貧しくとも高貴である日本人
「私が決して滅ぼされないよう願う一つの民族、それは日本人だ。かくも興味深い古い文明が消滅してはならない。日本人ほど驚くべき発展をした民族は他にない。人口は多いものの、貧しくとも高貴である」1943年11月、作家で詩人のポール・バレリーと行った対談で、ポール・クローデルは語っている。(毎日新聞・客員編集委員の西川恵さん)
1924年、実業家渋沢栄一と二人が中心となり、日仏文化の交流の拠点となる日仏会館を設立。
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フランスの劇作家・詩人ポール・クローデル(1868-1955)が駐日大使として着任したのは、大正10(1921)年11月のことであった。
クローデルは、外交官試験に首席で合格し、後には駐米大使まで務めた有能な外交官であったが、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子として有名な姉カミーユ(1864-1943)の影響で、幼い頃から日本への憧れをもっていた。
外交官になることは、日本へ行くための近道と考えたという。
昭和2(1927)年4月に駐米大使に転出するまで、休暇帰国を挟んで約4年半滞日し、政財界の要人や文化人らと交遊した。
その間、関東大震災を経験、日仏会館の開設に尽力し、代表作となる戯曲『繻子の靴』を書き上げている。
カトリック詩人として知られるクローデルであるが、日本人の感性を深く理解し、俳句や都都逸風の短詩作品や日本文化を主題とした随筆集(邦題は『朝日(=日本)の中の黒い鳥(=くろうどり=クローデル)』)を残している。
クローデルは滞日中、公私の用件で各地を旅行し、多くの要人・文化人らと親交を結んだ。アリスティド・ブリアン(1862-1932)外相の進めた国際協調路線を基調に、積極的な対日接近を図り、その努力は日仏会館の設立等に結実した。しかし、クローデルの離日後、日本は国際的に孤立を深め、彼が本国宛ての外交書簡で警戒を示していた軍部の台頭を招いて破滅への道を歩むこととなる。日本の敗戦の報に接したクローデルは、「Adieu, Japon!(日本よ、さようなら)」と題する一文で古い日本を惜別した。
「私が決して滅ぼされないよう願う一つの民族、それは日本人だ。かくも興味深い古い文明が消滅してはならない。日本人ほど驚くべき発展をした民族は他にない。人口は多いものの、貧しくとも高貴である」1943年11月、作家で詩人のポール・バレリーと行った対談で、ポール・クローデルは語っている。(毎日新聞・客員編集委員の西川恵さん)
1924年、実業家渋沢栄一と二人が中心となり、日仏文化の交流の拠点となる日仏会館を設立。
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フランスの劇作家・詩人ポール・クローデル(1868-1955)が駐日大使として着任したのは、大正10(1921)年11月のことであった。
クローデルは、外交官試験に首席で合格し、後には駐米大使まで務めた有能な外交官であったが、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子として有名な姉カミーユ(1864-1943)の影響で、幼い頃から日本への憧れをもっていた。
外交官になることは、日本へ行くための近道と考えたという。
昭和2(1927)年4月に駐米大使に転出するまで、休暇帰国を挟んで約4年半滞日し、政財界の要人や文化人らと交遊した。
その間、関東大震災を経験、日仏会館の開設に尽力し、代表作となる戯曲『繻子の靴』を書き上げている。
カトリック詩人として知られるクローデルであるが、日本人の感性を深く理解し、俳句や都都逸風の短詩作品や日本文化を主題とした随筆集(邦題は『朝日(=日本)の中の黒い鳥(=くろうどり=クローデル)』)を残している。
クローデルは滞日中、公私の用件で各地を旅行し、多くの要人・文化人らと親交を結んだ。アリスティド・ブリアン(1862-1932)外相の進めた国際協調路線を基調に、積極的な対日接近を図り、その努力は日仏会館の設立等に結実した。しかし、クローデルの離日後、日本は国際的に孤立を深め、彼が本国宛ての外交書簡で警戒を示していた軍部の台頭を招いて破滅への道を歩むこととなる。日本の敗戦の報に接したクローデルは、「Adieu, Japon!(日本よ、さようなら)」と題する一文で古い日本を惜別した。
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