10日(日)。昨日、すみだトリフォニーホールで新日本フィル第517回定期演奏会を聴きました プログラムはマーラー「交響曲第7番ホ短調」で、指揮はダニエル・ハーディングです
オケは向かって左から奥にコントラバス、前に第1ヴァイオリン、右にチェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンという対向配置、言わばハーディング・シフトを採ります コンマスはチェ・ムンス。舞台のど真ん中はチェロですが、上森祥平の隣にソリストや室内楽で活躍する辻本玲がデンと構えています
マーラーはこの曲を1904年から05年にかけて作曲、08年9月にチェコ・フィルを自ら指揮して初演し、その後09年にオーケストレーションを一部改訂しています 5つの楽章から成りますが、第2楽章と第4楽章が「夜の音楽」と題されているのが特徴です そして、最後の第5楽章が昔から「マーラーとしては失敗作ではないか」と言われてきた「ロンド・フィナーレ」です
ハーディングのタクトで第1楽章が始まります。アダージョからアレグロに移りますが、時に木管が咆哮し、弦楽器、そして打楽器さえも圧倒します。2つの「夜の音楽」のうち興味深いのは第4楽章「アンダンテ・アモロ―ソ」です ギターとマンドリンが加わって”セレナーデ”を奏でるのですが、オケを抑え気味に演奏しても、90人以上のフル・オーケストラの中では、音の小さいギターとマンドリンの音は消されてしまいます。2つの楽器がはっきりと客席に聴こえるのはほんの1分あるかないかです
マーラーはそういうことを理解しながらも敢えてこの2つの楽器を使ったのだと思いますが、「やがて私の時代が来る」と予言していた彼だけに、「いつか録音技術によって、ギターやマンドリンの音も明確に聴き取れる時代が来る」と考えていたのかも知れません
ハーディングの指揮でマーラーの第7交響曲を聴いていると、90分近くかかる大曲がそれほど長く感じません 同じ大曲でもブルックナーの交響曲はすごく長く感じます。おそらくブルックナーは同じメロディーの繰り返しが多いからだと思われます マーラーは次々と目先が変わり飽きることがありません もっとも、マーラーの曲でも指揮者によっては長く感じることもあるので、一概には言えないかも知れませんが
閑話休題
プログラムのプログラム・ノートのことを再度取り上げます。11月号でもトりフォニーシリーズは評論家A氏が書いています。3ページにわたるプログラム・ノートの最後に次のように書いています
「サイモン・ラトルは終楽章を『もっとも悲劇的なハ長調の音楽』と語ったそうだが、それは勝利や幸福の達成の不可能を告知する虚無的な意味からだろう。バロック組曲であれば祝祭も空騒ぎも可能だが、マーラーが前2作の純器楽交響曲で力強く示したドラマの構成法とは異なる。むしろ曲自体がその陰画のようだ。古典的な形式観を採って交響曲の伝統との格闘を内的に劇化した第6番の先にみえてきたのは、バロック時代の形式や新旧の音響空間の画布を借り、さらに前衛的で虚無的に、明朗快活な哄笑が通う脱構築の場であった」(原文のまま)
またしても、これが何を言いたいのか分からないのです 何となく分かったような気がしますが、よく考えるとさっぱり分からないのです 同じプログラム・ノートでもサントリー・シリーズを担当しているM氏や新クラシックの扉シリーズを書いているO氏の解説は非常に分かり易いのです。やはりA氏の個性の問題なのでしょう
プログラム・ノートや曲目解説に芸術はいらない と再度言っておきます。あくまで聴衆がコンサートを聴くのに助けになることを分かり易く書いてほしいと思います
〔追伸〕これを書いている最中の午前7時38分頃、関東地方で震度3の地震がありました