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人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

新国立オペラで團伊玖磨「夕鶴」を観る~初演以来800回を超える日本のオペラにブラボー!

2016年07月03日 09時21分28秒 | 日記

3日(日)。昨夜は東京では初めての熱帯夜でしたね。暑くて眠れず、今年初めてクーラーを点けて寝ました。もっとも暦の上ではもう7月、夏です ということで、わが家に来てから644日目を迎え、何を勘違いしたか参議院議員選挙に立候補しようとして演説するモコタロです

 

          

            10日の投票日には児眠党公認のモコタロに1俵を(無洗米で)

 

  閑話休題  

 

昨日、初台の新国立劇場で團伊玖磨「夕鶴」を観ました 当初、1日のプルミエ公演を観る予定だったのですが、クラシカル・プレイヤーズ東京の公演と重なったため振替制度を利用して一日ずらしました この公演はダブルキャストで、この日の出演は、つうに腰越満美、与ひょうに鈴木准、運ずに吉川健一、惣どに久保和範。指揮は大友直人、管弦楽は東京フィル、演出は栗山民也です

 

          

 

「夕鶴」は民話に題材をとった木下順二の名作戯曲に、團伊玖磨が作曲した日本を代表する歌劇です  1952年の初演以来800回を超える公演回数を誇り、日本に限らず外国でも上演されている数少ない日本のオペラです

 

          

 

昔々、雪の深い村に純朴な与ひょうが、美しい妻つうと幸せに暮らしていた つうが織る千羽織は高く売れると評判になっている。与ひょうは運ずや惣どにそそのかされ、都で高く売るためにもっと布を織るよう、つうに強要する 与ひょうは、つうが布を織っているところを覗き見しないという約束をしていたが、我慢できずに覗いてしまう そこでは、鶴が羽根を織り込む姿が見えた。翌日、すっかりやせ細ったつうは千羽織を与ひょうに渡すと別れを告げ、空に飛び立っていくのだった

 

          

 

私がこのオペラを栗山民也の演出で観るのは2000年12月と、2011年2月に次いで3回目です 前回の公演からもう丸5年が経ってしまったのか、と感慨深いものがあります

舞台は極めてシンプルです。雪野原の中に1本の木が立っており、右端に一軒の農家がある・・・まさに民話の風景です

今回つうを歌った腰越満美は東京コンセルヴァトアール尚美ディプロマコースを修了。二期会オペラ研修所等を経て文化庁派遣芸術家在外研修員としてイタリアに留学、95年にはフェッルッチョ・タリアヴィー二国際コンクールで第1位を獲得しています 新国立オペラでは常連のソプラノ歌手です。最初、ちょっと声量が足りないかな、と心配しましたが、物語が進むにしたがって本調子になってきました 与ひょうから「都に行って金儲けをしたいからもっと千羽織を織ってくれ」と言われて つうが歌う「あんたはどうしたの?あんたはだんだん変わっていく。あたしとは別の世界の人になっていく・・・」と不安と哀しみを歌うアリア(レチタティーボ)は聴衆の共感を誘いました ほとんど太田裕美の「木綿のハンカチーフ」の世界です

与ひょうを歌った鈴木准は東京藝大大学院修了。この人も新国立オペラでは常連のテノール歌手です 汚れを知らない純朴な与ひょうを、明るいテノールと自然な演技で見事に表現しました

日本のオペラを観る時にいつも感じるのは、日本語の扱いの問題です そこで今回、気になったのはプログラムに寄せられた東大教授・長木誠司氏の「オペラ史の中の團伊玖磨『夕鶴』」という論考です

「もしオペラ『夕鶴』が日本の日常語との違和感を持たずに聞こえるとしたら、それは木下順二が編み出した、どこのものとも同定できない独特の方言の口調(それがあるからこそ、木下は原作を一語一句変更してはならぬという厳命を團に投げたと思われる)に原因がある このいわば『作られた伝統』ならぬ『作られた方言』は、それがゆえに非常に自由なイントネーションを許容し、同時にそれによって、いかにもどこぞの方言らしい奇妙な『方言』を自由に操って物語を進める姿に、まったく不自然さは認められない

「問題になってくるのはオペラのなかで唯一、方言でなく標準語を操る主人公、つうの扱いであろう つう役に当てられた音型も、けっして逐一日常会話的なイントネーションを持っているわけではない。しかしながら、まさにそれゆえにこそ、このつうのコトバを奇妙に操る異人、あるいはヒトならぬ存在に映るのである

つまり、このオペラで出てくる方言は、例えば東北地方のそれでもなく、九州地方のそれでもなく、どこの方言でもない「作られた方言」であって、それだけにどんなイントネーションで話そうが許容される、ということです さらに、その「作られた方言」さえも話さないつうの言葉は「標準語」なのですが、日常的にわれわれが使用している標準語のイントネーションとは異なる言い回しで語るので、つうは人間ではなく本当は鶴の化身であることを表しているということです

そうしたことを頭の隅に置いて、プログラムの「『夕鶴』上演史~日本から世界へ」を読むと、2005年にメキシコですべてメキシコ人の出演者による日本語による「夕鶴」公演が挙行されたという事実、2007年にはチェコでも日本人を含まない出演陣による「夕鶴」公演が挙行されたという事実があります そこでは、与ひょう・運ず・惣どたちの「作られた方言」と、つうの「標準語」はどのように表現されたのだろうか また、これから海外で上演されるであろう「夕鶴」はどのように表現されるのだろうか 逆に、日本人がイタリアやフランスのオペラを歌う時に同じような問題があるのではないか? 海外で活躍する日本人歌手はそうした問題をある程度クリアしているからこそ海外でも受け入れられているのではないか?・・・そんなことを思いながら出演者のカーテンコールに拍手を送りました

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