戦争には表に出ない諜報や謀略が必ずあります。先の戦争でその役割を担ってきた陸軍登戸研究所を見学しました。
昨日、13時、私たちを含め25人が渡辺専門委員の説明を聞きました。最初に、当時の写真を見ながら全景を聞きました。
明大生田キャンパス正門近くにある動物慰霊碑です。「動物」とありますが、人体実験を含む細菌の研究をしたことに対する自責の念から関係者が建てたのではないかと言われています。
弥心神社。弥心はい戦勝祈願のためです。その片隅に。「すぎし日はこの丘に立ちめぐり遭う」と記された碑がありました。昭和63年にかってここで働いていた有志が建てました。その方々が、資料館の開設に協力したそうです。
キャンパスの案内板です。「偽札」とあり、偽札作りの資料館でもあることを示しています。
資料館は登戸研究所第二科が実際に使用した建物をそのまま使っています。
資料館開設までの動画を見た後、各部屋を廻り説明を聞きました。
ここが造られたのは1937年だそうで、私が生まれた年です。
敗戦時にはすべての証拠を焼却するよう命じられたした。しかし、タイピストとして働いた女性の雑記録で、これが研究所の解明に大きな役割を果たしたそうです。
風船爆弾、真の目的は「爆弾」ではなく、「細菌」をばらまくの目的でアメリカ本土に飛ばしたそうです。
偽札製造の過程です。4番目に「古札仕上げ」とあり、使い古された紙幣に見せかけるためだそうです。
中華民国を混乱させるため、莫大な偽札が造られ、実際に中国で使われました。敗戦時には児玉誉士夫が偽札で蓄財し、戦後、政界フィクサーとして暗躍する資金にしたともいわれています。
敗戦まじか、研究所は長野県伊那地方に疎開しました。地元の伊那と川崎の高校生が、歴史の掘り起こしに大きな役割を果たしました。
戦後、アメリカは資料の提供を取引に、細菌研究などの研究委員を免罪したそうです。
戦後、程銀事件が起きましたが、そこれ使われたのがここで研究された毒薬ではないか との疑惑が生まれました。
解説委員は、その可能性があり、「平沢貞通さんは犯人ではないと思う」と個人的な感想を述べていました。
改めて、戦争の裏面を知ることになりました。
今、ガザで国際法も人道も無視しての病院への攻撃が行われています。戦争と言うものは、「何でもありの極道・人道無視の悪行」が行われています。それが戦争だと思います。
だから、「戦争だけはもうゴメンだ!」 の気持ちを改めて心に刻んだ一日でした。