未解決事件 NHK
File.05ロッキード事件
事件の年表
1976年(昭和51年)
2月4日
米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード社が航空機売り込みのための対日工作を証言
「ピーナッツ100個受領」の領収書公表
2月6日
ロッキード社コーチャン副会長が「丸紅・伊藤宏専務に支払った金が政府高官に渡った」と証言
2月16日
衆議院予算委員会で証人喚問が始まる
2月18日
ロッキード事件で初の検察首脳会議が開かれる
2月24日
検察庁、東京国税局、警視庁の三庁合同で丸紅本社や児玉邸など、27か所を一斉捜索
三木武夫首相、フォード米大統領に資料の提供を求める親書を送る
3月1日
衆議院予算委員会で第二次証人喚問
3月4日
児玉誉士夫の臨床取り調べ開始
3月13日
児玉を約8億5374万円分の所得税脱税で起訴
3月23日
児玉邸に小型機が自爆攻撃、操縦していた自称右翼の男が死亡
3月24日
米国からの資料提供に関する日米司法取り決め調印
4月2日
田中角栄前首相、田中派の「七日会」臨時総会で「所感」表明
4月10日
米国からの資料が検察庁に到着
5月10日
児玉誉士夫を外為法違反で追起訴
5月13日
自民党の椎名悦三郎副総裁、田中前首相、大平正芳蔵相、福田赳夫副総裁が“三木(首相)おろし”を画策していたことが判明
6月10日
児玉の通訳、福田太郎が死亡
6月22日
特捜部、偽証罪で丸紅・大久保利春前専務を逮捕
同地検と警視庁、全日空・澤雄次専務ら3人を外為法違反で逮捕
7月2日
特捜部、丸紅・伊藤宏前専務を偽証罪で逮捕
7月7日
特捜部、全日空・藤原亨一取締役を外為法違反で逮捕
7月8日
特捜部、全日空・若狭得治社長を外為法違反と偽証罪で逮捕
7月9日
特捜部、全日空・渡辺尚次副社長を偽証罪で逮捕
7月13日
特捜部、丸紅・檜山廣前会長を外為法違反で逮捕
7月27日
特捜部、田中前首相、榎本敏夫元首相秘書を外為法違反で逮捕
田中前首相、自民党を離党
8月2日
田中前首相の私設秘書兼運転手・笠原政則の自殺体発見
8月16日
田中前首相を受託収賄・外為法違反で起訴
丸紅・檜山、大久保、伊藤を贈賄で起訴
8月17日
田中前首相、保釈(保釈金2億円)
8月20日
特捜部、佐藤孝行・元運輸政務次官を受託収賄容疑で逮捕
8月21日
特捜部、橋本登美三郎・元運輸大臣を受託収賄容疑で逮捕
1977年(昭和52年)
1月21日
小佐野賢治・国際興業社主を偽証で起訴
児玉誉士夫を脱税、外為法違反で起訴
1月27日
丸紅ルート 第一回公判 田中、榎本は5億円の受領を否認
6月2日
児玉誉士夫 審理開始
1981年(昭和56年)
11月5日
児玉ルート東京地裁判決、小佐野賢治 懲役1年(控訴)
1982年(昭和57年)
1月26日
全日空ルート東京地裁判決
若狭得冶 懲役3年・執行猶予5年(控訴)
渡辺尚次 懲役1年2か月・執行猶予3年(有罪確定)
6月8日
全日空ルート東京地裁判決
橋本登美三郎 懲役2年6か月・執行猶予3年・追徴金500万(控訴)
佐藤孝行 懲役2年・執行猶予3年・追徴金200万円(控訴)
1983年(昭和58年)
10月12日
丸紅ルート東京地裁判決
田中角栄 懲役4年・追徴5億円(控訴)
榎本敏夫 懲役1年 執行猶予3年(控訴)
檜山廣 懲役2年6か月(控訴)
伊藤宏 懲役2年(控訴)
大久保利春 懲役2年 執行猶予4年(控訴)
1984年(昭和59年)
1月25日
児玉誉士 夫死亡につき公訴棄却
4月27日
児玉ルート東京高裁判決
小佐野賢治 懲役10か月・執行猶予3年(上告)
1986年(昭和61年)
5月14日
東京高裁、佐藤孝行に対し、控訴棄却(上告取り下げ有罪確定)
5月16日
東京高裁、橋本登美三郎に対し、控訴棄却(上告)
5月28日
東京高裁、若狭得治に対し、控訴棄却(上告)
11月12日
小佐野賢治 死亡につき公訴棄却
1987年(昭和62年)
7月29日
丸紅ルート東京高裁判決
伊藤宏 懲役2年・執行猶予4年(上告せず有罪確定)
大久保利春 懲役2年・執行猶予4年
(伊藤以外の被告人は上告)
1990年(平成2年)
2月13日
橋本登美三郎 死亡につき公訴棄却
1991年(平成3年)
12月17日
大久保利春 死亡につき公訴棄却
1992年(平成4年)
9月18日
最高裁、若狭得治に対し上告棄却(有罪確定)
1993年(平成5年)
12月24日
田中角栄 死亡につき公訴棄却
1995年(平成7年)
2月22日
最高裁、榎本敏夫および檜山廣に対し、上告棄却(有罪確定)
ただし、コーチャンらの嘱託尋問調書については証拠能力を否定
田中角栄はアメリカにハメられた…今明かされる「ロッキード事件」の真相
黒幕は、とあるアメリカ高官だった…
春名 幹男国際ジャーナリスト
1976年7月27日、アメリカの航空機メーカー、ロッキード社から違法な政治献金を受け取ったとして、田中角栄前首相が逮捕された。「戦後最大の汚職事件」とも言われるロッキード事件である。しかし逮捕の決め手となった証拠は、角栄の外交政策に批判的だったあるアメリカ高官が、意図的に日本側へ流したものだった。田中角栄は誰にハメられたのか? 新刊『ロッキード疑獄』から紹介する。
ロッキード事件は「復讐劇」か
どんな陰謀も「動機」なしに企むことはない。動機があるから企みを実行する。動機はしばしば、「怒り」から生じる。怒りは突発的なものであり、時とともに鎮まって、忘れてしまえば、雲散霧消することもあり得る。
だが、怒りは度重なると「憎しみ」となり、さらに「復讐」の動機を生む。復讐のための陰謀を企むと、「純粋性」を失い、さまざまな計略を考える。哲学者の三木清は、そんな人間の業を教えてくれる(注1)。
ロッキード事件をめぐって、数々の陰謀論が流布している。しかし、これまでに浮上したどの陰謀説も、動機を立証できていない。
『ロッキード疑獄』は第一部で、田中角栄を葬った実行行為を特定し、法執行機関による捜査、刑事的決着までを描いた。
田中角栄元首相[Photo by gettyimages]
だが、田中角栄はなぜ葬られたのか。ここでその理由を解明しなければならない。
長年にわたる取材で、実は田中角栄は、日中国交正常化以後、首相在任中の外交課題で繰り返しキッシンジャーらの激しい怒りの対象になっていたことが分かった。怒りは雲散霧消することなく、憎しみに深化していったとみられる。
キッシンジャーが、田中の外交に復讐していたことも分かった。その事実は、今に至るも、日本の外務省にもまったく知られていない。
アメリカ国務長官の恐ろしい謀略
ロッキード事件は、国際政治スキャンダルでもあった。英語ではこの事件は「スキャンダル」とも呼ばれている。ここでは、「事件」と「スキャンダル」を分けて考えてみたい。「事件」の方の動機、例えば贈賄の動機は立証済みであり、ここでは追及しない。
ここで探るのは、政治家としての田中を葬った、国際的な「スキャンダル」の動機である。田中が“被害者”となったスキャンダルに、殺人事件の捜査手法を当てはめてみたい。
殺人事件の捜査なら、(1)殺害の凶器、(2)殺害の方法、(3)動機について、証拠を認定することが必要不可欠となる。
(1)田中を葬った凶器とは、「Tanaka」もしくは「PM(首相)」などと明記した証拠文書である。
(2)方法とは、その文書を日本側に引き渡し、刑事捜査を可能にした手続き。つまり、「キッシンジャー意見書」と日米司法当局間の文書引き渡し協定だ。文書は、意見書に基づき、米証券取引委員会(SEC)に渡され、日米協定に従い、最終的に東京地検に渡った。
その結果、東京地検による贈収賄罪事件の捜査が可能になった。キッシンジャーはその際、自ら実行行為に参画したわけではなく、補助的な役割を演じただけだった。
しかし、スキャンダルも、(3)動機が証拠付けられなければ成り立たない。その動機は、刑事事件の動機ではなく、田中を政治的に葬るという動機である。
既述の通り、(1)を含む文書を(2)が示す方向で、最終的に東京地検に届くよう導く役割を演じたキーマンは、事件発覚時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーだった。
残された課題は、キッシンジャーにどんな「動機」があったのか、なかったのかを確認することである。
「田中外交」への嫌悪感
私とほぼ同じ時期に、米国政府文書を取材していた朝日新聞の奥山俊宏も、キッシンジャーが田中に対して「痛烈な皮肉の言葉を浴びせた」ことを文書で読んでいた。
しかし、発見した文書の数が少なかったせいか、キッシンジャーが田中を嫌った真の理由には到達しなかったようだ。「キッシンジャーの田中への軽蔑の念が少なからず影響した」あるいは「キッシンジャーは、政策ではなく、その人格の側面から田中を蛇蝎のごとく嫌って……」などと、個人的な感情の問題に帰してしまっている(注2)。
元アメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャー[Photo by gettyimages]
確かに、キッシンジャー発言には感情的な言葉が多々見られる。しかし、2人は公人同士であり、政策や外交戦略に絡む対立が出発点で、それに個人的葛藤が付随したのだ。
田中を葬ることにつながる、キッシンジャーの「動機」を示す文書記録は多数残されていた。対立は「日中国交正常化」から、日本の「中東政策」、「日ソ関係」などの外交分野に広がっていた。
眠っていた極秘資料
筆者は、ロッキード事件の取材を15年前、まさに「動機」を突き止める作業から始めた。
ある刺激的な秘密文書の存在を、長年の畏友が教えてくれたのがきっかけだった。
「国家安全保障文書館(ナシヨナル・セキユリテイ・アーカイブ)」という、民間調査機関の上級アナリストを務めるウィリアム・バー。2005年10月のことだ。
その前年に、彼のドキュメンタリーがABCテレビ番組「機密解除・ニクソンの中国訪問」で放映され、エミー賞ニュース・ドキュメンタリー調査部門賞を受賞していた。
彼が日本を訪れ、赤坂で食事をした際に、「驚くべき文書を発見した」と明かしてくれた。
ニクソン大統領(左)とキッシンジャー(右)[Photo by gettyimages]
その機密文書は翌2006年5月、国家安全保障文書館のホームページにアップされた。テーマは「ニクソン―フォード政権時代の秘密外交を詳述する2100件のキッシンジャー『会談録』文書」の一つだった。今も、ネット上の同じページに掲載されている(注3)。
筆者をロッキード事件取材に駆り立てたこの文書は、1972年8月31日付で、「トップシークレット/センシティブ/特定アイズオンリー」と指定された「会談録」だ。「アイズオンリー」とは、配布後に回収される文書で、機密度が非常に高い。
キッシンジャーの激しい「怒り」
キッシンジャー大統領補佐官は、その中で、田中角栄とみられる日本人らを烈火の如く「ジャップは上前をはねやがった」と罵っている。
キッシンジャーはなぜ、そんなに怒っていたのか。「上前をはねた」とは、一体どういう意味なのか。疑問が募った。
この文書こそ、まさにキッシンジャーの激しい「怒り」を示した文書だったのだ。しかも、田中による日中国交正常化を厳しく非難した言葉だった。
この文書からスタートして、米国立公文書館やニクソン大統領図書館、フォード大統領図書館などで、田中首相在任中の米国の文書を渉猟した。長年の取材で分かったのは、キッシンジャーとニクソン大統領が、政治家田中の外交政策を嫌悪していたことだった。
「日中国交正常化」だけではなかった。第四次中東戦争に伴う石油ショックで、田中は日本外交の軸を「アラブ寄り」に転換し、さらに独自の日ソ外交を進めた。日ソ外交で、田中は今も知られていない復讐をされていた。
田中角栄と周恩来[Photo by gettyimages]
興味深いのは、田中自身を含めて、日本政府側は当時も今も、こうした米側の思考と外交をほとんど認識していないことだ。
ただ、日本の「アラブ寄り外交」への転換について、田中とキッシンジャーは激論を闘わせており、田中も米側の意向を十分理解したに違いない。
三木清ではないが、キッシンジャーの怒りは度重なり、「復讐心」を持つほどのレベルに達していったのである。
注釈
(注1)三木清『人生論ノート』、新潮文庫、1954年、51~57頁
(注2)奥山『秘密解除』、278~279頁
(注3)National Security Archive Publishes Digitized Set of 2,100 Henry Kissinger “Memcons” Recounting the Secret Diplomacy of the Nixon-Ford Era, 2019年7月8日アクセス