連れ合いがかかっている東京・清瀬の東京病院に行きました。暑い日でしたが、少し時間があったので広い病院の中を歩いてみました。
元国立結核療養所でしたので広い敷地には当時と思わせる緑陰もありました。
歩いて行くとこんな案内板がありました。
1944年アメリカでストレプトマイシンが発見されるまでは、「結核」は不治の病でした。療養所の患者さんたちが社会復帰に向けてとにかく体力維持のために「歩くこと」が基本と、歩け歩けを勧めた様子が書かれていました。
さらに進むと「外気舎」記念館がありました。説明文を読むと、ここは元傷痍軍人の療養所だったと書いてありまし。東京病院=結核療養所 は知っていましたが、傷痍軍人の病院とは初めて知りました。
この病院は、1931年 東京府立清瀬病院として設立され、1939年 傷痍軍人東京療養所が設置されたようです。これらが戦後、厚生省に移管され国立療養所になったようです。
傷痍軍人東京療養所は、戦争中結核に罹った軍人が収容され、72棟 140人が過ごしていたそうです。この建物はその当時の建物で、ここに2人が住んでいたとのことでした。結核に罹った軍人を空気の澄んだ外気の中で過ごしてもらおうと「外気舎」と名付けられたと書かれていました。
時あたかも、国会では日本を外国で戦争出来るようにするための戦争法案が審議されています。この法案が通れば、再び「傷痍軍人」が生まれるのは必定です。
私の住む所沢市には、防衛医科大学病院もあります。現在は一般市民が罹れる総合病院ですが、ここも傷痍軍人であふれるかもしれません。
こんな時代の再来を決して許してはいけないと思った今日の東京病院訪問でした。
元国立結核療養所でしたので広い敷地には当時と思わせる緑陰もありました。
歩いて行くとこんな案内板がありました。
1944年アメリカでストレプトマイシンが発見されるまでは、「結核」は不治の病でした。療養所の患者さんたちが社会復帰に向けてとにかく体力維持のために「歩くこと」が基本と、歩け歩けを勧めた様子が書かれていました。
さらに進むと「外気舎」記念館がありました。説明文を読むと、ここは元傷痍軍人の療養所だったと書いてありまし。東京病院=結核療養所 は知っていましたが、傷痍軍人の病院とは初めて知りました。
この病院は、1931年 東京府立清瀬病院として設立され、1939年 傷痍軍人東京療養所が設置されたようです。これらが戦後、厚生省に移管され国立療養所になったようです。
傷痍軍人東京療養所は、戦争中結核に罹った軍人が収容され、72棟 140人が過ごしていたそうです。この建物はその当時の建物で、ここに2人が住んでいたとのことでした。結核に罹った軍人を空気の澄んだ外気の中で過ごしてもらおうと「外気舎」と名付けられたと書かれていました。
時あたかも、国会では日本を外国で戦争出来るようにするための戦争法案が審議されています。この法案が通れば、再び「傷痍軍人」が生まれるのは必定です。
私の住む所沢市には、防衛医科大学病院もあります。現在は一般市民が罹れる総合病院ですが、ここも傷痍軍人であふれるかもしれません。
こんな時代の再来を決して許してはいけないと思った今日の東京病院訪問でした。