囲碁きちの独り言 Ⅱ

趣味の旅行、うたごえ、囲碁の事や日常の出来事を記録する。

3回目の鵜の岬・・・

2021-05-21 13:15:41 | 旅行
泊ったところは茨城県日立市十王町の国民宿舎「鵜の岬」でした。日本で一番予約が取りづらい国民宿舎と言われています。夏休み期間中は抽選と言うことで申し込みが殺到しました。
しかし、コロナ禍で利用者が減り、今では当日でも泊まれるそうです。



鵜飼い用の鵜を捕まえるところでもsり、その捕獲場所が見学出来たり、園内では鵜が飼育されています。3回目の宿泊ですが今回はバリアフリーの身障者用の部屋に泊まりました。



連れ合いが呼吸器疾患を抱えているからです。部屋は広く、酸素の業者の方に液体酸素ヘリオスの親機を予め届けて置いてもらいました。この親機から携帯用の子機に酸素を移し替えて行動します。

到着後広い園内を散策しました。



スイレンが咲くいる池にはコイが沢山泳いでいました。遊歩道を30分程歩いた頃、雨が本降りになり、慌てて屋内に入りました。
夕食までのんびりと8階の展望温泉に入りました。太平洋を一望できますが、海は雨雲で鉛色でした。

連れ合いは「温泉に入ると呼吸が楽になる」と言います。それが小旅行に連れ出す理由です。



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茨城近代美術館へ・・・

2021-05-20 16:57:10 | 旅行
連れ合いとふたりで茨城に小旅行に出かけました。
梅雨の走りの悪天候で雨にたたれました。

初日も雨でしたので水戸市茨城近代美術館に行きました。
企画展は「日本画の150年」でした。



私は絵画についても無知ですので、そもそも日本画とはどんなものか も分かっていません。
墨絵みたいなものだ と思っていました。連れ合いは画布と染料が油絵と違うのではないか と言っていました。
会場を2時間かけてゆっくり半焼しました。



多分、都内の美術館ではのんびり、じっくり鑑賞することは出来なかったでしょう。入館者は少なく日本画を存分堪能しました。そして、改めて「日本画とは何なのか」?がわからなくなりました。

帰宅後、ネットで調べたら「日本画のはっきりした定義はない」ないようです。

常設展にはロダンの「三つの影」も飾られていました。



とっても立派な美術館でした。

因みに、ネットでは日本画についてこんな記述もありました。参考までに・・・。

「日本画」とは、1870年代にヨーロッパからもたらされた「油彩画・西洋画」に対して、それまでの日本にあった図画に対して用いられた用語であり、実は比較的新しい言葉なのです。そして、その定義はあいまいなまま用いられることも多いです。


アメリカの美術研究家であるフェノロサが1882年に講演で使った Japanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出だそうです。この講演でフェノロサは次のような点を日本画の特徴として挙げ、優れたところとして評価しました。

1.写真のように、写実を追わない。
2.陰影が無い。
3.鉤勒(こうろく、輪郭線)がある。
4.色調が濃厚でない。
5.表現が簡潔である。

フェノロサの通訳と助手をしていた岡倉天心は、1890年に東京美術学校(現在:東京藝術大学)の校長になり、日本美術院も作りました。岡倉天心が考えた「日本画」は、旧来の技法や様式を守るだけのものではなく、西洋画と対抗できるような「日本の絵画」としての「日本画」でした。
その意味での「日本画」は明治維新以降のものであり、例えば江戸時代の画家(絵師)の作品は「日本画」ではないということになります。ですから、例えば平安時代や奈良時代に描かれた絵巻物などの古典作品で日本的な主題を描いた絵はなんというのでしょうか?
それらは、「大和絵(やまとえ)」と呼ばれる絵になります。当時中国や朝鮮半島から渡来した技法や様式を「唐絵(からえ)」と呼び、それに対応する日本的なものを「大和絵」としました。呼び方やその区分は時代によって異なりつつも、海外から新しく入ってきた画風に対し、旧来のものを【日本の伝統的なもの】と考えるパターンが繰り返されてきたのです。
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ドタバタ、コロナワクチン予約・・・

2021-05-18 16:53:21 | 囲碁きちのつぶやき
呼吸器疾患を持つ連れ合いは、昨日、主治医から「コロナワクチン接種を受けた方がよい」と言われました。
私は先日、コールセンターに電話をしてやっと接種の予約をすることができました。
その様子を知っていた連れ合いは「スマホでやれば簡単だ!」と言っていました。高齢者枠での優先接種です。



スマホで簡単に予約が進みました。「1回目が6月〇〇日、2回目が7月〇〇日」と得意げに言いました。
しかし、最後に予約サイトから「連絡先のメール番号はスクリーンがかかっているのでスクリーンを外すように・・・」と指示されたようです。

「連れ合いはどうしたらよいのだろう?」と聞いてきました。私も良くわからないからスマホの会社に電話をして相談したら・・・」と答えました。
連れ合いがスマホの会社に電話をすると 「お客様相談センター」に電話するよう言われ、電話番号を教えてくれました。

教えてもらったところに電話をすると「電話が込み合っているのでかけ直してください」みたいな音声ガイドが流れサッパリつながりません。
結局、連れ合いはスマホでの予約をあきらめ、最初からの接種予約のコールセンターに電話をかけ直しました。
大分待たされましたが、最後は私と同じく電話での予約になりました。

それを見ていて、高齢者はスマホの取り扱いも慣れていないのでやはりネット予約はむづかしいのではないか と実感しました。
これでは「予約代行」などの詐欺も横行するのでは? と心配になりました。
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ワクチン接種するとこに・・・

2021-05-17 13:37:02 | 連れ合いの病気
今日は、連れ合いの呼吸器疾患の外来診察に同行しました。



病院の駐車場には夏草が花をつけていました。季節の移ろいが早すぎます。

採血、レントゲン、その結果を待って主治医の診察です。

肺のレントゲンの結果は「悪いなりに」安定していて、前回とほぼ同じ状態でした。
採血による各種検査も大きく変わるところはありませんでした。腎臓の数値が上がっているのは加齢によるもので特に問題視するほどではない と言われました。

最後に、コロナワクチンの接種について相談しました。「高齢者枠でワクチン接種のクーポンが郵送されてきたが、接種してよいか?」を聴きました。連れ合いは病気のために免疫抑制剤を服用しているからです。主治医の意見は「接種しておいた方が良いだろう」とのことでした。

コロナも怖い。でも、大変な基礎疾患を抱えているだけに副作用が心配です。
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米軍基地を返還させ、跡地に花を・・・

2021-05-16 16:28:54 | 囲碁きちのつぶやき
沖縄が日本に返還されて、49年が経ちました。しかし、沖縄の現状は米軍占領時と本質的に変わっていないと思います。私には、返還前は米軍の意向で、返還後は日本政府とアメリカ政府の意向で「統治」?されているようにさえ思えます。

琉球新報の記事です。

アメリカ軍政部の統治時代の米軍の発言が載っていますが、それが今でも続いているような気がします。
私自身の沖縄に寄り添う気持ちも不足しています。そんな反省も含めて、琉球新報と東京新聞の社説を読みました。
そして、一日も早く米軍基地を返還させて、基地跡に花を植える日が来ることを願っています。




<社説>沖縄復帰から49年 米軍基地の跡地に花を
2021年5月16日 06時47分
 沖縄の施政権が米国から日本に返還されて、十五日で四十九年がたちました。この間、米軍基地の返還は本土では進みましたが、沖縄県では遅々として進まず、県内にある在日米軍施設の割合はむしろ増えているのが現状です。
    ◇    ◇
 茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園にある小高い「みはらしの丘」は、この春もネモフィラの青い花で埋め尽くされました。
 花が終わるとコキア(ホウキグサ)に植え替えられ、夏には緑色の、秋には紅葉した赤い束が訪れる人々の目を楽しませています。
◆射爆訓練場から公園に
 太平洋を望み、今では花木にあふれるこの丘一帯は、以前「水戸対地射爆撃場(射爆場)」と呼ばれる米軍の訓練施設でした。
 もともと、太平洋戦争末期に特攻機も飛び立った旧日本陸軍の飛行場でしたが、終戦後に米軍に接収され、戦闘機が地上の標的を狙って射撃や爆撃の訓練などを行う場所として使われていました。
 周辺住民は騒音に加え、爆弾の誤投下や機関銃の誤射など基地が存在するがゆえの被害に苦しみます。茨城県が製作した記録映画によると、事故は周辺地域を含めて二百五十七件、民間人の犠牲は五人に上りました。
 基地の被害に耐えていた住民を覚醒させたのは、一九五七(昭和三十二)年八月に起きた悲惨な事故でした。射爆場の近くを自転車で走っていた母子を、超低空で飛んできた米軍のプロペラ機が車輪ではね、体を切断された母親が即死、息子が重傷を負いました。操縦していたジョン・L・ゴードン中尉の名前から「ゴードン事件」と呼ばれます。
 操縦ミスによる業務上過失致死傷で送検されましたが、公務中の事故とされ、当時の日米行政協定により不起訴処分となりました。
◆増える沖縄の基地負担
 しかし、住民の間には「故意だった」との怒りが広がり、やがて射爆場の返還運動に発展します。その動きは県内に広がり、県民大会も開かれました。
 七〇年に米軍の訓練が終わり、七三年には日本側に返還されました。これも県民の反対運動の高まりに押されたためです。跡地は地元の強い思いにより公園へと生まれ変わりました。花いっぱいの公園は、平和の象徴なのです。
 終戦直後、本土と沖縄との在日米軍基地の面積比率は九対一。本土の方が圧倒的に多かったのですが、五五年、東京都砂川町(現立川市)で起きた米軍立川基地拡張に反対する砂川闘争など反米反基地闘争の高まりを受け、本土に駐留していた海兵隊は当時米軍統治下の沖縄に移駐します。
 日米安全保障条約が改定される六〇年ごろまでに、本土の米軍基地は四分の一に減り、逆に沖縄では約二倍に増えた、といいます。
 七二年の沖縄復帰のころには、その比率は二対三となり、今では三対七と、本土から米軍基地を押し付けられた形の沖縄の基地負担比率は増していきました。
 六九年の日米共同声明と七一年の沖縄返還協定には「核抜き本土並み」という原則が示されます。
 日本政府は「核抜き」について沖縄に核兵器が存在しないこと、「本土並み」を、本土に駐留する米軍同様、沖縄に残る米軍を日米安保条約の枠内にとどめることを意味するとしてきました。
 ただ、当時の佐藤栄作首相は国会演説で、本土並みについて返還後の速やかな米軍施設、区域の整理縮小と関連づけて説明もしています。
 本土並みには米軍基地の整理縮小という含意があり、それが沖縄の人々の願いでもあったことは確かです。
 にもかかわらず、本土と比べてむしろ増える基地負担に、沖縄の人々が不満を抱くのは当然です。矛先は政府だけでなく、本土に住む私たちにも向けられています。
 米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還に当たり、沖縄県知事だった仲井真弘多氏は、移設先を「北海道から鹿児島までヤマトで探してもらいたい」と訴えました。
 政府が進める名護市辺野古への県内移設では、沖縄の人々の基地負担を抜本的に減らすことはできないからです。
 仲井真氏はその後、県内移設容認に転じましたが、沖縄の切なる思いを、本土の私たち自身が誠実に受け止める必要があります。
◆ネモフィラが示す希望
 冒頭に紹介したひたち海浜公園の話に戻りましょう。新型コロナウイルスの感染拡大で一時的な休園もありましたが、コロナ禍前には年間およそ二百万人が訪れる人気の観光地となりました。
 沖縄の米軍基地も花があふれる公園にできないでしょうか。沖縄の人々と本土の私たちの力を結集して政府を動かせば、返還が実現し、憩いの場に変えることができる。そんな可能性や希望を、ネモフィラの青い花は示しています。
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