人新世の「資本論」

2021年02月11日 09時32分35秒 | 社会・文化・政治・経済

人新世の「資本論」 (集英社新書)

斎藤 幸平 (著)

人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

【各界が絶賛!】
■松岡正剛氏(編集工学研究所所長)
気候、マルクス、人新世。 これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。日本はそんな才能を待っていた!
■白井聡氏(政治学者)
「マルクスへ帰れ」と人は言う。だがマルクスからどこへ行く?斎藤幸平は、その答えに誰よりも早くたどり着いた。 理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。

【おもな内容】
はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第1章:気候変動と帝国的生活様式
気候変動が文明を危機に/フロンティアの消滅―市場と環境の二重の限界にぶつかる資本主義
第2章:気候ケインズ主義の限界
二酸化炭素排出と経済成長は切り離せない
第3章:資本主義システムでの脱成長を撃つ
なぜ資本主義では脱成長は不可能なのか
第4章:「人新世」のマルクス
地球を〈コモン〉として管理する/〈コモン〉を再建するためのコミュニズム/新解釈! 進歩史観を捨てた晩年のマルクス
第5章:加速主義という現実逃避
生産力至上主義が生んだ幻想/資本の「包摂」によって無力になる私たち
第6章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
貧しさの原因は資本主義
第7章:脱成長コミュニズムが世界を救う
コロナ禍も「人新世」の産物/脱成長コミュニズムとは何か
第8章 気候正義という「梃子」
グローバル・サウスから世界へ
おわりに――歴史を終わらせないために

【著者略歴】
斎藤幸平(さいとう こうへい)
1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。
Karl Marx’s Ecosocialism:Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economy (邦訳『大洪水の前に』)によって権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初歴代最年少で受賞。
編著に『未来への大分岐』など。

 

「眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼ならきっと人新世からの呼びかけにも応えてくれるはずだ (p138)」。

この一文を読んで評者は、この本は要するに「マルクスの大霊言」なのだと思ってしまったのだが、あまりに手放しで絶賛するレビューばかりなのに驚いたので敢えて☆一つ。

読む価値がないという意味ではないのだが,マルクスに立脚した近代資本主義批判が広く浸透せず、また実効性も持ちえていない現状の理由が本書の論の進め方に顕れてしまっているように思えるのだ。

1. まず著者は本書冒頭で「SDGsは大衆のアヘンである!」と、マルクスにならって声高に宣言したかったようだが、いきなり大きな見当違いをしている。

最近、巷で皮相的な「SDGsビジネス本」や「SDGsビジネスモデル」が氾濫し、いわゆるグリーン・ウォッシュならぬ「SDGsウオッシュ」の様相を呈していて、アリバイ作りというかこうした便乗ビジネスには評者もつくづく辟易しているが、本来SDGsに込められた理念と設計は単なるアリバイ作りではない。

SDGs達成度を計測する指標として200以上の項目が設定されているが、その1/3以上は、特に途上国において、これまでデータがまともに取られてきたことがない指標である(例えば生物多様性関連指標とか)。

つまり筆者の言を借りれば、これらは「犠牲を不可視化」され「外部化された環境負荷」のデータであり、その実態をなんとかして可視化しようという試みがSDGs達成の下に世界で行われているということを著者は全く理解していない。

こうした試みを「アヘンである」と勢いよく切って見せた後で、著者は何に基づいて透明性のある対策を産み出そうというのか。

本書を最後まで読んでも、不可視された犠牲を可視化して、環境負荷を内部化する具体的な枠組や方法論が著者から示されているわけではない。

また本書の中で様々な環境関連データを著者は引用して自らの論を補強しているが、引用している研究成果をあげている世界的な研究ネットワークがSDGsの成立にも深く関わっていることを著者はどう考えるのか。

そもそも人と環境の関係の複雑さの全貌は、まだ私たちの全然理解の届かないところにあるのだ。

その複雑さを外部性として切り捨てて成立しているのが、今の資本主義の主流派理論であって、SDGsを推進することで現代の資本主義経済の外部性を可視化しようという試みを日本の状況だけ見て切り捨ててしまうことで、冒頭から本書が批判する対象と同じ過ちを著者は結果的には犯していることになっている。

だいたい国連SDGsを「大衆のアヘン」を呼ばわりすなら、著者が持ち上げるグレタ・トゥーンベリを「大衆の偶像」だと糾弾しないと話の辻褄が合わないだろう。彼女が最初に脚光を浴びたのは国連の舞台なのだから。

2. 現在使われている意味での地質年代を「人新世(Anthropocene)」という用語を1980年代半ばに最初に使ったのは生態学者のユージン・ストローマーであり、ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンではない(p.4)。

調べればすぐわかることだが、2000年にクルッツェンとストローマーが共著論文で、その後2002年にクルッツエンが単著でNatureに載せた「Geology of Mankind」がきっかけで広く知られるようになったでのある。

また、人新世はまだ正式には新たな地質年代とは認められていないが(2021年に正式決定の予定)、欧米では早い時期から厳密な地質学的な年代としての「人新世Anthropocene」という用語と、一方で主に人文社会科学の分野で人間の経済活動がもたらした地球環境危機の時代という漠然とした意味で「人新世」という言葉が広く使われるようになっており、当初からその混用がもたらす語義の拡大解釈や混乱に「ソーカル事件」を念頭に懸念を表明する研究者が多数いた。

タイトルに「人新世」を謳いながらこうした基本的な事実誤認があるようでは、「マルクスが地球環境危機に有用である」という主張をノーベル化学賞受賞者の名前で権威付けして補強したいがためのアリバイ作り程度にしか、この著者も人新世を巡る議論を理解していないと思われてしまうのではないか。

ちなみに日本においては、気候系の自然科学分野では「人新世」ではなく「人類世」という訳語が使われている。

3. 本書で紹介されているエコロジー経済学を始めとした非主流経済学、Political Ecology、文化人類学、世界システム論や従属理論といった分野からの帝国主義批判・資本主義批判・新自由主義批判は特に目新しいものではない。

本書にも引用されているが、ナオミ=クラインの「これがすべてを変える」で紹介されているような事例と同じと言えば同じである。

当然、著者は同じような事例を紹介しながらも、本書の主題としてこうした批判の源流を後期マルクスの論考に求めて「マルクスの遺言」として現代的な意義の復興を目論むのであるが、ここで評者の疑問は、マルクス以降の自然科学・社会科学の成果を取り入れた現代の資本主義批判を、後期マルクスの論考にこういう形で無理矢理に紐付ける必要がどこにあるのだろうかというものだ。

今、私たちが直面している経済格差と環境危機に対する処方箋は、マルクスの遺言かどうかは、マルクス研究者以外にとっては有り体に言えばどうでもいいのであって、その処方箋がそれぞれの文化・社会に適用した時に効くかどうかだけが私たちの問題なのである。

後期マルクスの論考は多くの研究者・マルクス主義者も誤解しており、資本主義がもたらした環境危機=物質代謝の攪乱に対するエコロジカルな意識の萌芽が後期マルクスの論考にあることがMEGAプロジェクトで明らかになりつつあるということの学術的な意義と、実はマルクスは現代の危機についてこうまで預言していたのである!とその先見性と無謬性をアジテートするのは全く別の話だと思うのだ。

というのも、例えばエドワード・サイードがマルクスに対して欧州優越主義であると批判したことに対して、マルクス研究者ですら今発見しつつあるマルクスの論考を根拠にサイードの見方を一面的である著者が主張するのは、贔屓の引き倒しというかサイードにとってはなんとも不公平な批判にしか思えない。

4, 冒頭での「一面的」な著者のSDGs批判にあるように、批判対象を矮小化して自らの正当性を主張するやり方そのものが、古くは日本における労農派と講座派との間の日本資本主義論争に見るように、マルクス主義が求心力を失った原因の一つではないのか。

国連SDGsの理念には、マルクスの帝国主義批判の影響を受けて第二次大戦後の国連の舞台で先進国の横暴に対して今で言うグローバル・サウスの立場での論陣を張っていた開発論者たち、例えばプレビッシュ、ジンガー、ミュルダールらの思想の水脈が反映されている部分がある。

つまりSDGsはマルクスの蒔いた種子が時代を経て現代的な形で芽吹いているという面があるはずなのだが、そうした派生形ではなく、「彼なら「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ (p.138)」というように御本尊そのものを召喚して、現代社会の直面する危機へ処方箋としてマルクス主義を復興させたいというの著者が望むところであれば、それは本末転倒というものであろう。

そもそも公正な社会の建設や(今より小規模なレベルでの)環境危機への対応は、近代資本主義の勃興とそれに対置されるマルクス主義の対立以前から世界各地で人間社会に存在していた問題なのであって、それに対する処方箋も世界各地の文明や社会に存在してきた。

共産主義やマルクス主義が、今でもFxxkよりも禁忌な言葉である場所が存在するこの世界で、著者のいう「脱成長コミュニズム」という統一的な旗の下に万国の市民が結集できると思うのはあまりに夢想的なのではないか。

一方でそれぞれ地域の文化に深く根ざした仏典、コーラン、ヒンズー経典や先住民族の文化を丹念に掘り起こしてSDGsとの親和性を確認することで文化多様性を尊重しながら現代的な社会発展との融和を計りつつ、持続的な社会の(再)構築の処方箋を見つけ出す努力が進められているが、著者の主張する統一的な「脱成長コミュニズム」パラダイムには、こうした社会の生存様式・存在様式の多様性を担保するものがあるとは思えない。

また、繰り返しになるが多様な生存様式を互いに尊重し自らの価値感を押しつけあわない有り様がマルクスの原典に紐付けられる必要も感じない。

5. こうしたマルクス回帰のための著者の我田引水については、ピケティに対する言及(p.287)に関しても見られる。ジジェクの批判を援用して、「ピケティが「社会主義」に転向した」とかマルクス陣営に鞍替えしたような印象を与える恣意的な記述をするのはどうなのか。

「21世紀の資本」出版後のピケティが、そのタイトルにもかかわらず”Capital et idéologie”カンファレンスで共産主義・社会主義からの影響を問われて、「資本論は読んだことがないから考えがわからない」と答えているように、彼は慎重なまでにマルクスとの距離を取っている。

これはジジェクを含むマルクス主義者が不可視化された資本主義の搾取や環境負荷を理念的に批判する一方で、データと実証分析でそれを可視化する努力を怠っていることへの暗黙の批判であろう。

ピケティのグループが進めている仕事はまさに近代資本主義に内在的に存在してきた問題を可視化することで処方箋を見つけようという地道な努力なのだから、安易に一緒くたにされても困るはずなのだ。アンドレアス・マルム への言及に関しても同様で(p.240)、彼はPolitcial Ecologyか環境人類学の研究者であって「マルクス主義の歴史家」ではないだろう。

この章で展開されている水やエネルギーに関する筆者の主張はエネルギー科学・水文学といった分野が専門外なのでしょうがないのかもしれないが、理解のレベルが低すぎる。

人類は水力を捨ててもいないし、人類史上で土地や水が安定的に「潤沢」であったことなどない。今、著者の目に土地や水が潤沢に見えるとするなら、それは言うまでもなく化石燃料のおかげとしか言い様がないのだが。

産業革命時の化石燃料が広がった理由は資本の囲い込みや希少性云々の話ではなく、1単位の石炭投入で蒸気機関を使ってそれ以上の石炭が採掘できるという、それまでのエネルギー利用に関する制約を突破するまさに革命的な強みがあったからである。

筆者の理屈でいえば、別に木材・木炭でも独占できるし持ち運びも出来るのだが、木炭では投入した以上のエネルギーを得ることはできないし、化石燃料とはエネルギー密度が圧倒的に違う。

マルムの議論もそうした化石燃料のエネルギーの特性を前提にして資本主義社会発展への影響を論じているだが、エネルギーやら物質を扱う自然科学に関する理解が浅いがために引用の仕方が自らの主張を補強するための恣意的なものになってしまっている。

「マルクスの遺言」を引き継ぐというのであれば晩年まで化学・農学・生物学・物理学などの当時の最新の成果を出来うる限り自らの思想に取り込もうとしていたマルクスに敬意を払って、この著者も他の学問領域への理解を深める必要があると思うのだが。

6. またマルクスはあくまで自然と人間を二元論的に対置しており、著者の主張もそれを媒介する労働と生産様式のあり方の変革を促すものだ。

しかし自然と人間が一元論的に存在している社会があることを西洋もついに「発見」しているが、これもマルクスの系譜を引く構造主義―文化人類学の成果の一つなのだ。

資本主義経済の搾取の対象となった「コモン」あるいは「コモンズ」といった自然共有資本については、自然-人間の関係が一元論的である世界観に基づく利用のルールが何世代にもわたる持続的な利用を担保してきた例は極めて多いのであって(例えば一元論的な世界では、自然は人格化(あるいは神格化)され、人間の関係は「労働と生産様式」ではなく互酬性を帯びた「奉仕と贈与」であり得る。未開な考えとして虐げられて来たわけだが。

ゴールデンカムイで紹介されるアイヌ文化が一番わかりやすい例かも)、ということはマルクスの原典に忠実であろうとすればするほど、異国の神を呼び戻して二元論的な世界観とその世界認識の瑕疵を再び押しつけることになり、その意味ではサイードの批判は今なお有効であろうと思うのである。

7. 前述したようにマルクスの資本主義批判は、様々な学問分野でマルクスの時代に存在しなかった科学的知見も取り込みながら様々な学問分野で影響を与え続けて進化・発展している。

その意味で後期マルクスのエコロジカルな思想の全貌を詳らかにするという著者の研究には敬意を払うものであり、その知られざる構想を紹介する部分については☆5つではある。

が、ここまで批判してきたように、本書はあくまでマルクスのオリジナルな思想を、現代社会への処方箋としての復活を唱える呪文としか読めないので☆1つ。

青木孝平が「コミュニタリアン・マルクスー資本主義批判の方向転換」で近代資本主義思想の背景となっている方法論的個人主義・リバタリアニズム批判として、コミュニタリアニズムとしてのマルクス主義という読み替えを行っている。

下手にマルクスへの原点回帰を目論むよりは、青木の道具主義的な方法論の方が現代的なマルクスの読み方として評者にはよっぽどしっくり来て有効だと思うのだが、原理主義の方々には原典軽視に見えて我慢ならないのだろうか。

マルクスに対する広く一般の誤解を解くという筆者の目論見は、本書の論理展開では、一つの旗の下に集まりたがるわりには、小異について延々内向きで非建設的な議論で時間を浪費し続けるリベラルさん達にしか届かないだろうなあというのが一番残念に思うところなのだが。

(10月29日追記)
他のレビューが☆5つの大絶賛が並ぶ中での☆1つの、しかも長文のレビューが最上位に上げられているということは、本書を手に取り問題意識に同意出来ても、違和感を感じる人が多かったということなのだろう。再読して見たが、初読時に比してより恣意的な引用と論理の破綻がより目に付いただけだった。

本書での現代の資本主義批判は、現代の自然科学や社会科学の成果を著者が後期マルクスの「レンズ」を通して解釈してつぎはぎしているだけで、マルクス経済学の理論的な立場を現代的に再構成して批判するものではない。

そもそも現代の環境危機を反映してのマルクス的な「資本」の論考にすらなっていないとも思う。批判しているばかりではどこぞの野党みたいなので、参考になったという評価をつけた方々に向けて対案とまではいかないかもしれないが、補足と評者として考える方向性を追記しておく。

上記のレビューでも書いたように著者はSDGsの本質を理解してない。さらに言えば、SDGsには本来グローバル資本主義・新自由主義に対する「毒」が仕込まれていることにも気づいていない。

逆に、グローバル企業やブレイクスルー・インスティテュートのような新自由主義の側はそれに気づいているからこそSDGsをアリバイ作りにつかって骨抜きにしようとしているのであって、本書で提示する現状認識と問題設定であれば、著者がまずすべきはSDGsの否定ではなく「免罪符」とされることへの徹底した抵抗を掲げなければいけなかった。マルクスの亡霊に引っ張られて初手から間違っているのだ。

SDGには17の目標が設定されているが、基本的には等価で全部大事という理念で目標の優先度はそれぞれの国や地域の実情に合わせて推進していくという国際的な合意がある。

これがいかに画期的なことか。SDGsにおいてはSDG8「経済成長」は17のうちの単なる1目標でしかない。

世界銀行やIMFが長年に渡り主導してきた資本主義的経済成長を優先せず、中米のコスタリカのようにSDGsの理念に基づいてSDG16「平和」とSDG13,14,15「環境保全」を国家の社会経済政策の中心軸に据えるという選択を取る国の意思は尊重されなければならない、ということが合意されているということなのだ。

つまりSDGs達成を目指すことで脱成長へと舵を切ることが可能になる枠組が用意されているのであって、ここにSDG12「持続可能な消費と生産」を加えてもいい。SDG12を突き詰めれば大量生産・大量消費という資本主義経済の原動力からの脱却を図らざるを得ないことになる。

近代資本主義のバックボーンたる新古典派経済学の理論は、その数学的頑健性を根拠にこれまで数多の批判を寄せ付けてこなかったわけだが、その理論的数学的頑健性を保証するために不可視化されてきた「外部性」、搾取や環境負荷がSDGsを推進することで可視化されて「外部性」では済まされないということが明らかになれば、グローバル資本主義経済の理論的支柱が揺らぐ可能性が高まる。

(新古典派経済学な意味での)社会的厚生の向上のための経済成長を一義的目標として組み上げられた理論体系は、SDGsの枠組で気候変動や生物多様性保全が社会における経済成長と等価の社会発展の目標として扱われるだけでも現実との整合性と信頼を失うことになる。これがSDGsに仕込まれている「毒」だ。

グローバル資本主義に抗うために、コミュニズムの旗を掲げるのとSDGsが骨抜きされないように監視しながら本来の意図に沿って推進するのと、どちらがより現実的な選択かは言うまでもないだろう。

経済学的な見地からもう一つ突っ込みをいれておくと、著者は脱成長コミュニズムの柱として「使用価値経済へ転換」すれば大量生産・大量消費のから脱却できるようなバラ色の話をしているが、著者も例を出しているリチウムイオン電池に使われるコバルトを考えて見よう。

コバルトはコンゴ民主共和国に集中して存在している資源だが、国際市場での「価値=価格」はあっても、コンゴの技術レベルを考えるとコンゴの国民にとってコバルトの「使用価値」は存在しない。

では、誰にとっての「使用価値」でコバルトの価格は決められるべきなのだろう?

マルクスの時代の資本は、鉄・カルシウム・炭素・銅・鉛など高々10種類以下の元素で構成されていたので資源の地域的な偏在性がそこまで問題にならず、また経済や技術レベルに現代ほど地域格差が広がってはなかったので、世界のいろいろな場所での資源の「使用価値」に大きな違いがなかったのだが(当時では労働価値の地域差の方が大きい。

なので当時の経済思想では労働や搾取が議論の中心になっていた)、現代ではウランやらニッケルやらレアメタルやらレアアースやら地域的偏在性の高い資源が生産に必要な経済になっているので、そうした資源が埋蔵されている場所での「使用価値」と利用される場所での「使用価値」が全く異なってしまっている。

国際市場での需要と供給でコバルトの価格が決まるという主流派経済学も環境負荷の外部性を扱えない一方で(もはや不可逆的な環境破壊に外部性への補償原理が成り立つ訳がない)、こうした現代のグローバル商品の属性については、価値と使用価値に分類するマルクスの設定も無効な事例が数多く存在しているのが「人新世」の経済システムなのであって、要するに本書が展開する主張も批判対象も世界経済の基本設定が18世紀から大してアップデートされてないのだ。

これが多くの読者がなんか違うなあ、と思う理由の一つなのだと思うし、評者が「マルクスの大霊言では処方箋になり得ない」と言う理由でもある。

マルクス経済学の用語でいえば、マルクスが格闘していた(そして理論体系を打ち立てるのに失敗した)国際労働価値論の、グローバル経済における資源版みたいなものであって、これは確かにマルクスの時代には想定されていなかった問題ではある。

ただ途上国に存在する資源や第一次産品の価格が不当に低く押さえられていることがが南北経済格差と環境不正義の原因の一つである。

にも関わらず、著者が後期マルクスに立脚した「理論」とかいう割には、現代のグローバル経済の「資本」を構成する資源の国際価値論のマルクス的再検討という核心の所が本書からは抜け落ちているのである。

なのでこの追記の冒頭に、そもそも資本の「論」にすらなっていないではないかと批判したのだ。気候変動だの地球環境危機だの煽ったわりには、脱炭素社会を構築していく上でどうしても必要となる稀少な資源を産出する国に対する正当な対価をどう設定して応分の負担を共有していくかという分配理論を避けて通って、使用価値への転換だの、グローバルサウスに学べとか言われても何だかなあだし、エコロジカルな取り組みをいくら進めようと物質収支的には外部からのエネルギーと資源を消費する場でしかない都市の連帯とか耳障りのない話で締め括られてもねえ。

世界の農村部にはまだ未電化の生活している人口が10億人以上いるんですけど。多分著者のいう連帯の輪の勘定には入ってないんだな、うん。クリーンエネルギーでの電化を目標に掲げるSDGとかどうでもいいらしいし。

 

【すぐ上のレビューに関して】
同じ本を読んだとは思えない、不思議なレビュー。
12月30日に投稿されたレビューが丁寧に論点整理してくださっているので
気になる人は読まれてみてはいかがでしょうか。

【初読の際に書いたレビュー】
「SDGsは大衆のアヘンである!」という強烈な出だしに、アドレナリンが出てしまい、
徹夜に近いかたちで、ひといきに読み終えました。最後まで面白い。素晴らしすぎる。

絶対的におすすめしたいのは、こんなことを思っている人たち。
資本主義は限界がある。それはそう。だけど、どうする? どういう未来を描く?

この本では、他の書が太刀打ちできないほど、具体的に、未来の絵柄が描かれています。
そのキーワードは<コモン>。<コモン>の領域を生産の次元で広げていく
新しい社会の可能性に心が躍りました。

 

現代は、人間の経済活動が地球の表面の隅々までを覆い尽くし、環境破壊・気候変動が深刻な時代である。地質学的には、いわゆる「人新世」と呼ばれる時代に突入しているが、一体何がこのような事態を引き起こしたのかと言えば、それは行き過ぎた資本主義のせいだ、と言わざるを得ない。

資本主義というシステムは、地球環境を含めたあらゆるものを収奪し、それに伴う負担を外部に押し付けて不可視化し、無限の経済成長を続けることによって、地球環境を危機に陥れ、ひいては我々人類の生存をも脅かそうとしているのである。

また、ごく少数の大富豪が世界の半分以上の富を独占している事実からも分かるように、資本主義はごく一部の人々だけが潤い、後の大多数の人間が彼らに搾取され続けるという、我々一般人にとっては全く救いのないシステムでもある。
そんな現代で再評価されているのが、カール・マルクスの思想である。古臭い左翼思想だと笑うなかれ。マルクスの思想は、有名な『共産党宣言』『資本論』ではごく一部しか表れていないのである。

マルクスは、その晩年に至るまで真摯な研究を続けており、その思想は年を重ねるにしたがって大きく転換していったという知られざる事実がある。晩年のマルクスが唱えたのは、「脱成長コミュニズム」とも呼ぶべきもので、これは今までどの社会主義国家も実現出来なかったものであった。

その詳しい内容については、本書を読んでもらう他はないが、従来のマルクス主義とのあまりの違いに驚かされるのは間違いない。
本書は、右派のみでなく、甘っちょろい左派・リベラル派も超越した内容である。イデオロギーに囚われることなしに読んでもらいたい一冊である。

 

人類による地球破壊の自虐性は、「人新世・資本論」の主軸となる課題である。
その処方箋として「脱成長コミュニズム」の飽くなき追求が必要となるが、そのヒントは
、意外にも晩期「カール・マルクス」の思想の中に眠っていたようだ。

この点につき、本著とリンクする形で直近に読んだ「マルクス・ガブリエル 危機の時代を
語る」(NHK出版新書2020年9月10日第1版初出)において「マルクス・ガブリエル」氏
(以下MGと記す)が「カール・マルクス」(以下CMと記す)について語った興味深い発
言がある。

以下に示そう。
「私(MG)は、マルクス(CM)主義者で『ありません』が、それについては注意しなけ
ればなりません。マルクス(CM)主義のイデオロギーは世界最大の国、中国を動かして
いるイデオロギーなのです。共産主義は、失敗したという考えも『ひどい誤り』である。
中国は『うまくいっているのではありません』。私が指摘しておきたいことは、現在のと
ころマルクス(CM)主義は『まだ終わってない』ということです。」(同著26頁)。

マルクス主義は『まだ終わってない』というところは、晩期「カール・マルクス」(CM)
の思想を意識してのことだろう。中国は『うまくいっているのではありません』。という
のは、「古びた近代化」、本著でいう、「生産力至上主義」や「エコ社会主義」を意味し
ているともとれる(本著197頁:図17参照)この点から、「カール・マルクス」(CM)
の晩年とそれ以前の「古びた近代化」とは「ギアーが変わった」ことが意識できよう。

さらに、共産主義は、失敗したという考えも『ひどい誤り』というところは、「気候ファ
シズム」と「気候毛沢東主義」との混合形態(=全体主義)が、謳歌している現状を看過
することはできない状態を意味する(本著113頁:図14参照)。

一例を挙げよう。
チベット活動家のマウラ・モイナハンは、三峡ダムを取り巻く何か月も続く大雨と洪水に
よる都市灌水被害の背後には、中共によるチベットの軍事化、水の武器化の一端として、
チベット高原の水、第三の氷河といった水資源の寡占支配が続いていることを指摘してい
る(脱党支援センター2020年9月18日参照)。

その上で、このような指摘には、イデオロギーがもたらす弊害は、「国富」の収奪という
より、「公富」の収奪が帝国主義的に行われることを含意する。
これは、広く、グローバル・サウスとグローバル・ノースの対立構造に同置できることを
も意味する。

そこで、不平等や権力性を緩衝・解決する目的に向けて、「脱成長コミュニズム」の中核
である「コモン」の問題が浮上し、市民参画の主体性が重視されるのである。
この点につき、本著では、グリーンニューディール政策などを問題提起し、その深淵を探
索する。また、「脱成長コミュニズム」の5本の柱を打ち立てるなど、興味深い解釈論を
展開する。

なお、本著「人新世・資本論」は、今後の「理論」発展を示唆して「解釈」論的体系を試
みたものであるが、その一助として、対談形式の「未来の大分岐」(集英社新書2019年8
月14日第1版初出)との併読はお勧めだ。

 


“いらない労働”があふれる社会でどう豊かさを取り戻すか

2021年02月11日 09時02分22秒 | 社会・文化・政治・経済

2020/10/20(火) 11:01配信

文春オンライン
環境問題の突破口はマルクスにあった
斎藤 はい、「有限な地球で無限の経済成長する」こと自体に無理があるんです。だとすると、資本主義そのものに大胆なメスを入れる必要がある。

 資本主義が経済成長という形でしか解決策を出せない中で、気候変動の問題がここ30年以上放置されてきた状況を考えるとき、私にとってその問題解決の突破口となったのがマルクスの思想でした。

 マルクスはこれまでずっと環境思想や環境問題の扱いがヘタクソな思想家だと誤解されてきましたし、それを受けて労働運動も環境問題を軽視してきました。

 しかし、最新の文献研究を踏まえてマルクスを見直すと、晩年にエコロジー研究と共同体研究に没頭し、「脱成長コミュニズム」という地点に到達していたことがわかります。そのビジョンは、環境危機が深刻化する「人新世」の時代に必要な、新しい経済モデルの大きなヒントを示しています。こうしたマルクスのビジョンは、150年ものあいだ、ずっと眠っていたものです。

 ですから、ここで言うコミュニズムは、ソ連のいわゆる共産主義とはまったく違ったものです。むしろソ連は国家主導型の資本主義だったと言っていい。資本主義の場合は企業を資本家が経営するわけですが、ソ連は資本家に代わって国家官僚が管理したというだけ。実質的には、資本主義的な生産性向上や無限の経済成長を目指したものだったのです。けれども、官僚主義の弊害で、技術革新や市場のメカニズムを通じたスクラップ&ビルドが起きず、結局はアメリカ型資本主義に負けてしまった。

 でも、この失敗は、マルクスの脱成長コミュニズムには関係ありません。マルクスは、官僚による管理ではなく、多くの市民が参加して、〈コモン〉を管理するというビジョンを抱いていました。〈コモン〉とは、誰もが必要とするもの、社会的に人々に共有され、管理されるべき富を指します。水や電力、住居、医療、教育といったものですね。これを公共財として、市民が共同管理する。〈コモン〉という公共財の領域をじわじわと広げた先に豊かなコミュニズム型社会が出現する。つまり、〈コモン〉主義なのです。

――ライフラインをはじめ社会に必要な部分を市民が共同管理するというのはユニークなビジョンですね。

斎藤 いまの社会では、貨幣で買わないといけないものが多すぎます。ありとあらゆるものが商品になってしまって、私たちは自分の力では何ひとつ作ることができない無力な消費者になってしまった。

 たとえば水の商品化。本来、〈コモン〉であるはずの水が商品になることで、資本的価値は増大するのかもしれませんが、それによって逆に人々は貧しくなる。それは資本主義にとっては都合のいいことですが、生きるのに必要不可欠なものを何でもお金で買わないと入手できない社会は、人々にとっては非常に過酷なシステムです。

 貨幣に依存しなくても生きていける〈コモン〉の領域を増やしていくことは、危機の時代に社会を安定させる要です。逆の方向に進むと、万人の万人に対する闘争状態、秩序なき野蛮状態に向うでしょう。

――著書の中で「ラディカルな潤沢さ」というビジョンを掲げていますが、〈コモン〉という方法によって市民が豊かさを取り戻したモデルケースはありますか。

温暖化を過小評価するのは慰めになるから
斎藤 気候変動が人為的な理由から起きているというのは、世界の科学者たちの常識、コンセンサスになっています。人間社会の出す二酸化炭素は温暖化に影響がないなどと議論をしている人たちは、少なくとも国際会議やEUの政治の場にはいません。

 にもかかわらず、日本で温暖化問題を過小評価する議論が多いのは、それが慰めになるからです。自分たちのせいじゃない、太陽の活動の問題だから人間にはどうにもできない、だから、個々の生活を改める必要はないというように。このように、現実を直視することを避けていたほうが楽ですよね。

 もうひとつの事情として、日本ではCO2を減らそうという大義名分で原発が推進されてきた過去があるので、反原発の人たちは二酸化炭素温暖化説に対して懐疑的な立場をとっているというのがあります。

――たしかに環境問題に意識の高いはずの人たちが、温暖化問題には距離を置くというねじれの構造がありますね。

斎藤 でも、本来であれば原発の問題も気候変動の問題も、問題を一部の人々に負担を押しつける構造はまったく同じです。

 原発でいえば東京で使う電力を、危険な技術を使って福島の人たちに押しつけ、そこで出た核廃棄物を今度は北海道に押しつけようとしている。つまり都市部の人たちの放埓な生活のツケを、将来の世代や地方の人たちに回して、「外部化」している構造です。

――先進諸国が資源を収奪し、ごみ処理をグローバル・サウス(途上国)に押し付けてきた構図と同じ、ということでしょうか。

斎藤 その通りです。本来は、反原発と反気候変動というのは、同じ問題を扱っているはずなんです。便利な暮らしのために、危険なものを地方や途上国や未来の世代に残さないということ――これはさまざまなイデオロギーや立場を超えて科学的な見地に立って、みなが協調して取り組むべきことであって、環境正義の問題なんです。

 いま、中国、アメリカ、インド、ロシア、日本の5カ国だけで世界のCO2排出量の6割を占めています。環境負荷のかけ方が特定の国々に著しく偏っている実態があり、日本もその責任から免れられません。

 もう一つ馬鹿げた話があって、オックスファムの最新の研究によると、世界のトップ1%の富裕層が下半分の50%の人たちのなんと2倍ものCO2を出している。なかでも排出量が多いのは、0.1%の超富裕層です。彼らの世界各地の豪邸をプライベートジェットで転々とするようなライフスタイルをやめさせるだけで、CO2排出量は大幅に削減できるのです。

――超格差社会の驚くべき実態ですね。

広告がなくなっても社会は困らない。オリンピックも同じ
斎藤 無論、超富裕層のみならず最終的には私たちの生活ももっと変える必要があるでしょう。店が年中無休24時間開いていて、大量消費・短期消費が当たり前というライフスタイルをやめて、社会全体で一度スローダウンする必要がある。

 資本主義システムの本質は際限のない膨張です。常に投資して、常にマーケットを切り開いて、常により多くの商品を売りさばいて価値を増やしていく。これを続ける限り、いくら小手先で自然エネルギーを増やそうが電気自動車に変えようが、環境問題を抜本的に解決することはできません。

 たとえば電気自動車は2040年までに2億8000万台まで普及することが予測されていますが、ガソリン車も増え続けるので、削減されるCO2はわずか1%に過ぎません。こうしたエコ政策への取り組みはいわば先進諸国の免罪符となるだけで、実質的にほとんど環境危機への有効な対策とはなっていないのです。

 図らずもコロナ禍で露呈したのは、医療・福祉をはじめとするエッセンシャル・ワーカーの重要性と、私たちの社会はあまりにも「いらない労働」が溢れていたという事実です。コストカットを極限まで進めてきた結果、マスクのような生活必需品は自国でつくる余裕がない一方で、いらないものばかりつくって広告で消費を煽ってきたことが明らかになった。

 たとえば人通りが少なくなって渋谷ハチ公口のスクランブル交差点の広告がなくなっても、コロナ禍において誰も困らなかった。一等地のエキシビションに広告を掲出するとなれば多額のお金がかかって、モデルの出演交渉から映像制作まで多大の労力やエネルギーを要するでしょうが、広告がなくなっても社会はまったく困らない。オリンピックも同じです。でも、もしゴミ収集の人がいなかったら非常に困るし、医療従事者や介護・福祉に携わる人が手を止めてしまったら、社会は破綻します。

 そういう仕事は得てして低賃金の労働ですが、私たちが都合のいいときだけ「彼女たち大事だよ!」と言うのではなく、積極的に支援し、社会全体で人間にとって本質的に必要不可欠なものを中心的につくる経済に移行する必要がある。いま、本当の意味での効率化やイノベーションを進めるべき時が来ていると思います。

――社会モデルの大転換が必要ということでしょうか。

環境問題の突破口はマルクスにあった
斎藤 はい、「有限な地球で無限の経済成長する」こと自体に無理があるんです。だとすると、資本主義そのものに大胆なメスを入れる必要がある。

 資本主義が経済成長という形でしか解決策を出せない中で、気候変動の問題がここ30年以上放置されてきた状況を考えるとき、私にとってその問題解決の突破口となったのがマルクスの思想でした。

 マルクスはこれまでずっと環境思想や環境問題の扱いがヘタクソな思想家だと誤解されてきましたし、それを受けて労働運動も環境問題を軽視してきました。

 しかし、最新の文献研究を踏まえてマルクスを見直すと、晩年にエコロジー研究と共同体研究に没頭し、「脱成長コミュニズム」という地点に到達していたことがわかります。そのビジョンは、環境危機が深刻化する「人新世」の時代に必要な、新しい経済モデルの大きなヒントを示しています。こうしたマルクスのビジョンは、150年ものあいだ、ずっと眠っていたものです。

 ですから、ここで言うコミュニズムは、ソ連のいわゆる共産主義とはまったく違ったものです。むしろソ連は国家主導型の資本主義だったと言っていい。資本主義の場合は企業を資本家が経営するわけですが、ソ連は資本家に代わって国家官僚が管理したというだけ。実質的には、資本主義的な生産性向上や無限の経済成長を目指したものだったのです。けれども、官僚主義の弊害で、技術革新や市場のメカニズムを通じたスクラップ&ビルドが起きず、結局はアメリカ型資本主義に負けてしまった。

 でも、この失敗は、マルクスの脱成長コミュニズムには関係ありません。マルクスは、官僚による管理ではなく、多くの市民が参加して、〈コモン〉を管理するというビジョンを抱いていました。〈コモン〉とは、誰もが必要とするもの、社会的に人々に共有され、管理されるべき富を指します。水や電力、住居、医療、教育といったものですね。これを公共財として、市民が共同管理する。〈コモン〉という公共財の領域をじわじわと広げた先に豊かなコミュニズム型社会が出現する。つまり、〈コモン〉主義なのです。

――ライフラインをはじめ社会に必要な部分を市民が共同管理するというのはユニークなビジョンですね。

斎藤 いまの社会では、貨幣で買わないといけないものが多すぎます。ありとあらゆるものが商品になってしまって、私たちは自分の力では何ひとつ作ることができない無力な消費者になってしまった。

 たとえば水の商品化。本来、〈コモン〉であるはずの水が商品になることで、資本的価値は増大するのかもしれませんが、それによって逆に人々は貧しくなる。それは資本主義にとっては都合のいいことですが、生きるのに必要不可欠なものを何でもお金で買わないと入手できない社会は、人々にとっては非常に過酷なシステムです。

 貨幣に依存しなくても生きていける〈コモン〉の領域を増やしていくことは、危機の時代に社会を安定させる要です。逆の方向に進むと、万人の万人に対する闘争状態、秩序なき野蛮状態に向うでしょう。

――著書の中で「ラディカルな潤沢さ」というビジョンを掲げていますが、〈コモン〉という方法によって市民が豊かさを取り戻したモデルケースはありますか。

デトロイトの事例に学べ
斎藤 資本主義だと貨幣を持ってないとアクセスできないものに対して、誰もが無償でアクセスできるという潤沢さが〈コモン〉の特徴です。

 ひとつ示唆に富んだ事例を紹介すると、アメリカのデトロイトは自動車産業の衰退によって、街の治安が悪化していました。

 でも、自分たちの街をなんとか変えたいと思う人たちが、市街地の空きビルを使って時計を作る工場を始めたり、みんなで共同組合をつくって街なかで有機野菜を生産するアーバンファームを始めて地元のレストランで使ってもらったりと、生産する力を自分たちの手に取り戻し、地域のコミュニティをつくり出していった。

 それまではグローバル企業の利潤追求のために大量生産に従事していたのが、住民たちが協同して地域のための働き、誰もがアクセスできる〈コモン〉の場を立ち上げていくライフスタイルを作り出そうと試行錯誤しています。これはデトロイトの例ですが、日本の地方再生の問題にもいろいろと応用できると思います。

――希望の持てる事例ですね。ここでひとつ疑問があるのですが、〈コモン〉の場が広がっていったとき、社会全体を成り立たせるための必要な生産性や技術力、ひいては労働意欲は担保されるのでしょうか。

斎藤 間違いなく担保されるでしょう。デヴィッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』が指摘していますが、資本主義のもと企業の内部の論理には官僚制がはびこっています。セクショナリズムや縦割りの指示系統、細分化されたルールで、知識の共有は阻害され、短期的な効率化しか追求できなくなっている。ここ数十年の資本主義体制における真の技術革新はインターネットぐらいで、実はあまりイノベーションを起こせていないのではないでしょうか。

 そういう観点を踏まえると、市場の短期的な競争と効率化を重視する社会をやめて、一部の人や企業が技術や特許を独占する状態を解体し、知識や労働の場をシェアする環境を作っていくと、むしろ自由な発想からイノベーションが生まれやすくなる可能性が高いでしょう。短期で利益を出すために人々が1日10時間も働く必要はどこにもなく、むしろ社会全体において本当に必要な仕事にリソースを割くことで、ゆとりと創造性が生まれてきます。

 人は、自分の創造性を発揮できることや、人から感謝されること、社会に本当に貢献できる、大きいやりがいのある仕事は自ら進んでやるはずです。

 いま私たちの社会は一人ひとりの働き方を含めて、無限の経済成長を求めて人間や自然を収奪することを見直すべき、分岐点に差し掛かっていると思います。本書が資本主義の限界に突き当たってしまった時代における、オルタナティブの提示になれば嬉しく思います。

(写真:杉山秀樹)

1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。Karl Marx’s Ecosocialism: Capital, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy(邦訳『大洪水の前に』)によって、ドイッチャー記念賞を日本人初、歴代最年少で受賞。編著に『未来への大分岐』など。

斎藤 幸平/ライフスタイル出版