。

 上の人の言う事がすべて正しい。疑問を持つことはよくなこと、どんなことが起きてもそれはお国のため と考えるのが当たり前だったのです。日本人は真面目で、与えらえた環境に順応するのでしょうか。

 安倍一強と言われ始め頃から、忖度という言葉がはやり、官僚の世界は概ね忖度の世界となったように思われます。森友事件では忖度の出来ない人が犠牲者になりましたが、それは忖度の世界の中では無視されています。

 今度の日本学術会議の問題では、菅総理の答弁は、「推薦された人をすべて任命するとはなっていない」「法令に従ってやっている」「内閣法制局に相談している」を何回でも繰り返せば、何時かはこの問題もうやむやになるだろうから、それまで我慢するという姿勢のように見えます。これも大変辛い事でしょうが、総理大臣になったからには仕方がないというお気持ちなのでしょうか。

 菅総理は、今回の6人のの任命をしなかった事で日本の学術の世界に悪影響はないと言っていますが、その当否は別として、日本の学術の世界に悪影響を与えるような事は良くないと多分ご承知でしょう。学術を軽視する国が衰亡、破綻することは古くは秦の始皇帝の焚書坑儒から近くはカンボジヤのポルポト政権の学識者大虐殺まで当然ご存知と思っています。

 勿論一官僚の意見が、この事件を引き起こしたのではないでしょう。報道によれば、この動きは何年か前からあったようで、その流れを受けて、新任の菅総理がやってしまったと見る人もいるようです。

 中曽根発言(総理の任命は形式)は、広く知られていますが、どう考えてもそれとは違う最近の自民党の中に、こうしたおぞましい思想的な変容の兆しが表れていることには、党名との大きな断絶の感を禁じ得ない所です。

自助、共助、公助、の問題を考える(6)

2020年11月03日 23時05分33秒 | 政治
三題噺:「貯蓄から投資へ」、「マネー資本主義」、「格差社会」
 菅総理は「自助」が大事と言っておられましたが、この発言は評判が悪いことに気づいたようで、最近は「自助、共助、公助のバランス」と言い換えておられるようですが、では、どういうバランスか良いのかは言わないようです。

 ご本人の人となりから、総理の信念は、矢張り「自助」重視のバランスなのだろうと推察する人は多いでしょう。

 ところで今は新型コロナが大問題ですが、1~2年たてばコロナ問題は過去のものとなり、矢張り本格的な経済成長や、それによる老後不安の解消といった問題が最大の関心事に戻ってくるでしょう。
・・・・・・・・
 さてそこで三題噺に入りますが、
熊公「政府は貯蓄から投資へ」って言ってるが、どうすりゃいいのかねえ」
八さん「俺の若い頃は“銀行よさようなら、証券よ今日は” なんてのがあったから、貯金なんかやめて株を買えってことじゃねえかなア」
熊公「それってカネのある人の話だろうよ」
八さん「そりゃそうだ、宵越しのカネもねえ俺たちにゃあ関係ねえ」

 という事で、ゼロ金利の銀行頼みではなく、株式や投資信託で老後に備えなさいというのが政府の方針のようです。
 銀行預金では損はしませんが、株や投信の方は、儲ける人も損する人も出ます。ネットで「株式投資で儲ける法」は山ほどありますが、当てになるかどうか。大体ある程度の資金がないといけません。失敗しても自己責任ですから「自助」の典型でしょうか。

 投資は通常、資金量の大きい方が有利と言われます。金持ちはますます富み、カネがなければチャンスもない格差拡大の世界です
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熊公「最近マネーて言うやつが多いけど、マネーってカネの事だろう?なんでマネーなんだよ」
八さん「ありゃーな、べラボーな金持ちたちがカネでカネを儲けようとカネの取引をするんだな。投資だなど言ってやがるが、ありゃ投機、賭け事だね。アメリカから流行って来たから、カネと言わずにマネーというんだろうさ」

 実物資本主義がマネー資本主義になりつつあるようです。投資とは言いながら、モノやサービスを創らないでも(付加価値の生産をしない)先物、レバレッジ、デリバティブなど金融工学を駆使して「カネでカネを儲ける」いわゆるマネーゲームです。

 金額から言えば、GDPなどの実物経済より、ずっと巨大な金額が動いています。政府のやっているGPIF(年金積立金運用法人)なども、何も価値を創っているのではなく、巨大な投資(投機)マネーを少しでも自分の所に振り替えるように努力しているのです。

 投資銀行やヘッジファンドなどの機関投資家は、いくら稼いでも満足することはありません。金を稼ぐために金が必要なのですからいくら稼いでももっと稼ぐために金が必要なのです。満腹を知らない、おカネの餓鬼道に堕ちたようなものでしょう。

 こうしてマネー資本主義の世界では成功者には巨大な報酬が支払われ、例えば、アメリカでは上位1%の持つ資産が下位90%の持つ資産より多いといった現象が起きているのです。
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熊公「八さん、あんた何でも知ってるようだから教えてくれェ。最近、松公が「格差は怪しからん」て怒っていたけど、格差って何だい」
八さん「俺たちゃ貧乏人だ。大家さんは金持ちだ。金持ちと貧乏人の差が「格差」だ。
熊公「そりゃ大家さんは金持ちだよ、でもな、だから家賃が滞って待ってくれるし、病気になれば医者も呼んでくれる。嫁さんも世話してくれるかと待ってんだよ。大家と言えば親も同然。昔からそういうだろう」

 熊公の言によれば、昔の長屋はまさに「共助」の世界ですね。大家さんは店賃で裕福に暮らしているのかもしれませんが、店子の面倒はよく見るようです。
 これを国に拡大すれば「福祉国家」という事になるのでしょう。

 しかし歴史を見れば、先日も書きましたように格差を放置すれば、革命か政権交代でしょう。場合によっては、争乱や略奪、内戦も起こります。

 権力は格差社会を好み、大衆の犠牲において権力者が自らの権力の永続を図るようです。これを政治権力で行って国が破滅するのが歴史から学べるところです。

しかし、資本主義の変貌によって、政治権力以外に、マネーゲームの活用によって、格差を作り出すという新しい問題が、マネー資本主義と共に起きてきています。

 日本国民は、自分たちが「自助、共助、公助」のどんなバランスを望んでいるのかを菅総理に、真摯に、丁寧に教えてあげる必要があるようです。

自助、共助、公助、の問題を考える(5)

2020年11月02日 15時07分24秒 | 文化社会
「自助・共助」と「働き 方改革」
 菅政権が、「働き方改革」についてどんな政策を展開するのかまだ見えて来ませんが、もともと安倍路線の継承を言っているのですから、「働き方改革」についても安倍路線の継承になるのでしょう。

 安倍路線の「 働き方改革」はもともと欧米流の人事賃金制度が優れていて、日本の制度は時代遅れという見方が基本となっているものです。多分日本的経営が1990年代から長期の円高不況に突入、世界的にも影が薄くなってきているという時代の産物でしょう。
 
 同じようなことは戦後もありました、敗戦の廃墟の中で、欧米流がいいと年功給から職務給への動きが随分もありました。また占領軍は、労働組合作りを奨励しました。
 
 しかし日本の労使は、職務給は参考にしただけで、結局は職能資格給が開発され定着し、労働組合も一般化しましたが、欧米の産業別とは違った企業別が基本で、地域、産業が連携するという日本流の発展を遂げました。

 こうした導入の仕方は、アジアでは定着し、アジアの労使は「Look Japan」と言いながら、日本流を自国流に「咀嚼して導入」と言っています。

 今の政権が、日本流から欧米流へと言っているのは、平成長期不況が、世界第二の経済大国になった日本を追い落とすためのアメリカの「円高戦略」の結果ではなくて、日本的経営そのものが失敗だったのだと勘違いの反省をしているからでしょう。

 前置きが長くなりましたが、基本的に日本の企業活動は人間中心です。欧米のそれは資本中心です。これはそれぞれの伝統文化によるものでしょう。

 日本では企業は家族に例えられます。企業は人間集団です。就職する時は職務は決まっていません、企業という人間集団が望む「人間」を採用し、企業内で育成します。
 欧米では、職務が中心で、その職務が出来る人をその都度採用します。その職務が出来なければ、あるいは職務が無くなれば解雇します。基本的に人間は企業という大型機械の部品(職務採用)なのです。

 「自助、共助、公助」という視点から言いますと、日本の企業は、「自助」の力を育成しながら、「共助」の役割を大きく果たしてきました。
 端的な例が、結婚すれば、また、子供が生まれれば家族手当、習熟に従って賃金は上昇、退職する時には退職金や企業年金といった制度、更に一旦入社すれば、なるべく解雇はしない、仕事がなくなっても、再訓練で新しい仕事に配転するといったのが通例です。

 また、日本の賃金制度で欧米と大きく違うのは、一般社員と管理職、そして経営陣の給与の格差が小さい事です。
 かつての高度成長期でも、社長の給与は新入社員の給与の20倍が一般的と言われていました。欧米の何百倍と大違いです

 放置すれば欧米の様に賃金の格差が拡大するところを、企業内の知恵で、出来るだけ格差を少なくし、国で言えば、豊かな中間層を拡大する政策を、人間中心の企業経営の中で実現していたのです。

 これは企業を、いわば「共助」のシステムとして活用し、それの生み出す人間集団の凝集力で、社員のベクトルを合わせ、総合力を最大にして「社会に役立つ企業」という目的を達成するという日本的経営の理念の 実行で、その力で世界第二の経済大国まで頑張って上り詰めたという事でしょう。(その結果の プラザ合意

 こうした日本の伝統的システムを欧米型に変えていこうというのが「働き方改革」ですが、これは発想の原点に、何故か大きな誤りがあるという事になるようです。

 グローバル化は、日本的経営にも種々のインパクトを与えて来るでしょう。日本的経営の良さを生かしながら、それに対応する知恵は、多分政府からは出て来ません。
 これは日本の労使が、協力して真剣に考えていくべきことなのでしょう。

自助、共助、公助、の問題を考える(4)

2020年11月01日 21時57分02秒 | 政治
「自助」重視に移行する金融政策で老後不安は?
 ご記憶の方も多いと思いますが、昨年6月でしたか金融審議会の作業部会が「老後生活に 公的年金では2000万円不足」という答申を出し、諮問した張本人の、麻生金融担当大臣が受け取りを拒否したという珍事がありました。

 当時世間では3000万円不足という数字が一般的だったので、わたくしは、審議会が政府の意向を忖度して2000万円に減らしたな、などと思っていたのですが、麻生さんの受け取り拒否で、この答申はなかったこと(政府の無駄遣い)になったのでしょう。

 受け取り拒否の理由の説明はありませんが、多くの国民は、年金(公助)では不足と明らかにしたくなかったからだと理解したのでしょう。
 そして今度は、菅総理の「自助が第一」という発言です。

 新自由主義だから、アメリカのように自分でやれという傾向が今後も強まるのでしょうか。政府の言う、「全世代型社会保障」(別名:誰もが安心できる社会保障)で、医療の国民皆保険などは世界でも優れた制度と言われますが(今回のコロナは別)、老後というだれにも共通する不安については、問題はますます深刻化するようです。

 皆様ご承知のように、この問題は、金融政策に直接 関連しています。
 平成大不況の前は、「共助」の範囲である企業年金などは順調で、退職金の見直し(抑制)などはありましたが、老後不安はそれほど深刻ではなかったと思います。

 これが深刻になったのは、円高の影響が本格化し、デフレが深刻になって、預金に金利が付かなくなった( ゼロ金利に次第に近づく)ことによります。

 金利低下で、企業年金などは軒並み不採算になり積み立て不足分を自己資金で穴埋めして、厚生年金に返上といったことも頻発しました。
 勿論、厚生年金自体も、積立金の運用利回りが大幅低下で、GPIFを作って株式投資で稼ごうとしていますが、結果は成功と失敗の繰り返しです。

 同様の事は、各家庭の家計の上でも起こりました。老後不安を少しでも緩和しようと金融機関にお金を預けても、利息が殆ど付かないのです。
 以前は5%も利息が付いて、2年もすれば残高が1割は増えていたのが、今は「利息は銀行に行くバス代ぐらい」などという嘆き節です。

 経済理論では、「金利が付かないのなら貯金などしない」という行動様式が一般的なようですが、日本人は真面目です。利息が付かなければその分余計に貯金しよう(自分で利息を付ける?)と考え、消費を減らして貯蓄を増やすという行動が一般的なようです。これが今日の消費不振の最大の原因でしょう。

 政府はさらなる「自助」の手段を推奨します。「貯蓄から投資へ」がそのキャッチコピーです。
 NISA、iDeCoなどを政策の目玉にし、「キャピタルゲイン」の税金をゼロにして、国民が自分でリスクで稼ぎなさい、という考え方です。これは、明らかな「公助」から「自助」への「転換」です。
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 一方で、政府は、前述の「全世代型社会保障制度」を掲げています。しかし、GDPはあるだけしかありませんし、簡単には増えません。
 GDPの配分を変えて社会保障を充実するというのなら、他の何かを削らねばなりません。

 魅力的な言葉はすぐ出來ますが、「一億総活躍」の様に言葉だけ踊るのでしょうか。
 GDPの配分はどんな設計になるのでしょうか。十分注目(注意)の必要があるようです。