ヒロシマ・ピョンヤン―棄てられた被爆者 伊藤 孝司 風媒社 このアイテムの詳細を見る |
ストーリー STORY
朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の首都・平壌(ピョンヤン)で暮す李桂先(リ・ゲソン)さん。二重にしたゴム手袋で食器を洗う。指の皮膚が極端に弱く、素手だとすぐに出血してしまうからだ。髪の毛が、すべて抜けてしまったこともある。被爆したことが、それらの原因だと桂先さんは言う。
広島市から約27キロメートル離れた大竹市で、桂先さん一家は暮らしていた。1945年8月15日、日本は敗戦。朝鮮へ帰国するための手当てが出るという話を聞き、母親は桂先さんを連れて広島市内へ向かう。その日は、米軍による原爆投下から12日目。広島市内はまだ残留放射能で汚染されていた。手当て支給の話はデマで、しかも母親と娘は被爆してしまった。
帰国をあきらめた一家の、日本での暮らしは厳しかった。桂先さんは大学進学を望んだが、それは経済的に難しかった。ちょうどその頃、朝鮮への帰国事業が始まる。桂先さんは大学へ入るため、家族の中で一人だけで海を渡った。
結婚後、桂先さんの健康状態は次第に悪くなっていった。自分の健康を蝕んできた原因は被爆ではないか、と思ったのは2004年。広島から訪ねて来た母親が、病にひどく苦しむ娘の姿を見て、広島市で被爆していることを告げたのだ。それは被爆から59年も経っていた。それまで母親が黙っていたのには、深い理由があった。
広島と平壌とに遠く離れて暮らす母と娘・・・。桂先さんは、自分が被爆した時の詳しいようすを母親から聞きたい。だが日本政府の制裁によって、日朝間を行き来していた船は運行停止になり、母親は来られなくなった。行き来できない中で、被爆者の母親と娘は互いの健康を気遣う。そして映画は、誰も予想しなかった結末で終わる。
おととい、昨日と外へは出かけんと、家でゆっくりしとったさかい、今朝はちょっと調子がよかったわ。
昼から、散髪に行って、映画ヒロシマ・ピョンヤンを観てきたんや。監督のお話もあって 広島市立大学のキムさんのお話もあって…ほいでも 2時間半いうんは 今の僕にはちょっとしんどかったわ。帰ってきたらぐったりや…。
河野美代子クリニック院長や、元衆議員の金子哲夫さんが椅子を片付けよってんを横で見ながら 帰ってきましたわ。ごめんなさいね。
朝鮮への帰還船が始まったのは ちょうど小学校の4年か5年生かのころやねん。僕の出身地にはようけ在日朝鮮人が住んではったから ようけ帰りはったんやと思うわ。そのうちのお一人から父親あてに手紙が来とったんを覚えてます。
まだ9時にはなってないねんけど、しんどなったさかい 薬を飲んで寝ます。
おやすみなさい。