以下はNPO法人 広島県手話通訳問題研究会の『通信』7月号に書いたものです。
最近、30人ほどの手話通訳学習会に参加しました。
聞こえない若い人に「私の趣味」について語っていただきました。
邦画よりも洋画をよく見ること、洋画には字幕が付いているからわかりやすいこと。
洋画を見ていると盲人をさっとガイドしていたり、車いすをさっと抱えたりごくごく普通にやられている場面がある…ここらまではみんな素直に読み取れました。
そのあと、彼は「おいおい、あれは何だよ」あれは「ろう者だよ」「手話をやってんだぞ」と語っている場面も映画の中で見たことがあるとごくごく普通に語っています。
でも、参加者がみんなそんな風には訳せないのです。30人全員「ろうあ者の手話を不思議そうに見られる」とか、「コミュニケーションがきちんと保障されていない」というような音声語に訳してしまうのです。
ここには、私たち自身が長くろう者と接してきてそんな話をいっぱい聞いているので「予断」を持ってみてしまっているのです。
ソーシャルワークの学習の中に「自己覚知」ということがあります。難しいことのようですが、要は「自分の癖を知ろう」ということです。
たとえば、私の場合なら、すぐにかっとなってしまうとか、相談に来られた方が泣いてしまうとその場をどうとりつくろったらよいのかわからずおろおろしてしまう(いつも隣の心理屋さんに笑われていました)…とか?さすがにお酒をやめさせたいと相談に来ているのに「好きなだけ飲ませてあげなさいよ」とは言いませんが。
手話通訳者も自分が「通訳」をしているのだということをすぐに忘れてしまいます。
私の言い方を許していただければ♪正義の味方よよい人よ♪(古いなあ、分かる人いるかな)になってしまっているのです。
素直にそのままを伝えることができないのです。いやいや話を見たり聞いたりする前から「ろう者の立場」(誤解しないでください。イコール悪いことだと言っているわけではありませんよ)にしっかりと立ってしまっているのです。これでは通訳にはなりません。
私は「癖をもっている」と気づくことから通訳も始まります。
写真はトイレの入り口の表示 大きくてわかりやすいですね。UDだそうです。